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08-2

智也の病室から四つ下の、見るからに普通の階で桜子達はエレベーターを降りた。

見渡す限り白い世界。ごくごく普通の白い壁にクリーム色の廊下。

いや、先ほどまで滞在していた階がおかしかったのだ、と桜子は頭を振った。今になって気がついたが、普通に行き先階を押すだけではたどり着けない階は、確かに降りた瞬間から高そうな石の模様の床が、木目調の壁が、静かに、けれど艶やかに光っていた。

かといって、普通の病棟の白い廊下だって、キャスターか何かの黒いラインは多少残るものの、衛生的で、きちんと掃除もなされていて、不快感はない。

自身の父親も入院期間が長く、また、昨年度の仕事も入院中の人間の監視がほとんどだった。だからなのか、なぜか病院は第二の自宅にも近いものを感じると、そんな感じの事を桜子は榊に話したことがあった。そう、今日、真緒と共に乗ったような運転手付きの車に、隣合わせで座っていた時だったと記憶する。

そういえば、あのとき、常に何事も見通しているかの如く静かな榊が、なぜか珍しく一瞬身体を震わせた様に見えたのは桜子の気のせいだったのか。随分と前のことのようで、はっきりとは桜子も思い出せない。


そんなくだらないことを思いながら歩く白く長い廊下から見える、雨粒が濡らす病室越しの大き目な窓の向こうに、この街で一番高い官公庁の建物が小さい赤い光を瞬かせている。

父も意識を取り戻した直人も、場所は異なるが、いつもベットの上、静かに見つめていた赤い光だ。


人の動きに、プライバシーを守るカーテンが揺れる。

消毒とか薬とか、そんな匂いが胸を満たす。

病の縁から人々を救う場所。

こちらの方が、病院として正しい。そんな気が桜子はした。


*****


「桜子ちゃん、忘れ物、あんだろ?」

ベットの上、膝をたて、その上に点滴の管をつけた腕で顎肘しながら智也は、いつもの読みにくい表情で可笑しげにたずねてきた。何気に隣に座る美少女、真緒を見せつけるように抱き抱える姿が絵になっていて腹立たしいのは置いておく。

おそらくは、今朝から桜子自身感じている違和感を指しての事だろうが、とうしていいものが悩んでいる桜子に智也はあえて手助けするつもりもないらしく、ただただ読みにくい表情で笑ってみせるだけだった。

「忘れ物をしたことを忘れてるみたいなんですよね」

小学生のような自分の状態を素直に口にする桜子に

「まるで、桜子ちゃんの影響力みたいだよね」

と、智也はクスリと作り物の、蕩けるような女性好みされそうな笑みを浮かべた。

「私の……ですか?……自分自身で体験したことはなかったのですが……確かに言われてみればそうですね。でも、もしそうなら、これはセンター、いえ、姫神様がらみとかなんですかっ……っと!!これお見舞いのお花ですっ!」

ただ単に常日頃センターの指示に従う桜子の力を嫌っての言葉なのか。それにしては歯に物を着せたかのような智也の話し方。訝しさを感じながらも、こんな偽物の笑みをみせる男の言葉遊びに振り回される自分に若干腹立たしさを感じ、桜子は思わず握りしめていた花籠を智也の足元へと棘のある言葉と共に投げつけた。

センターは余程特別、又は緊急な場合でなければ基本的に姫神様の力を内部の人間にはふるわないし、姫神様だってそんなに容易く人には関わって来ない。そもそも桜子がそんなことをされる理由が見つからない。だから嫌味からの言葉だとしても、そんなことはあり得ない。桜子はそう告げたつもりだった。


「そうだね、センターではないだろう。でもそうだな……例えばセンターでもどうにもならないレベルの、人の理を越えた……それも、もっともっと上の御方の理による力の介入とかなら?」

『いてー』の一言をまっていた。花びらを散らすことなく受け止められた花籠を握る智也の腕に刺さる点滴の管が少し赤みを帯びて見える。

まさかと思った桜子は返された言葉の意味に動揺を隠すことなどできなかった。

人の理を越えた理の介入。

それは神々の理や、逆凪、更にはこの世界の大きな流れを司る理の介入だと桜子は聞かされたことがある。たかが人間ごときがどうにかできるものではない。空に毎日雲が流れていくのと同じ。自然現象と同じレベルなのだ。

しかし、なぜそんな大きな介入にあってもなお桜子は違和感を抱え続けているのか?どうして智也はそれを知っているのか?

