表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/32

09-4

「あー、うん。桜子ちゃんはね、泣き落としされる位がちょうどいいんだよ」

そう言いながら、鼻で軽くあしらうように笑う直人の足元、崩れ落ちるように両膝をついた智也がゴボリという音をたて激しく咳き込んだ。

薄黒い地面を覆う水面に鮮血が滲み溶けて混じっていく。

それを遠巻きに見つめる朔の瞳は冷静で平等な慈愛を装ってはいるものの、一個体へのみの不安感が過るのを確かに直人は見た。

直人自身が求めた行動とはいえ、伴う結果が想像以上に酷かった。念のためと、こんな時の為に呼んだ人物はまだこの端境の周辺に気配をみせない。直人の中で多少の苛立ちが生じ初めるが、それを表に出さないくらいの理性はまだ内に残っていると思いたい。

「……で、さ。本題なんだけど。目の前の君が遥香ちゃんだってのは見てわかる。けどさ、今のメインはどっちのハルカちゃん?遥香ちゃん?遥さん?僕の前に今いるのはどっち?」

直人の言葉が終わるやいなや、少女の足元の雨水が渦巻き、一本の太い蛇の尾のような形をとると、うねり意思を持つかのように直人に向け打ち付けてくる。しかし、そんなもの、咄嗟の反応さえ遅れだした智也を庇いつつ軽々と直人は片手ではね避け、人の悪い笑みをあえて浮かべてみせる。後半の自分の声とは思えぬ無感情の響きに、直人は自身の未熟さに情けなさを感じつつも背筋がゾクゾクした。


「へぇーそういうことか。なーるほど……。なぁー、おい直人。ハルカちゃん達、怯えるだろうが」

唇の端から赤黒い糸を垂らしたままでも絵になってしまう智也が、本人はニヤリと笑ったつもりだろうが、汚れたそこを震わせ、やっと納得出来たと直人を見上げた。けれど、直後そのまま再び激しく咳き込みその両手を水の中につけ、握ったままの大鎌を着水させる。

「いいんだよ。これぐらいで。いつもだってそうだろ?……てか、智也ってまだ意識あったのかよ。ないわー。マジないわー。しぶといわー」

心配でないと言えば嘘になる。けれど今は、自身をも直人は欺かなければならない。それは弱味として周囲に把握されたくはないということもあるが、何より智也はこんな些細なことで自身の定めた道を放棄するような男ではないことを直人は知っているからだ。だから無意識からくるであろう震える指先を直人は誰にも見せまいとさらに強く大剣を握りしめた。

「前々から思ってたんだけどさー。直人は人間じゃないモノには手厳しいよな?」

「うーん。智也よりは優しいよ?」

多分どこかのブランドものであろう水と泥と血をよく吸ったジャケットの袖口でぐしゃりと口元をぬぐった智也がふらつくであろう足に力を入れ、大鎌を杖がわりに再度立ち上がって見せる。

「どの辺が?」

「全部」

若干見下ろされる視線の相手がどこまで直人の考えを把握しているのか直人には計れない。わかればどれほど気持ちの持ちようがかわるだろうにといつも思う。主に後ろめたい方でだが。

「本当、お前嘘が下手くそだな」

「智也の冷徹を装った優しさほどしゃないよ」

繋がっているようで繋がっていないまま、交わす軽口にどうやら思っている以上に、直人の稚拙な策略は悟られているのかもしれないと直人はやはり当初の案の決行を心に決めた。



「何が君たちを関係付けたのかなんて僕個人は全く興味ないんだけど、状況的にはそういうことも言ってられなくてねー」

下らないことだと、目の前で確実な殺意を身に纏う少女の姿をした何かに話しかける。直人から見た感じならば、何かしらの妥協点はあったものの、亀裂を生じさせる問題点の方が大きすぎて完全な意志の共通化はおろか、肉体の奪い取り自体が不完全な状況なのだろう。それが幸運なのか不運なのかは本人達ではない直人には計りきれないところではあるが、だが。

「いつも周囲に無関心を装う直人にしては珍しいわね」

再び新たな攻撃を仕掛ける水の塊を操りながら、ふふっと艶やかに笑う少女の笑顔はその見た目の年齢に不相応過ぎて逆に痛々しささえ感じさせる。

「いやー、ハルカちゃん。直人の事よく知ってるねー。今の直人、珍しく激オコなんだわー」

大鎌にすがり、何とかギリギリのラインで意識を保っているであろう智也が少しでも少女達を直人から守ろうと悪足掻きにしては拙いふざけた言葉を投げ掛ける。

「そりゃ、幼なじみだからねぇ。逆に知らなかったら別の意味で怖い。マジ怖い。そういやぁ、この公園。懐かしいよね。夏はさ、噴水の周りで水遊びが出来るから、よく三人で自転車に乗って遊びに来てさ、着替えも無しでべしょぬれになって遊んでいたから、遥香ちゃんが夜に熱を出しちゃって、大地と二人よく母さん達に叱られていたよ」

徐々に本数を増やしだした蛇の尾に似た半透明の水であるはずのモノが、直人と動きの鈍い智也に避けられる度、尖ったところから縦へと避けていく。すると、それは蛇の顔……いや大蛇の顔へと形を変え、本来個体ではないはずの筈の牙が雷光と打ち付ける雨粒にその鋭さを主張した。

「そうね。あの夏までは、三人でよく来ていたのにね。でも、いつまでも子供では居られないし、子供でいる為には非情な犠牲を求められるの」

暗闇の中、時折空を走る雷光での僅かに確認できる橋の下に広がる河川敷の親水公園をゆっくりと見渡し、直人を見つめ返したハルカは確かに直人がよく知る遥香が時折大地に向け見せて誤魔化していた、こちらが泣きたく成る程に悲しく切ない笑顔を浮かべた。

