00-2
人間によって小さく千切られた都会の空が夜に帰っていく。残った空間は風が澱みを薄め、星が清める。
生まれる前から使いこなしていたかのように、指に、手のひらにしっくりくるこの大剣を握るたび直人は姫神という存在に思いを馳せる。神々の次元より程遠く、普通の人間とほぼ変わらぬ場所に直人は居る筈なのに、それでも人から少し剥離し、契約媒体を神器に変化させて握れば、自分と言う存在はそのままなのに、時折、世の中の在り方自体が何もかもが変わったかのように感じてしまう事がある。
末席とはいえ人から八百万の神々の中に入られた三柱様はどんな気持ちで人間としての意識や感覚をこの体から、心から完全に剥離させていったのだろうか。
不気味さを際だ立たせていた黒雲がいつのまにか溶けだし、鮮やかな朱色の面影だけを残した色彩の中、いまだに見馴れることのない西から登った白く細い月が薄っすらとこちらを覗いていた。
あの日直人が見た、咲き乱れるほど美しく散り際を匂わす切ない夕焼けはやはり、ここでは見つからなかった。
「綺麗なお姉様だからっつって、簡単に一線越えてんじゃねーよ。……ったくよー。さっきから耳鳴りが止まない。七瀬の仕業以外ないだろう」
般若の形相になってしまった逆さ立ちの女だったソレを見据えたまま、大鎌を構え直す智也が隣で残忍な作り笑いを浮かべ、直人の失態を笑い、その後の判断と行動を肯定する。
「ないわー。マジでない。その、誤解しか生み出さない発言、止めてー。まったくもー。仕方ないでしょう?襲いかかられちゃったんだから……。七瀬さんはまた、祭りが忙しかったりするんじゃないんですか?禁厭がかけられているなら、こちらもとりあえず対応できますし」
RPG設定なら戦闘時必ず欲しい魔法職に当たる人物の名前に賛同を示し直人は大剣を構えた。
良く言えば完全文化系、ぶっちゃけて言えば引きこもり系の直人は、小学校の頃の球技系野外活動にも、中学での運動部の部活動も、全く興味を持たなかったし、関わる事も無かった。だから、今になって中学の体育の授業で大雑把に習った剣道が、こんなところで役に立つとは、世の中何が起こるかわからないものだとしみじみ思う。たとえ武器の種類が異なっていたとしてもだ。
呪いの禁厭にも似た禍々しいうねりをもって、空間を切り裂く音が響く。
人間らしさをごっそり失い、既にOL姿の女性とは表現し辛い般若女が、電車の中の付け過ぎられた香水のように悪意を周囲に振りまき、その黒く長い髪を鞭のように軽口を叩く直人に向け打ち付ける。
同じ臭いの害でもこの香害だけは直人にだって不快感に同調できる。よく、智也が混ざった臭いを纏ったままいけしゃあしゃあと現れるのだ。まるで置いていかないでと泣く女の人を引き摺るように。
要は女の執念といったところだろうか。
「こっちが、片手間とかどんだけ人間腐ってやがる」
「かなり腐ってますよー。腐女子だって自分で言ってましたよ、七瀬さん」
未だに慣れない重さに、腕が吊りそうになりながら大剣を振るい我が身を守る直人との間隔を見計らいながら、じわじわと智也が軽口を叩きながら鞭打つその髪を削ぎ落としていく。
逆さ立ちで髪の毛を鞭代わりとは、どれだけ長くて丈夫な髪かと突っ込みたくもなるが、〈鬼〉を引き寄せ、目を付けられたのだ。それぐらい、直人がこの大剣を振るうのと同様に、〈災厄〉側でも、普通であった人間でも短期間かつ簡単に習得できるのだろう。
姫神との契約媒体と異なり、鬼との契約媒体はいたってシンプルかつ明確な場合が多い。
言葉に出来ない違和感は多少あったものの、おそらく彼女の契約媒体はあの髪かそれに付随するもの。髪の毛を鞭として般若女が攻撃し始めた瞬間から、直人と智也の、それは会話確認はなくとも二人の合意であり、それを考慮して二人は確実なダメージを避けるように動いていた。
「それ、腐ってるの意味が違う気がする。が、この般若女より七瀬の方がえげつないバケモノなのは確かだ」
『……あー、よんだ?』
足元を狙ってきた髪から跳ね上がって、直人が同意を口にしようとした時、その常に気だるそうに響く声は聞こえた。
存在を忘れていた切ったはずの左耳のインカムから、えげつないバケモノと評された女性の声がする。
「連絡遅っせー。この忙しい時に独り妄想遊びなんかしてんじゃねーよ、七瀬っ!」