偽物の笑みを張り付けたままの智也から飛び出た駒は、開けてはいけないこの世界の核心を隠す岩戸の気配さえ感じさせる。

見てはいけない。触れてはいけない。

本能的に感じる。

けれど、人は見ないと真実に触れられない。理解出来ない。

きっと桜子の今の状況も打開できない。

たとえそれがとても残酷な事実でも。恐ろしいものでも、だ。

ゴクリ。

桜子は生唾を飲む音が聞こえて、それが自分から発せられたものだと遅れて理解した。

「……自分の意志が入らない介入は……たとえ大きな流れの中の一つだとしても嫌ですよ、誰でも」

先ほどまで唾液の存在はそこにあったはずなのに喉が渇いて貼りついた。桜子はとりあえず自分の常日頃の行動は棚にあげ、そう答える。

誰の意志が誰に介入するのか。

主語を隠す言葉遊びは言霊に縛られる人々が多いセンターの人間特有のものだ。

桜子自身、認識を力とする為、この言葉遊びは幼い頃から慣れ親しんでいると言っても過言ではない。

けれど、それは日常では多用しないし、してはいけない。

言葉はちゃんと口にしないと物事の真理自体を狂わせることもあるのだ。

そんな言葉遊びを求められる回答が先ほどの智也の言葉。そして、多分口にする意味と同様に、今は口にしたら最後、この違和感さえ消えて桜子は忘れてしまった自分を忘れてしまう。それほどに大きな力の介入なのだ。

桜子は久しぶりに首の後ろがピリピリとする感覚に、意識を尖らせた。

「じゃ、そこに、自分の意志が介入できたら?」

「出来るんですか?」

そんなこと出来ないと思っていた事が出来るなんていう突拍子もない言葉に、桜子は更に驚きを隠せなかった。桜子が姫神から授かった認識同化の力に似た……いや更に上級の理レベルの力の介入だ。本来、人は気がつきもしないものだろうし、流される以外どうにもならないものだろう。それに対し介入が出来るなんて、普通の人間では考えられない。

「直人辺りに聞いてみればいい」

目をそらされ、さらりと答えられた言葉に桜子は思わず転びそうになり、スプリングの柔らかい智也のベットへ両手をついた。

「直人君ごときがこの世の理レベルの事象に何か出来るんですか?」

信じられないとたずねれば、それが信じられないよという表情を見せつつ智也はさらりと言ってのけた。

「ごときって、またひどい評価だねぇ。出来ない……なんて誰が言ってた?」

「それって……」

絶句する桜子を目の前に、智也はにんまりとした作り笑いのまま、赤い管がぶらさがる腕を動かし、血の気の引いた指先を今は短い真緒の髪の毛へと伸ばした。




桜子は常々、自分が頭の良い方だとは思っていない。杏子辺りだと周りのレベルが高すぎるからだとフォローの言葉も出てくる環境らしいが、それでも周りに合わせなければ得られるものは少ない。