「あの暑い夏の日。お兄ちゃんと直人を待ちきれなかった私が一人でこの公園に来ちゃったから、こんなことになったの。あの日私の中の全てが終わって、そして……全てが始まった」

噛みつきかかってきた大蛇の口に直人が大剣をくわえさせたと同時に始まった遥香のこぼれ落ちる独白は、雨音さえ静まったかのようにはっきりと直人の耳に届いた。



*****



「とは言っても、お兄ちゃんのお陰でそんな事、ずっと忘れてたんだけど。呑気なものよね。きっかけは単純。こないだの土曜日、そう、直人がご飯を食べて行った日。いつものピアノのレッスンの帰り道。この公園で私、不思議な事に私と会ったの」

しかもよく思いだせば二回目の体験だったわけだけど。

明るい口調で語られたそれは、直人がいつもの大地と遥香に会った直近であり、最後の日だった。オムライスを頬張り笑いあう兄妹の姿は未だ直人の病室の冷蔵庫の中のフィルムに生き生きと残っているはずだった。

「私ね、私から縁者の選定を……ちがうな。姫神様候補として選ばれちゃった」

前日から寄せ集めた情報を元に色々考えあぐねた末、たどり着いた思惑の中、コンマ一パーセントも予想していなかった単語の羅列に驚きが隠せない。隣から荒い息遣いの中それでも息をのむ智也の気配さえ感じられた。好きなデザートの種類を話すかのように軽い口調で語られたのは、そんな恐ろしい告白だ。

大水蛇の一つをペットのように撫で抱きしめつつ、てへ。といつもの笑みをつくって見せるものの、直人には遥香のいつもの強気はこれっぽっちも感じられない。いや、これは泣いている時の姿そのままでしかなかった。

「実は直人に知らないふりをするのも厳しい位、私、そっちの方面の情報の知識をもともと持ってたの。お兄ちゃん、隠すの下手だから、ね。巨悪の根源が私なのはさすがに気付かせなかったけど。……あぁ、話がそれちゃったわね。でね、縁者って、お兄ちゃんや桜子、あと朔の話を聞くに。三柱様の力を賜るだけだとみんな思っているみたいだけど、本当はかなり違うのね。姫神という人柱になる候補。姫神になる縁を持つ者。未来を閉ざされる可能性を持った者。それが縁者」

加護から与えられている特別な存在なんて虫のいい解釈よね。

少女の作られた艶やかな笑顔が高ぶる感情を隠す言葉とともに泣き崩れ剥がれていく。

「私にはね、ずっと昔から絶対に叶わないってわかってた願い事があったの。強制的に一度は忘れさせられてたけど。それでも、私はもう一度、同じ事を無意識に願っていた。だからね、選定を受けた瞬間、それを思い出し、同時に自分が神様になれば、それが叶えられる。再度、そう期待したわ。でもね、その直後、私の願いは神様になる事で同時に二度と願えなくなることも思い出したの……。あの日と同じ。まるで天から地に突き落とされたかのような気持ちだったわ。そんなときに彼女が現れ耳元で囁いた」

いつも直人だけが見ていた大地の背中を見つめる年相応の飾らない遥香の苦しみに満ちた表情が削りだされ、平坦を装った言葉に想いが乗り、暴れまわる大水蛇とともに大地が倒れたことによってそれなりに激しいものの一時小康状態を保っていた風雨が急激にさらに激しくなり、空が唸り泣いた。


「だから堕ちたの?」

激しい怒りに直人は感情の抜け落ちた声しか出せなかった。土色の顔に薄い氷のような笑みを浮かべる智也もおそらくは似たようなものであろう。

「違うわ!!私はただ、消える前に、お兄ちゃんの解放と、求める私の虚像と私のあさましい実像の相違を正そうと、あるべき姿にしようと思っただけなの!望んだのはそれだけ。実を結んでほしいなんておこがましいことは願っていないっ!!」


<虚像と実像>。遥香の叫びにも似た言葉に直人は妙に納得がいった。


兄の求める妹像と本当の自分。

カメラの中の求められる自分と本当の自分。


帝都で取り逃がしてしまった女性のあのとき見せた苦悩と葛藤の根元であり直人が救い拾うことが出来なかった元凶。すべてがそこに集約されているいるように思えた。

おそらくはこの状況自体も、だ。


「だって、だってね。私ね。三年前、縁者になることを既に一度、拒絶してたの。全身全霊で拒絶して。呼吸が止まったまま水面の下から見上げる夏の空はお兄ちゃんの作るゼリーみたいに青くてキラキラしていてお兄ちゃんの笑顔みたいに強くて優しくふわふわと私を包み込んでくれた、あの日。最初にお兄ちゃんを人じゃないものにしたのは私。ワタシ!わたしだったの!!私!!!わ・た・しなの!!!!!」

独白とも懺悔ともとれる続けられた遥香の言葉に、直人は三年前、大地が神使の下部なんてものを選択してしまった事情を確かに見た気がした。

いくら姫神様と言えど亡くなった人間を生き返らせるのは不可能だ。しかも直人は身近にいながらも遥香が縁者に選定された過去があることに気がつかなかったし、その力の片鱗さえも遥香は見せることもなかった。

これは予想でしかない。

恐らく、大地は選んだのだ。

大切な妹が次代の姫神様候補、齋様に選ばれたことを全身全霊で拒絶したその身を守るため、己の身を呈し、憎いはずの姫神様のシステムに自ら組み込まれることで、大切な妹を、何よりも大切な妹を大地は守ったのだろう。

これはあくまで直人の好き勝手な空想のお話だ。

けれど、隣でふらつく智也も同じ考えに至ったのだろう。

「くそったれがっ!」

切なさを隠せない苛立ちが直人の分も合わせるかのように吐き出され、湿度は多いが冷え冷えとして澄んだ空気に響いた。

「私ね、お兄ちゃんが好きだったの。大好きだったの。兄妹なんかで括られたくないくらい、本当に大好きだった。愛していた。直人に内緒話をしていた子供の頃にはもう自覚してたくらい本気で愛してた」

大水蛇に守られるかのように囲まれ包まれた遥香が水面に座り込み、その瞳から雨なのか涙なのかもわからない液体を頬に伝わせた。

『ダッタラ、言エバヨカッタノニ』

『二人デ人ヲ辞メレバイイコト』

『コンナニ楽シイコト、ヤメサセナイ』

『逃ガサナイ』

遥香を取り巻いていた大水蛇たちがざわつき囁く。いや、大水蛇は遥香を守ったり包み込んでいたわけではない。その身動きを奪い、操ろうとしているのだと、直人達の救いの手を取らせないように妨害しているのだと今ならはっきりと向けられる人の(かた)をとる敵意の形から理解できた。

先程まで直人や智也に直接向けられていた、大地の守るための敵意とも違う。遥と呼ばれた女性の意思とも覚束ない醜い残滓が産み出した災厄の燃えカス。

鬼火を纏っていたそれが今や水を操っているのだから、取り込まれた兄妹の力の大きさを直人は実感せざる終えなかった。

「ねぇ、直人。あんたはお兄ちゃんがいつ変わったか気が付いていた?あの日から、お兄ちゃんが変わったのに気がついていた?」

浴衣に描かれた美しい大輪の花が泥水で染まっていくのを遥香は虚ろな瞳で見つめ、両手を白くなるまで握り締めその言葉を吐き出した。

「私は気づいていた。記憶がなくてもなんとなくわかった。気が付かないわけないよ。だって、お兄ちゃん、私を何かしら命がけで助けたはずなのに、私に罪悪感を抱いているのがバレバレだったもの。だから私、ちゃんとお兄ちゃんの求める妹を演じきるつもりだったの!最期まで!!お兄ちゃんの為だけにお兄ちゃんに救われたであろうこの命を紡ごうって決めてたの。だから好きだなんて、愛してるだなんて言うつもりも、困らせるつもりもこれっぽっちもなかったわ。だってそうでしょ?私が……お兄ちゃんに生かされている私が、大切な妹の為、命を削るお兄ちゃんに兄妹の関係を越えて愛しているだなんて、言えるわけ無いでしょ!」

大きく頭を降って大水蛇達の言葉を拒絶の意思を見せた遥香に、彼らは容赦なくその身を巻き付かせ始める。動きを封じられ、更には首を締め付けられ、青みを帯始めた唇が震えつつも、そこに仮初めの幸せを見つけられたと遥香は無邪気に笑みさえ見せた。

「でもね。神様ったら憎たらしいほど酷くって。また私の前に現れ求めたの。今ではお兄ちゃん無しでは生きられない私に再度選べない、選ぶ余地さえ与えられない選択を提示したの。もう逃れられないってわかった。だから、私ね、聞いたの。最後だと思ったから。お兄ちゃんに。今の私にとってのすべての存在理由の原点となるお兄ちゃんに。決して遥に唆された訳じゃないから。私自身の意志がその時、そこには、ちゃんとあったから。……兄妹を越えた感情を暴露して、共に手を取ったまま、人の道を外れる事を選ぶか、それとも……繋いだ手を離し、既に逃れることを許されない道で終焉を迎えるか」


お兄ちゃんには決して求めないと決めていた事を。お兄ちゃんには決して求めてはいけない事を、私が全てを諦める為の理由として求めてしまったの。


私なんか見捨てちゃって、お兄ちゃんだけでもこの業火の苦しみから逃れられるように心から願って。



吐き出す気体さえ失って空を舞う唇の動きに合わせ、そっと閉じられた瞼から流れ落ちた大粒の雫は、確かに雨なんて冷たいものではなく、心の底からの感情が篭った涙だった。

「んな、簡単に、諦めんじゃねーよっ!!」

激しい舌打ちを響かせた後、一切手出しをしようとしない直人以上に、いやもういつ気を失ってもおかしくない状態の智也が再びその背に赤黒い羽を広げ稲光が駆ける夜空に羽ばたいた。

「甘えてんじゃねーよ、このクソガキ。みんな何かしら抱えて生きてんだ。お前だけが苦しい訳じゃねぇ」

大鎌を振り下ろし大水蛇を模す何かを切り裂き、泣き崩れる少女を空へと引き摺り上げる智也の姿は、甘い言葉で唆し、道を違わせ落とす異国の良くないものそのままの姿のはずなのに、厳しい言葉で叱咤し、迷う道に光を与える救いのもの以外のなにものでもなかった。


先程の直人の血液を与える行為の際、力の反動として、智也の抱えた苦しみの残像を直人は垣間見た。そして、裏切られ捨てられる悲しさを誰よりも智也はその身を持って知っていると、今の行動は遥香の為なんかではなく、智也自身にズタズタに切りつけられ傷ついた大地の為の行動なんだと、なんとなく、そう直人は感じた。

自殺ともとれる他者への体を引き渡しに身を委ねる遥香の行為を止めた智也は、けれど、そこで本当に力を使い果たしたのであろう。再び生まれいでた大水蛇たちに艶やかな濡れ羽色の羽を無惨に食い千切られ、蝋の羽が溶け空から落ちた伝説の人物のように薄い膜を張った地面に抱き締めた遥香を庇うように背中から叩きつけられた。

激しい水音に朔のたおやかで美しい姿には似合わない舌打ちが混じった。



「ねぇ、遥香ちゃん。それで大地はなんて答えたんだい?」

空を散り散りに舞う智也の手折られた赤黒い羽が大きな雨粒に打たれ一枚、また一枚と水が引き切らない足元へと叩きつけられる。

この後の為、出来るだけ力は残存させておきたかったし、痛みがひくことはない直人の身体だったが、唸り声しか発さない智也よりはましだろうと、その腕から遥香を横抱きに受け取り、出来るだけ優しく直人はたずねた。