少し乱れた花籠を直しつつ、サイドテーブルに飾りながら先ほどまでの智也の言葉に色々考えてはみるが、桜子の乱れた思考は纏まらない。

「なんで、この世の理レベルの流れについて智也君が知ってるか、それがまずわからない」

思わず思ったままに口にした独り言に智也がわざとらしく吹き出し、その隣で肩を寄せる真緒がクスリと笑った。

「それは、その……今回、俺が理の流れから運よく外れたのは色々理由があるわけだが、まぁ、あれだな……直人をほんの一口だけ喰ったからだよ、うん」

智也が急に、普通の人間ならば一見無表情ぽく見えるであろう、けれど親しい人間からは一目でわかるくらいバツが悪そうな表情で視線をわざとらしく泳がした。

「はぁ?!」

思わず聞き漏らしそうになった重大な一言に桜子は思わず手に触れていた花を一輪、握りしめ折りそうになって、あわてて花籠から手を離し智也の顔を凝視した。

「だーから、こんな大怪我になっちゃったのよねー。食い意地張り過ぎ」

あっけらかんと笑う真緒の一言が、聞き間違えかと願わずにはいられなかった桜子の思考に止めをさした。

「あーーーーーんなに止められていたのに。食べちゃったんですか?!直人君の危険性については散々センターから伝達されてましたよね?!時折、惹かれてしまう人間がでるって、誘惑に負けて口にしたら何が起きるかわからないって。だから私が周囲から目立たないように溶けこませてたのにっ!力を解除してみれはこのざまですかっ?智也君なんて特に被害者を目にしてたからこそよーく怖さを知ってましたよね?!」

思わず捲し立ててしまう桜子の前、常日頃図々しくみえる智也がだんだん身を縮ませ真緒の背中に隠れようとするのを、桜子はベッドの中央に引きずり戻し、さぁ、話せとベッド脇、仁王立ちした。

「ほんの一滴だけだよ。心も奪われそうなほど芳しくて艶やかな甘い赤い一滴。……いっつもお預けされてたんだ。今回、センターにバレないようにしてやるとか直人の奴がほざくし、俺の方も色々と有益だったし、せっかくだからお誘いにのった訳だが、まさかこういう誤魔化し方だったとは……あいつ、質がわりーよ。マジで。……せっかくだし、本当はもっと啜りたかったが、身体が持たなかった。喰い尽くすなとか言っといてこっちが喰い尽くされるかと思ったよ。力が内から途方もなく涌き出るのに内側から食い尽くされる怖さと快感。あれ、半端ねーな。俺、半分は人間で良かったよ」

人の煩悩が足引っ張ってギリギリ立ち止まれた。

人外の香りを漂わせる思える甘く溶けそうな、世の女性陣を惑わすであろう表情を浮かべた後、包帯まみれの手で表情を隠しながら語られた内容は、センターにバレたら……いや榊さんの耳に入ったら大変な内容すぎて、桜子は後半までしっかり聞き取らず後々後悔することになる訳だが、この時はそれどころではなかった。

「じゃ、この怪我、原因は智也君の悪食趣味が原因ですか?」

桜子がシュピーンっと人差し指を突き出し真っ白な包帯だらけの身体を指差し指摘すれば、頭をポリポリかきながら、智也は薄い苦笑いを浮かべ、やっと桜子の顔をしっかり見つめ返してきた。

「ちげーよ。こんなもん見た目だけで、根本的な原因のちょっとしたオマケに過ぎない。もっと根深くてねちっこくてキモいことを考えてやがるんだ、今回の直人のヤツは。しかもそいつのお綺麗な表面だけに光を当てて、今回の俺の怪我や本当の目的なんてもんまで誤魔化しやがった。さらにはどこで嗅ぎ付けてきたんだか、孝典までしゃしゃり出てきやがって、軍部経由でこーんな豪華なお部屋を準備してくださった。……大体、あいつが、直人が一番ヤバイ奴だって、軍もそろそろ気が付くべきなんだよ。味方になるのか、敵になるのか。センターみたいに本気で決めないと……そのうち潰される」

いつもの無表情を片手で隠しながら語る智也の言葉に嘘や誤魔化しなと微塵も感じられなかった。

「あ……孝典さんが軍部がらみって噂には聞いてましたけど本当なんですね。しかし、……軍部とか、潰されるって……極普通……じゃないけど、一高校生に対してまた随分な言い様ですね」