「私が消えて無くならない道を、って。もう失いたくない。何がなんでも私の幸せを願いたいって。躊躇いもせず変質してしまった私を受け止め、進んで私が一番望まなかった契りを交わしてしまった……」


抱き上げた肩を震わせる小さな身体は直人の神器の大剣よりも何十倍も軽く、けれど何十倍もの悲しみに溺れていた。



遥香が居てくれるならいい。

言葉少なく笑いながらポンポンと撫でるように頭に触れる大地の姿が目に浮かぶようだった。


求められた虚像と浅ましい実像。


きっと目の前の少女たち同様に、いやそれ以上に大地も苦しんだのだろう。

三年前、遥香の記憶から強制的に忘れさせていたくらいだ。

気付いていないわけがないし、何より側にいた直人だからこそ知ってる。

大地だって、ずっと昔から求められる兄を演じていたことを。

兄に兄妹を越えた感情寄せ苦悩する遥香をそのまままるごと受け止め、そして、その上で敢えて理想の兄のたち位置を守り続けたことを。

自分の命や未来ぐらい容易に犠牲にできるくらいには妹に兄妹を越えた感情を持っていて。けれど、あの夏の日、すべての始まりを食い止められなかった自分を後悔するくらいには、その感情に蓋をしていたことも。


それならば自ら身を引いた後、遥香の側に桜子を置いたのも頷けるのだ。

桜子はセンターの中央に極太のパイプラインを持っている。大地が身を呈して守りさえすれば、大地が力不足で倒れたとしても斎様に選ばれた少女だと判明すれば確実に守る手だてを用意出来る。

桜子自身の力だって遥に狙われている遥香を守るには最適だったのは言うまでもないことだろう。

桜子は認識同化を得意とする。それも無意識下での認識でさえ周囲に影響を与えるレベルなのだ。彼女の中の遥香は大地が何度も絶えず故意に上書きを繰り返した〈普通の守られるべき少女〉であり、決して縁者でも加害者でもない。

遥香の遥からの侵食を抑えるには桜子の中の遥香さえしっかりしていればかなりの時間稼ぎになり、その間に直人なり帝都のセンターなりが動いてくれるだろうと読んだのだろう。

「泣き落としで許してくれる桜子ちゃんの禁厭の守りもここまでってとこか?」

なんとか四つん這いに体勢を整えたものの既にもう立てなくなってであろう智也が言葉とともに先程よりさらに酷く咳き込むと、観測者を決め込んでいた筈の朔が音もなくスーッと近寄り、見るからに高そうな着物を気にすることもなくその場に座り込み、血と泥と雨に汚れた体を優しく抱き止めた。

「運悪く、虚ろになりかけた遥香ちゃんが遥さんという器を求める女性と混じってしまった。だから大地は再び遥香ちゃんを守るため自分を差し出し、遥香ちゃんの状態を元に戻すと同時に遥さんだったものを押さえ込もうとした。自分がすでに一度姫神様と契りを交わした身であることは重々承知の上の事だっただろう。遥さんだったものを押さえ込みつつ、遥香ちゃんを再び元の普通の妹に戻すため、限られた時間の中、よく考えた方だと思う。でもね、相手も中々だ。遥香ちゃんの中に居座れば大地は必ず守り続けてくれる。運が良ければとてつもない力も得れる。いやらしい方法だが確実な手段だ」

敵ながら上手い案を考えたものだと思う反面、直人の腕の中、虚ろになりつつある少女が今までで何とか持ちこたえていたのは、脆くて儚いはずの、兄への強い想いだけであり、それがもう一人の遥の侵食を押さえていたと、今ならはっきりわかった。そして、それは直人にとって確実に逆襲のきっかけになりうるものだった。

「成る程ねぇ。それでなくとも遥香ちゃんには次代姫神様の候補として選ばれた〈齋〉という不本意ではあっても緊急事態用の究極のバックアップ体制が用意されてるもんな。しかも侵食中の遥は、消えたくないっつってんだから、前回みたいに全身全霊で拒絶してっつーのもないだろう。そりゃー大地も安心して桜子ちゃんに任せるはずだ。で、だ……いつから、わかってた?」

後半からかなりの嫌悪感を滲ませたであろう智也の掠れ気味で聞き取りにくい言葉は、直人に突き刺さることなく、雨音に馴染む。そして、その事に苛立ちを感じたであろう智也が外国語かネットスラングか、直人に判別はつかなかったが音にもならない悪態を続けるのを直人はクスリと笑って受け取った。

「うーん、最初からわかってたわけじゃないよ?さすがに遥香ちゃんが斎様だったとは予想外過ぎてるし。てか、今聞かされて、めっちゃ動揺してるし。ただ何となくかなりの確率で遥香ちゃんを人質に取られているんだろうなとは予想してた。大地の失踪の一報を聞いてすぐ、かな?だって大地は何よりも、それこそ自分の存在なんかよりずっと遥香ちゃんを大切に思っていたんだよ?そんな大地が遥香ちゃんが消えそうな危険性をはらんだ選択肢を選ぶはずがない」

「一見、遥香ちゃんが消えそうに思える現状は、そうならない為の布石だろうって考えた訳か。だったら人質に取られているって考える方が手っ取り早いな、確かに」

直人の弁明に、朔の腕の中の智也は可でもなければ不可でもないような評価で自己完結の言葉を呻くように並べる。

「それならみんな話も繋がるしね。誰があの都内の遥さん、だっけ?その人の薄汚れた欠片を持ち込んだかも未だ不明だけど、それはいいよ、今は」

今は見逃してやる。

怒らない。直人は周りからそう表現されるいつもの得意な笑顔の仮面を張り付ける。

「やだなぁ、直人の本気。しっかし、この街に入り込めた時点で普通の人間ではない第三者の関与は、否定できねぇよなぁ」

泥と血で汚れた手で額と目を覆った智也が汚れさえもう拭えなくなった口元に濃い苦笑いを浮かべた。

「だから、今はいいんだ。おいおいセンターがなんとかしてくれるだろ?センターが動かなければ、僕が直接動けばいい話だ。手助けを申し出てくれているのは何もセンターだけって訳でもない。非合法な手段だって選べない訳でもない。だから、まずは急ぎの用を片付けてしまおうよ」

見逃しは今だけだ。感情を表に出すのが面倒なわけではない。時間がないだけだ。そうハッキリと意思表示する直人に

「やっぱ、お前、やべぇ奴のまんま、な」

と呟いた智也は本格的に朔の腕の中に身体を預けはじめた。

どんなに丈夫な<鬼>を体内に飼っていようと、どんなに根性論でなんとかする人物であろうと、そろそろ智也の身体は心底の限界だろことは見え見えだし、本来呼び出した待ち人が約束をすっぽかすような人でないことも直人はよく知っている。

今日、どうしても直人が片付けて置かなければならない事項はまだ一つ残されていて、それは非常に難しく他者の介入をよしとしない。というか、直人自身それは初めてであり成功するかは卓上の理論でしかないので集中したかったし、形式的に誰かに見られて嬉しいものでもない。

傷つき倒れたままの大地と智也を確認し、朔は……多分、これ以上は踏み込んでこないだろうと見越す。

「僕もね、たかが片思いで色々やらかした事があるからさ、他人事と笑えないしね」

こういうのって黒歴史とかいうんだっけ?

聞かせるつもりはない、けれど思わず溢れ出た本音に止まない雨を見上げることで誤魔化した直人は、気合いを入れるため深く静かで穏やかな深呼吸をひとつすると、腕の中の少女を腕の中から下ろし、その正面に真っ直ぐ向かい合って立った。

「ねぇ、遥香ちゃん。ちょっとした提案があるんだけどさ」

出来るだけ穏やかに、なんとかやっとの雰囲気で立ち尽くす目を赤く腫らし始めた少女に声をかける。

「提案ですって?こんな私に今さら何?」

「互いの認識する望まれる虚像と真実の実像の歪みをもう一度正す機会を与えられる可能性があるとしたら、君はどうする、遥香?」

直人の静かで遠い問いかけに、一瞬何を言われたのか理解できなかったのだろう。コトリとかしげられた首の動きに濡れてしまってもなお美しい長いツインテールの髪の毛先がぐるりと円を描いた。

「この胸にできた、ぽっかりとして何処までも暗くて救いようのない喪失感だけが漂う大きな穴を埋めることができるの?……足元が見えないの。足の裏が付いているはずの場所があるのかないのかさえわらない。周りも何も見えないの。真っ暗で寒くて凍えそうなのに何も聞こえないし響かないの。こんな事、私は望んでなんかいなかった。こんな結末になるくらいなら私が消えてしまえばよかったのに!!」

真っ直ぐ立たせた筈の少女がもう一度水の上にしゃがみ込み、今度は隠すことなく号泣を見せた。

けれど素直な感情の露呈を受け止める時間も今は惜しい。

「僕はね、一人じゃ何もできない。でもね、他の人間の力を借りることで多様性が広がる。そんな力を持っているんだ」

見下ろす少女に打ち付ける言葉に直人はその意思を計るため出来るだけ感情を省いた。

「へぇーそいつぁーはつみみ」

もう呂律もろくに回らない筈の智也が女性の様に長い睫毛を二三度震わせた後、完全に瞼を閉じる。

「言ったことないもん」

クスリとイタズラがバレた幼い子供の様に笑った直人は、智也が完全に意識を失ったことを確認すると、ほっとした表情を隠しもせず、心からにこりと笑った。


「私、死にたくないよ!消えたくないよ!!でも、でも、お兄ちゃんが死んじゃうのはもっといやだよ!」

両手で自身の顔を覆い涙とともに吐き出された言葉は、遥と遥香の想いが混ざった言葉なのだろう。今までで一番分かりやすく、真摯で重みがある言葉だと直人は思った。

このまま、智也と直人が二人で当初打ち合わせていた通りの作戦を実行すれば、確実に大地は<災厄>として消える末路を迎える。そして、神使の下部である大地が消え去れば、彼が願いを掛け保たせた目の前の少女も、時は進むことしかできないのだから、本人が望む望まざるに関わらず三年前一度は回避した齋様としての変異を強制的に受け入れなければならなくなるだろう。それは大地が望む結末の一つではあるだろうが、兄を心から慕う眼前の遥香が望むものではないことは明らかだ。

「ねぇ、遥ちゃん。うまくいくか半々だけど。……いや、確実に直後、直面する三つの大きな問題を乗り越えなければならないんだけど、さ。僕と一緒に賭けをしてみないか?」

智也に話した作戦ではなく、本命の作戦だ。

まさかこんなに酷い状況になっているとは予想していなかった。けれど、やはりこれが直人にできる唯一で最高で最低の手段だった。

「僕は、今の僕になる時に、とてもとても大切なものを失った。自身の浅はかで愚かな行動の為に。永遠に。それしか方法は無かった。何度言われても納得できないし、後悔だらけだ。それからはね、もう何をしても後悔さえしていない。例えば桜子ちゃんの為に下部になるくらいたいしたことでもなかったくらいに、さ。でも、だから、君たちには……大地と遥香ちゃんには同じ思いをさせたくないんだ。しかも、多分……だけど、僕の目的が達成されれば君たちも解放されるはずなんだ。……だって、僕は姫神様のシステムすべての終焉を願い行動する者。三柱様を穢し地に落とす鬼よりも恐ろしい存在になることを願う者だから」