智也の義父である孝典と軍部の関係性については、桜子もずいぶん幼い頃から榊さん自らに何度となく注意されていたし、距離を置いていた。しかし、ただの姫神の下部である高校生の直人に対する随分な智也の言い様に、以前の二人の立場を思いだし桜子は少し顔を歪めてしまう。

よくよく思い出せば、いまは、仲良しこよしとはいかなくても、そこそこ反りが合っていそうな智也と直人の二人だが、以前は互いの命を奪い合う戦いを繰り広げたことを桜子は忘れそうになっていた。

「いや、そうでもないよ。直人は八尺瓊姫の下部になり、更にはセンターに組み込まれても、なお、桜子ちゃんっていう、強力な見張りがつけられている」

「見張りですか?まぁ……確かに役立たずな状態での配置のみですけどね」

ここのところのないがしろ度合いや、自分の能力を発揮できていない案件を思いだし、桜子から深々としたため息がこぼれ落ちた。

「桜子ちゃん……。君は一線から退いたとか思っているのかも知れないが、本当にそうかな?……案外本当はここが第一線なのかもしれないよ」

常に表情が読みにくい智也の言葉は冗談なのか本気なのか汲み取りにくい。でも、今のは確かにふざけているようには桜子には聞こえなかった。

「え……第一線って、また……大袈裟な……」

思わず掠れる自分の声が更に智也の言葉にその可能性を乗せていく。確かに直人については異例な事が多い気はしていた。榊さんが只の駒として使う為の準備なんて何度も目の前で見せられてきた桜子だが、今回の直人だけは、駒とかそんなので理由付け出来ない事象が多いのは確かなのだ。

「直人の力、可視化と具現化、いや、実体化……とも違う、インスタンス化……だと俺は思っている」

「なるほどねー」

智也の言葉に静かに智也と指先を絡めていた真緒が相槌をうつが、桜子には何が何だかわからない。

「インスタンス……化?すみません!頭の良くない私でも分かるように解説願いますっ!」

そうだすねれば、

「物事に意味とか方向性を持たせるって解釈でいいのかしら?」

真緒が知的な光を乗せた笑顔で桜子に教えてくれた。しかし、智也は真緒の言葉に同意も否定も見せることなく

「屍で埋る絶望の大地で夢見る東から昇る月、か……。多分ね、直人はああ見えて、一番優しくて、そして……一番残虐なのさ」

そう、静かに窓の外に見えるこの街一番の建物の赤い点滅とその横を流れる川を見つめながらボソリと呟いた。


*****


杏子にメールで教えられていた直人の部屋番号は、以前彼が長い時間を過ごしていた部屋よりも上層階だ。だが、階ごとの作りはほとんど変わらないので、探すのは容易だった。

桜子の朝からの違和感も忘れてしまった大切なことも、智也がこの街居る理由も桜子が真緒にした願い事も、全部直人が思い出させる。そう智也は血の気の少ない無表情に隠された顔色で笑って言って、二人を病室から送り出した。


「何で……」

たどり着いた直人の病室の扉の前。桜子は愕然とした。

「こっちも、面会謝絶って書いてあるわねー」

あっけらかんと真緒が壁にかけられている札を指差し笑う。

智也の話から、昨夜、直人と智也の二人は行動を共にしていたらしいが、そんな話、桜子はこれっぽっちも聞いていない。

「気にしない、気にしない!」

「えー??!!!」

智也の病室同様、勢い良く扉を開け入室する真緒に、桜子は慌てふためき後を追った。

智也の部屋と異なりかなり狭い、……いや、通常サイズの白い個室は消毒や湿布薬や色々な薬品の匂いで満ちていて、その中央に置かれた固そうな白いベッドの中央が膨らみ、横に置かれた点滴へと透明な管を繋げている。