後半、朔に聞かれたくないのてしゃがみこみ遥香の耳元で語った直人の言葉に顔を覆っていた手を外し、直人と共に再び立ち上がった少女はその真意を探ろうと真っ直ぐ直人の瞳を見上げ見つめ返してきた。

「僕は僕自身の身体を囮に鬼を喰うことができる。鬼っていっても、それは現在、過去、未来の可能性全てを含めての意味でね。だから一見普通の人間にみえる人だって惑わし喰ってしまう。けどね。僕は喰った鬼を僕の糧にすることも出来る。使い道なんて知らなかったから今まで無駄に回復力の早さとかに消費してたけど、それに方向性を付ける事が出来る事を面白い前例に知った」

朔の腕の中、既にぐったりとしてもう指先一つ動かさない智也を直人は軽く見た。

智也の半分は鬼でできている。その身体の肉付きに反し、大食いの範疇を越えている智也の食欲と心底興味がないのに手を出す人間の女性達の存在に直人は一つの可能性を見つけた。

しかも智也は姫神様の神使の下部でありなが、自らも幾多の動物達を使役する。

「これからちょっとばかし、そこの智也からさっき獲た力を用いて、遥香ちゃんの中の遥さんを僕は喰らい尽くす。そして僕は同時に、君達を生きたまま、僕の使役物、人でないもの、えーっと使い魔みたいなもの?に変質させる。多分かなり影響を受けているから遥香ちゃんもそれなりに苦しむと思うけど、君の大部分は多分喰い尽くされることはない。だってどんなに全身全霊で拒絶したとしても、どんなに変質したものになったとしても君は未だ斎様の筈だから。それに合わせて、同じく影響を受け合っている遥さんであったものも、多少、君の中に残ることは確実だろうし、これくらいは仕方ないことだろうと思ってもらえると嬉しい。だって、これで君と大地を苦しめ続ける根本にある、人間としてしがらみや関連性は失われるんだ。並大抵の苦しみじゃないいだろうけど得られるものは大きいと思うよ。まずこれが一つ目。これが一つ目の試練だ」

自分でも話していて嫌になる内容だった。真っ直ぐに見つめ返す遥香の瞳の清らかさに相反し、なんでこんな手段を思い付くのか。直人は自分で自分が甚だしく不快でたまらない。

「そして、一つ目の試練が上手くいったとして、休む間はない。とりあえず、遥さんだったものから獲た力を流用すれば時間稼ぎはできる。しかし残念ながら僕は常に他者の命を抱えられるほど包容力はなくってね。常に……」

「いいわ……なんとなくわかったから。先は言わなくていい。そんな時間も惜しいんでしょ?直人が私とお兄ちゃんのため、死に物狂いでたどり着いた、それが一番いいと思った答えなんでしょ?」

だからそんな泣きそうな顔をして言わないで。

嫌だが続けないわけにもいかない言葉を出来るだけ感情をのせることなく羅列していく直人に遥香がそっと制止をかける。自分自身がどんな顔をしていたのか直人にはわからない。けれど目の前の遥香の、その表情には、もう悲しみも絶望も見えない。

真っ直ぐに寄せられる幼馴染みへの信頼だけがそこにあった。

「そうかな……。うんそうだね」

いつも三人でいた。だからこそ直人は二人の幸せを誰よりも願っていた。そして、二人は誰よりもそう願う直人の存在に気がついていたのかもしれない。

「それなら早く、契約を。直人まで巻き込んでしまうなんて、傷つけてしまうことになるなんて、本当にごめんなさい。申し訳ないと思う。けれど、それでも、私は一欠片の希望にさえ今はすがりたい。だから、そんな顔はもう見せないで。私とお兄ちゃんの為なんでしょ?どんな残酷なことをされても、直人なら約束を守ってくれると信じてる。だから……契りを交わしましょう」

一切躊躇いがない遥香の瞳の向こう、一度ならず、直人達の不手際と誰かしらの陰謀の為、もう一度命を手折ってしまわなければならない遥と呼ばれた女性の気配が直人には見えたような気がした。

一度で済ませられなくてゴメン。

心の中呟くと、直人は気持ちを切り替え、遥香をそっと抱き寄せる。

「本当に巻き込んでしまったのは、実は僕の方かもしれない。だから罪悪感なんて感じなくていいんだよ。……さぁ、契りをかわそう、遥香ちゃん。新たな選択肢を得るために」

「ええ、直人。智也が言っていたように、私はもう諦めない。揺るがない。想いを抱えたまま歩み続けるわ」

代償を多く語らない甘美で甘い囁きは破滅を道連れに身を焦がす想いを昇華させる。直人の左手の指先を伝う少し前の大地との戦いの際もたらされた赤い流れをそのままに、遥香のまだ幼さの残る青ざめた唇をなぞれば、紅を塗ったかのように、その幼い美しさに艶やかな色を添えた。

「遥香は、これから僕の所有物、使役されるものへと変わる」

伸ばした直人の手のひらに遥香は自ら進んでその氷のように冷たくなった手を添えてきた。

「私は、心はそのままに、お兄ちゃんを、大地を愛したまま、直人のモノになる、直人に使役されるモノへと変わる。……だから、遥。さようなら。私の本当の気持ちに気づかせてくれた心優しい隣人」

あなたが少しでも救われますように。私の中に残ったあなたの残り香が少しでも報われますように。

一度は書き換えられてしまった私達の名は……。


後半直人の唇で塞がれ、発せられることのなかった言葉は、けれど確かにそこに居る優しい存在にも届いたと感じられた。

唇越し与えられた遥香達の真新しい今の名とともに、直人は、甘い感情なんて伴わない溢れ零れそうなほどの圧倒的な量の力と情報を全て受け止める。

本来はこんなところに感じるべきではない禁嫌にも似た感覚が、驚きを隠せない直人の全身を走り抜けていく。おそらくは遥香が齋様になる前に得るはずだった縁者としての力の片鱗もここに残るのだろう。


真実も妄想も、事実も想像も現実も理想も全ては脆くくだらなくて、儚く美しい。

美しい一瞬、一瞬がそこに確かに存在するから、カメラのレンズから見える世界は常に美しく輝く。


命を啜り、同時に在り方という名を書き換える為の冷たい口づけは、あの日直人が与えられた絶望を呼び込むものと違って、先程舐め取った血の味と、同時に大地に見られたら、一発殴られる位じゃ済まされないな、という妙に場違いでリアルな罪悪感の苦味を直人に与えた。

腕の中、智也に与えたものとは比較にもならないほどの痛みと苦しみと高揚感に悶える少女が、無意識だろうが直人に押さえつけるように肩を抱かれたまま二つに結ばれていた長く艶やかだった自身の髪を引きちぎっていく。それはまるで、この契約を成り立たせる供物のように二人の足元に散らばり、流れる雨水とともに濁流を抱える川へとその身を落としていった。





長くもないが短くもない時間をかけたそれが終わる頃には、遥香は直人の腕の中、もう暴れることもなく、ただただその身の変化を受け入れようとしていた。

周りに聞こえぬよう耳元で新たな名を囁くと細い体がびくりとと震えた。

優しく撫でた遥香の頬の手触りは、昔となにも変わらないはずなのに、直人の手のひらに薔薇の枝を素手で握ったときのような激しい痛みを感じさせるのは、きっとほんの少しばかり残ってしまった直人の後悔と罪悪感が原因だろうと直人は軽く頭を振ってみたが、再び触れることは直人にはもうできなかった。

出来ればしたくなかったし、本当は避けたかった。しかも大切なことは何一つ語りきれていない。

けれど直人は懺悔など求めない。求める結末の為、これは必要不可欠な事だと理解出来ている。



友人も仲間も分け隔てなく打ち付ける雷雨の中、冷たい水にその体を浸している大地が、周囲に散らばってしまった分の遥だったものと、既に変異してしまった自身を抱えたまま本格的に覚醒に手を伸ばしたようで、モゾリとした四肢の動きが遥香を抱き抱える形になった直人からもハッキリと見て取れた。

そろそろこの茶番にも見える小休止も終わりを迎える。直人の腕の中の友人の大切な想い人は次々とその在り方を作り変えられていく。良いものではない。けれど比較対象にならないほど先ほどの状態よりはましなものに直人の目には見て取れた。


「契りは成立じゃな。面白いものが見れた」

周囲の気配と自分の身体の著しい変化に、怒りの感情と共に動き出そうとする大地を眼前に、もう意識も無いだろうに濡れる足元に絡み付いてきた智也の手を軽くふるい落とし、直人が歩みを進めると、横たわる大地を再度、今度は隠すことなく、大切そうに穏やかに優しく抱き止める朔の姿がなぜだか可笑しくて、クスリと直人は笑う。

「僕はね、失ったんだ。とても、とても大切なものを、それは多分、無くてもきっと困らないだろう。でも、知ってしまった、忘れる事なんてできないそれを失った。一番大切だったモノ。そして僕は世界を作り変えた」


誰にも聞かれることもなく、誰にも聞かせるつもりもない雨粒と共に零れ落ちる音にならない本音が大きな波紋を直人の胸の古傷をえぐった。




*****




夢だったらいいのにと願ってしまう現実離れした思い出したくもない前日の記憶は、アニメや小説の中ならばずいぶんと面白いものだろうが自身が体験したとなると話は別だ。胸くそ悪いことこの上ない。


再び前髪を伝い、水滴が落ちる。

冷たさを持っている筈のそれにさほどの冷たさを感じないのは、身体が冷えてしまったわけではない。直人の傲慢さに振り回されてしまった隣にたたずむ少女の、二度と温もりを得られない体温を知ってしまったからなのだろう。

智也の濡れた包帯に包まれた手から離れ、ふらつく身体に鞭打って数歩、手すりなどない端に向かって歩みを進める。

街で一番高いビルの屋上は雲の上にでもいるようにこの街を見渡せるが、所詮人の手が作ったものだ。

本当の雲は黒く、星々のか弱い光を飲み込んで、もっと高見から覆い尽くすかのように見下ろしている。

ふと気がつけば濡れた髪を撫でる強く生温さを感じさせていた風の向きがぐるりと変わり、北の方向に位置する山から吹き下ろす冷たいものに変わった。

街を守るかのように裾野を長く伸ばす山は昔からこの地域の信仰の対象だ。

吹き下ろす強風はこの地の淀みを祓い、新たな息吹を常に吹き込んでいく。だからこの地域の人々は強かに前向きで新しいものを容易に受け止めるのだろう。

「お待たせ」

向きと気配を変えた風にのり、空から風に舞う月光のように降りてきた朔の声が土砂降りの天候とは裏腹に嬉しそうに乾いて響く。

「桜子ちゃんは?」

目だけで何かしら朔と語り合った智也がそうたずねれば

「直人君のリクエストで強制留守番」

と楽しそうにカラコロと朔は笑って、高そうな着物の裾を汚すことなく、本来は救助用のヘリコプターが着陸するくらいにしか活用する予定のない、直人達が立ち尽くす屋上へと伝承の天女を思わせる軽く優雅な身のこなしで舞い降りた。

「直人最悪」

「直人ひでー」

露骨に軽蔑した表情の遥香に、神器を持っているためか珍しく悪戯心が丸見えの、表情が濃い智也という、この場に居る皆が皆、口を揃えて直人を咎める。

「いやー、ない。ない。僕が直接何かした訳じゃないでしょ?」

指先の感覚でさえ虚ろな手を、水滴が跳ね飛ぶのもそのままに振って直人は全面否定してみせた。

元々、桜子はその力の有用性から巻き込まれただけであって、出来るだけこの件には介入させたくないと直人は考えている。斎が絡むなら尚更だ。だから昼間の朔との短い話し合いで、今夜桜子は連れてこさせないと確約をとっていただけだった。