「はろはろー!お見舞いに来ましたー!部活の美人で優しい先輩、真緒ちゃんと清らかな同級生桜子ちゃんのコンビだよー。勝手に病院から飛び出して重症化したことになってる直人くーん。元気かなー?」

どっすーんっ!という擬音が似合いそうな勢いでベッドの上のに飛び込み座った真緒の言葉に、つぶれたようなうめき声が聞こえたのは桜子の気のせいではないだろう。それよりなにより、先日の帝都での怪我を治療中だと聞いていた桜子には、入院していたにもかかわらず、土曜日の午前中より青ざめやつれた様子で、ベッドの中から現れた直人の姿に愕然とせざる終えなかった。

「ええーー?!何で、連絡無しに飛び出して、悪化させてるんですか!!」

ベシベシとベッドの上の布団を叩き訴える。確かに智也の話の通り、昨夜二人は行動を共にしていたらしい。しかもだ、かなり悪い事をやっていたとしか思えない。見るからにどう言い訳しようかと悩む表情を見せる直人が、智也同様管を繋げた手で頭をポリポリとかいてみせる。

「いや、桜子ちゃん。これには深ーい訳があってね。って……あれ?あなたは……」

桜子の予想通り言い訳を口にし出した直人が、自分のベッドに座る真緒の姿に固まった。

「だーかーらー、美人で優しい先輩、真緒ちゃんだよー」

桜子の目の前。真緒の言葉に一瞬、直人の顔に色々な感情が走って見えた。

「なるほど……」

突然面白そうにクスクス笑いだした直人は、その振動が体の傷に響き渡るようで体を曲げて苦しみながらも笑い続けている。

「お見舞いありがとうございます。真緒先輩。そのお姿を拝見できる日がこんなにも早くくるとは思ってもいませんでした。昨夜のけしかけといい、あなたが黒幕なのかとも疑いたくなった僕に罪はないですよね」

意味も訳も桜子にはわからない。けれど、刺々しい、と言うよりは棘しかない言葉だと桜子は思った。これは殺意にも似ている。

「おおよその目星はつけてるだろうに酷い言いようねー?大体私がこの街に<こんなこと>するわけないでしょう?はい。これ、お口に合わないだろうし、そもそも食べられないだろうけど、差し入れのお菓子の詰め合わせ。あなたの<黄昏時の御方>に誓ってもいいわ。ついでに言わせてもらうと、今まであえて姿を見せる気が無かった訳じゃないのよ?あなたのその目が勝手に感知してフィルターをかけちゃっただけ。〈頂点捕食者〉の直人君♪」

ニコニコと笑う真緒の両の眼は笑ってない。それを真っ直ぐ見つめ返す直人の瞳も冷たい光を宿している。桜子はその緊張感の中、身動きが取れない。呼吸さえも止まってしまいそうで目眩さえ感じてしまう。

外の雨の音が妙に大きく聞こえる程静かで張りつめた白い病室の中、先に沈黙を破り笑って見せたのは直人だった。

「ないわー。マジないわー。<黄昏時>に、<頂点捕食者>って……また、ずいぶん酷い言い様だな。……ああ、智也からの入れ知恵ですか?あいつ、一滴であそこまで苦しんだ癖に何処まで視たんだか……」

「情報源が智也だけとは限らないでしょ?」

頭が痛むのかこめかみに指先を当て苦笑いを見せる直人に、こちらも再び笑顔を浮かべる真緒が立ち上がり、ベッドを座りやすく起こした。

「あ?え?どういう事なんですか?!」

まるで真緒とは初対面かのような直人の態度に、訳かわからない桜子は二人の顔を交互に見ながらたずねる。

「ああ、直人君には、今まで、私、見えて無かったのよ。存在は知っていたみたいだけど」

衝撃的告白を何でもないことのように話す真緒の言葉に直人も頷き言葉を続けた。

「うん、みんなの話や様子で察する事しか出来なかったんだ。で、先輩。その割りには、戦闘中、一番の修羅場に一番の問題の核心であり爆弾を連れてやって来て、俺の彼女可愛いだろう自慢をしだした重傷の智也とここでしなくても良いだろうと誰もが思ったであろう痴話喧嘩を始めてくださりましたよね」