「同じよ」

「同じようなもんだよ」

「その評価ないわー。マジない」

声を揃え返された散々な評価だが、これから直人が重ねる罪の苦しみを少しでも和らげようとするかのように交わされる言葉遊びに深い意味なんてこれっぽっちもないことくらい直人にもわかっている。こんなくだらないことなのに、少しだけでも現実に居る筈の自分を実感し、感覚が虚ろになり石のように重かった四肢が少しだけ軽くなったように直人には思われた。病は気からとでもいえばいいのだろうが。けれどかなりの不調のみを訴える身体がそろそろ何とかしてくれと訴えてきたようで、遥香が会話の途中、さりげなく傾きの修正が遅れだした直人の身体を支えるようにたち位置を変え寄り添った。


「さて、昼間の約束通り、凪を祓いましょう」

どしゃ降りに、体調不良の中という有り難さ半減のじゃれあいが一通り終わったのを見計らって、同じ空間に居ることを疑うほど天候の影響を一切受けずに佇んでいた朔が、静かにその手に弦のない遥香の身長ほどは長さのある弓を物理的には不可能であろう着物の長い袖から取り出した。

「そんなに簡単にできるもんなのか?普段のセンターのヤツだって結構色々な禁厭を多様してるらしいんだけど?」

訝しげに見つめたずねる顔も悔しいくらい整っている智也に朔は色っぽく笑ってみせると

「普通は無理」

と、まるで桜子がよく語る学校の部活の先輩、真緒と名乗る少女のように快活にカラリカラリと笑った。

「なんじゃそりゃ?」

「んー?直人君は存在自体が特別だから?」

訳がわからないとぐしょ濡れの包帯が巻かれた頭を掻き乱す智也に、今日は半分だけきれいに結い上げられた長い黒髪を揺らし朔はコトリと似合わないことこの上ないが首を傾げ返す。

「疑問形かよ。しっかし、朔が褒めんなんざぁ、珍しいこった。そいつぁー俺もじっくり聞きたい話だな、直人?」

いちゃつくリア充の、そのまま意味がわからないといつも通りたずねる智也と、きっちり直人との約束を守ってみせる朔の意味深な笑みの攻撃に直人はひきつる笑みしか返せない。

「ないない。ないわー。それ誉められてないから!どっちかと言うと貶されてる類いだから」

ブンブン頭を振って直人が全面否定する横、

「そうでもないかも」

と昼間の遥香より少し大人びた、けれど確かに今の遥香の一部を形成する遥と呼ばれていた女性の残り香を漂わせた口調で遥香が笑った。


今の遥香はもう人としての摂理からかけ離れ、今や1つの器にに入り交じった二つの人格が共存する。



「そろそろ始めるわよ?」

昼間のものとは異なった、人からかけ離れた気配を放ち始めた朔に、智也も遥香も軽く息を飲むと無意識にだろうが一歩後ずさりをみせた。

朔が梓弓を掲げれば、山から吹き下ろすこの時期にしては強めの風が目に見えぬ弦を爪弾く。

皮膚を、鼓膜を震わせる、大地の息吹さえ感じさせる祓い清める音が厳かに鳴り響く度、直人は荒れ狂った自身の中に凪が広がっていくのを感じた。

一生晴れることなんてもうないであろう一面の灰色の空の下、広がる水面は雲一つない灰色一色の空をはっきりくっきり、鏡のように写し出す。

先程まで罪人の全てを喰らい尽くそうとしていた侵食は穏やかに引き下がり、そのダメージは残るものの新たな牙は感じさせなかった。

とはいえ、今だ、この身体は命を啜られるままのものであり、このままではやはり支障どころかタイムリミットまで刻まれる有り様だ。


けれど、これで直人はもう一度大地と正面きってぶつかり合える機会を得れた。




「なぁ、直人。先輩から有難い一言をやろう」

昼間より少しだけ楽になってきた直人の様子を感じ取ったのか、祓いが始まってから、静かに黙っていた智也が大鎌に体重をかけたままふざけた口調で直人に話しかけてくる。

「ない、ない。智也から有難い言葉なんてないわー。いらない」

「まぁ、いいから聞いておけって。……決めたなら躊躇うな。進むことが贖罪なんだ」

背中越し拒絶したものの強引に与えられた言葉に一瞬、直人は動きを止め、真っ暗な空を見上げた。

降りつける雨が目に入って染みるを越えて痛みさえ感じる。だからこれは涙ではない。涙は病院のゴミ箱へ腹から吐き出した汚物と共に捨ててきた。自分だって昨日の傷がいまだ癒えず痛みもひどいであろうに、大鎌を握る状況ながらも珍しく表情を持たない智也の静かで重い言葉が頭ではなく胸の奥、痛みばかり感じる場所にドンと居座った。

「んなこと、知ってるよ」

ありがとう。

強がりに負け、口にすることのできなかった言葉が直人の胸の中に広がり染みていく。

こんなことになって知った人の優しさと強かさが直人の胸にキリリと痛みを施す。

今になって知りたくもなかったが、無関心を装うしか道を選ぶ術を知らなかった思考的に幼かった昔の自分に悔しさしか浮かばない。




まずは、少しだけ首を傾げ、いつもの口調を心がけよう。

『大地、ちょっとしたお願いなんだけどさ、僕の為に鬼になってくれない?』

チートな悪役は簡単な嘘で信じ込んでもらえる。

顔を見せることのなかった日が東に沈み激しさを増した雨粒に黒光りする世界で、直人は自分自身をくそったれと心の中罵りながら、最低最悪でアリながら最善であろう策略の為、再び歩みを止めていた足を動かした。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