先程までの殺気とは異なるものの、直人からの棘のある言葉に

「だって喧嘩ってタイミングずらしたら更に拗れちゃうじゃない。私は智也君と常に仲良くしていたいの。しかも誰かさんのお陰で智也君、瀕死状態だったしぃ」

と真緒も動じる事もない。この二人の会話から推測するに、どうやら昨日、智也と病院を抜け出した直人は夜中に会っていて、そこに真緒が乱入したようだ。桜子は静かに二人の会話から状況を理解しようと、智也の部屋の物より小さく質素ながら清潔感のあるサイドテーブルに握りしめていた花籠をそっと置いた。所々声を震わせ、掠れさせながらゆっくり語る直人の様子に、その体調の酷さが窺える。

「おかけさまで、僕の予定、狂いまくりでしたよ。あの場所、あのタイミングで遥香まで使い魔にしなきゃいけなくなっちゃうし、僕の限界、突破してましたよ」

耳に響く直人の穏やかな声がある一点で、ある単語を境に突然桜子の中に激しい爆発にも似た感情を駆り立てた。

「ハル、カ……?」

桜子の中の違和感が疼き、ありもしない痛みが身体中を駆け巡る。

聞き覚えがない筈の名前。けれどなぜか、忘れてはならない名前だと思った。

守りたいという強い気持ち。一緒に雨の中泣いた悲しい想い。

浄化なんて桜子には無理だけれど、それでも二人をどうにかしたかった。

……二人?

ぐるぐると頭の中が渦巻いて、見えそうで見えない中心に近づけない。そんな嫌な感覚が桜子の中広がっていこうとする。

「限界なんて、突破するためにあるようなもんよ。しかも直人君ってば、本当は最初から智也君の力を吸収して遥香ちゃんを取り込む予定だったくせに」

ウ・ソ・ツ・キ

真緒の唇が妖艶に動くのを直人は見惚れる事もなくさらりと笑い返してみせる。


ウソツキ。

そう、嘘つき。

その言葉に桜子の中の渦巻いていた色々な記憶の欠片がバラバラと音を立てそうな勢いで崩れ落ちていく。

嘘つきは誰か?

守りたいと言っていたのに忘れてしまった桜子なのか?

再び身体中を駆け巡ったありもしない痛みが桜子の違和感を先程より更に強く疼かせる。

それとも、本当の気持ちを伝えられないでいたあの二人なのか?

八つ裂きにされているかのように身体中が痛く感じられる。頭が割れそうに痛む。けれど、その先に桜子は見えた気がした。

姫神様の力に祝福され同時に呪われた兄と妹の二人。

桜子には想像も出来ぬ筈の、別れの接吻(くちづけ)

そう、それは……

桜子の頭とか心とか呼ばれるところにある何かが激しく弾け飛んだ瞬間、桜子は忘れていた自分を思い出した。

「ハルカ……遥香……そうだ!!遥香ちゃん!!遥香ちゃんだよ!何で、私忘れちゃってたんだろう?!」

今朝から桜子の中渦巻いていた違和感が、雨に打ち付けられる汚泥のように、すべて流れ落ちていく。昨日智也に会ったのも、真緒にお願いに行ったのも全て辻褄が合う。何で忘れてしまっていたのか。どうして周り人々は気にもしなかったのか。

思い出した今、桜子は忘れていた自分の状況が怖く、その該当人物が見当たらない現実が恐ろしかった。

「……あれ?じゃ、遥香ちゃん、今どこに?あれ?先輩の家に昨日一緒に泊まりましたよね?!遥香ちゃんは?!」

動揺し真緒の両肩を思わず掴めば、直人がそっと、智也より包帯は少ないものの、血の気の引いた手で力強く桜子の動きを止めてきた。

「あぁ。思い出せたのは、ここが、直人君の部屋だから。忘れちゃったのは、昨夜、直人君自らが遥香ちゃんを人じゃないモノにしちゃったから、かな?」

そこにある携帯端末、誰がいじったのかわからないけれど簡易的な禁厭や力の増幅機能があるみたいだから、こんなに弱った直人君でも居るだけで端境もどきが作れちゃう、みたいな?

「え?人じゃないモノって……?」

真緒の何かを知っているかの口調に、桜子は嫌な予感しかしなかった。昨夜ボロボロになって帰ってきた智也と直人。人ではなくなったと言われる遥香。それでは大地が消えてしまったと言うのか。自分の無力さに桜子は視界が涙で滲みそうになるのをグッとこらえた。

「大丈夫。いや、あんましこの天候は大丈夫でもないけど、大地君はまだ絶賛この街に害をなしてるわ。消えてない。遥香ちゃんは直人君自身の手により彼の使い魔みたいなものにされちゃっただけ」

「真緒先輩、その言い方ないわー。桜子ちゃん、心配しなくても大丈夫だよ。大地はまだ消えてない。今夜こそ僕が連れ帰る。遥香ちゃんも大地も来週にはいつものように笑顔で学校に通えるようになってるよ」

「上手くいったら、でしょ?失敗すれば今度こそ二人の記憶は完全にこの世界から消え去っちゃうから桜子ちゃんでも完全に忘れちゃって揉み消し完了!まるで誰かさんが揉み消しちゃった世界みたい、ね」

恐ろしい言葉を次々に唇にのせる真緒は冗談のように笑って、桜子に現実離れしたかのような感覚を与えてくる。恐る恐る桜子が手を握りしめてきた直人の顔を見つめれば、直人はいつもなら見せない位優しく桜子に笑いかけ甘い言葉ばかりを吐き出すと桜子を自分の側のベッドの端に座らせ、真緒を強く睨み付けた。

「マジないわー。……真緒先輩、あなたは鬼だ。全部僕が背負い込むつもりでいるというのに。……あなたはこの土地の方。今回の事も、僕の事も全てお見通しなんでしょう?」

背中からの直人の抱擁は優しく温かいのに、耳元に聞こえる言葉はその温もりが嘘のように、桜子には冷たく凍てついて感じられた。

「いやだ、神様みたいって冗談ぽく言って欲しいわ。とは言っても直人君に関してはわからないことだらけ……。それに知らないことや、忘れてしまうことが、不幸だとか幸せだとかで括れるものとは限らない」

真緒の冷たい言葉の後半はまるで昨日の遥香の告白のようだった。そして同時にすぐ隣に座って桜子の髪を撫でている筈の真緒の言葉が桜子にはとても遠くに感じられる。

「神というよりは第一神使様の依り代を代々縁者として祭る一族でしょ?」

「なんだ、朔から聞いたの?」

「いえ、色々と察するには余りある状況から推測しただけです」

棘と棘が刺さり合うような互いを傷つけるためだけの痛い会話だと桜子は感じた。暫しの沈黙の中、先ほどまで辛辣な言葉しか吐かなかった真緒の口角が、何を思ったのかニヤリと引き上がる。

「そう。まぁ、そんなことどうでもいいわ。ねぇ、取引しましょうよ。今回みたいに毎回、智也君を中毒患者みたいにあなたの奴隷にはさせたくないし、桜子ちゃんからもお願いされたことだし。そうね、そのすこし人の身には余る<凪>、この地の風で払ってあげましょう。だから……」

直人と真緒の冷たい会話が桜子の頭の上での耳打ちに変わる。

直人が人でないモノにしてしまった遥香の現状も、行方不明の大地の状況も、一度は忘れかけてしまった桜子の記憶も、みんなこの二人の手のなかにあるかのような感覚に桜子は囚われそうになる。桜子が聞きたいこと、伝えたい言葉はたくさんある筈なのに直人と真緒の気配がそれを許さない。

「……いいですよ。わかりました。どこで聞きつけてきたんだか。しかしこちらも旨味がある話だ。でも智也を止めるのはご自身でお願いしますよ。どうせ桜子ちゃんからはなにかしら対価をもらってるんでしょ?許せない事ではありますが」

真緒との耳打ちの後、直人の唇からこぼれ落ちる言葉にはなぜか笑いが含まれていた。すぐそばでの会話だったのに桜子にはなにも聞こえなかった。けれど場の雰囲気が一気に険悪なものから友好的、とは言いがたいが、それなりに桜子も息がつけるものへと確実に変化する。

「うふふ。それはヒミツ。交渉は成立ね。朔には今夜向かわせるから、それまでこの苦しみ、よーく味わっておいてね。人を人でないモノに貶める重い罪の味」

話は終わったとベッドから立ち上がった真緒が最後の一言と同時に一瞬別人の様な恐ろしい気配を放ったように桜子には感じられた。それは昨日みた神々しく美しい真緒とは違う、人間の欲望の塊のような薄汚い恐ろしい感情の塊、鬼にも近いようなもので。けれどすぐさまそれは幻のように消え去って、桜子は思わず我が目を疑い、数回擦ってみたが、何一つ跡形はなかった。

そんな桜子を知ってか知らずか。満面の笑顔を見せた真緒に腕を引かれ、桜子が訳もわからぬまま直人の病室を後にさせられそうになった時だった。

「桜子ちゃん、お見舞いありがとう。今、遥香ちゃんには人払いをお願いしてるんで会わせられないけれど、彼女はもう消えないよ。大丈夫。安心して。ちゃんと桜子ちゃんの力のお陰で、想いの力でその存在を維持できている。彼女が一番望む形を目指して今頑張ってるところだから。だから安心して」

閉まりつつあるドアの隙間。入室時以上に真っ青な顔で点滴に繋がれた腕を降りながら見送る直人は弱々しい笑顔を張り付け桜子の一番気にしていたことを伝えると、電源が切れたロボットの様にそのままベッドへと倒れこんでいったように桜子には確かに見えた。



「あんなギリギリの身体でよく耐えたかな。それとも、よっぽど桜子ちゃんには弱い所を見せたくないのか。……ねぇ、桜子ちゃん。桜子ちゃんには大切なことだから教えてあげるわね。彼は……直人くんは、今のところ勾玉姫の下部という表現で正しいんだけど、智也が言う通り、いえ多分、もっともっと恐ろしい男よ。おそらくは智也なんかよりずっとずっと質が悪いもの」

真緒に腕を引かれたまま、直人の部屋を出てエレベーターを待っているときだった。何かに気がついたのか後ろを振り向いた真緒が深くため息をひとつ吐き出すと桜子にそう話し出した。

告白、というよりは予言に近いものを桜子は感じた。そう時折センターに姿を見せる神使様のお言葉を彷彿とさせる響き。やはり先ほど直人が真緒の一族が言った第一神使様の依り代を代々縁者として祭る一族というのは、嘘ではないのだろう。そして間違いなく真緒はその依り代様であり、真緒自身が言うところの閉じ込められたお姫様なのだろう。確かに真緒は小学生の頃から毎回修学旅行に参加しないと桜子も噂に聞いた事があった。

「恐らくは、姫神様に……この国、この世界自体に仇なすものとなるでしょう。……いえ、既に仇なしてる存在というべきか……」

エレベーターの扉が開き、何事もなかったように桜子の腕から手を離し、先に乗り込んだ真緒が桜子に背中を向けたまま、そう言葉を続けた。

その言葉の余韻を含んでいたのか。

一瞬、その背中が昨日見た長い髪の時の着物姿の真緒に見え、桜子は扉が締まり階の表示が一階を示すまで、そのままその場で立ち尽くしてしまった。



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