直人と同じように右耳を押さえ、怒気を含ませる声を響かせる智也の視線を追い、見上げたホームの柱の上についた防犯カメラのレンズが、妖しく光った気がした。おそらく七瀬は、このカメラ越しに、こちらを監視しているのであろう。
『……あ、連絡すんの忘れてた。あー、そこ、空間、もう切っといてあるから』
空間を切ったということは、この会話もインカム越しだが携帯電話の電波を利用しているわけではなく、〈鏡姫の下部〉こと八咫姫第二神使下部であり、この国で一番電子機器に愛されている七瀬お得意の、神憑り的な禁厭を使って、通信を行っているということなのだろうと推測される。
だから同時に、この空間は、今、物理的には帝都には存在しない。
「七瀬さんがはやく連絡くれないから、僕、危うく年上の元お姉様の強烈なアタックに負けて、髪の毛グルグルプレイに走っちゃうところでしたよ」
『あ。それ……いい、ね。攻めの女体化でショタ成分多目にすれば多分薄い本のネタにできるよ、うん。ぐふふっ』
「はぁ?!ああ、もう、ないわー。それない。また無駄な知識が増えちゃうでしょ?!薄い本のネタなんかにしなくていいんで、早く解析し直した詳細データくださいって」
智也が削いでも削いで減らないどころか、逆に増えていく印象さえ感じる黒い髪の鞭は、現在三つ又に別れ、それぞれが別々の生き物のように動き、攻撃を強めてきている。智也に対しては顔や急所を狙い振り下ろされる鞭の攻撃が、直人に対しては手や足元といった体の末端を狙ってくる。
例えが、電車内のハンバーガーテロでも、ホイホイでもどっちでもこうなると細かい事は構わないが、その、自分の元へと絡め引きずり寄せようとする般若女の意志が、ありありと見て取れる動きや状況に、若干苛立ちを覚えつつある直人は、解決策に繋がるものの提示を少し気持ち悪い笑いを溢れ出させる七瀬に求めた。
『なにぃ?せっかく一線越えてまで誘い受けして攻略したのに、いざ本番がきたら、デレたと思ったツンデレちゃんがまさかのヤンデレで、しかも病みに戻っちゃったのが気に入らないの?愛が足りないのよー。直人君、わがままー』
並べられる意味不明な単語に、一瞬何のことかと直人は思ったが、どうやら先ほどの自分のミスを七瀬が完全に把握していたと理解した。
「ない、ない、ない!!七瀬さん、連絡入れないフリして、最初から見てましたね?!そして、言ってる言葉の意味がほとんどわかりませんっ。こんな時になんですが、これは違うでしょ?!ヤンデレなんかじゃなくて、ただの補食本能でしょっ?!!」
『うるさいなー。わたしは三次元の病んだ女に触手は動かないの』
「七瀬さんの嗜好なんて聞いてませんって!!だいたい、BLにだって、女に変わるやつがあるんでしょ?しかも、あなた、自分が三次元女なの忘れてるでしょ?!」
常日頃の七瀬との通信により妙に蓄えられた偏った知識を片手に反論するも、この手の直人の指摘など聞く耳を全く持たない態度の七瀬の声に、キーボードを叩く音が混じる。
『今日はねー。日が悪いんだかなんだか知らないけど、一人で三箇所のバックアップに入ってんの。連絡が遅れても文句をいわないー。ちゃんとタイミングは合わせてあったんだから平気だったでしょ?』
のんびりと語られるものの、七瀬の三箇所同時のバックアップ発言に直人も閉口するしかない。
七瀬は彼女が存在する場所と、力が効力を発する場所が離れていても問題が生じない、特殊パターンな人材だ。言い換えれば、離れている場所もバックアップできる七瀬は、帝国内全てををバックアップしている、といっても過言ではない。三箇所と言えば、七瀬の許容量ギリギリとはいかないものの、かなり神経を擦り減らすレベルだったと直人は記憶する。
どうやら人が足りないのは、今日に限っては本当らしい。
『えっと、伊藤遥ちゃん、二十八歳。両親と高校入学後から引きこもりになった弟と同居という典型的現代型ファミリーの四人暮らし。幼児期から義務教育期間、高校と目立った問題なし。都内私立短大卒業後から現在までの仕事は営業系事務職で職場の評価はそこそこ。趣味は歌うことと踊ることと、手芸好きから派生して高校からはじめたというコスプレと、撮影会に参加することで……あぁ、やっぱり最近サイトとか荒らされていたみたいねー。原因は…一見、遥ちゃんがマナー違反したっぽくなってるけど、これ女同士の足の引っ張り合いだね。や、相手の女、汚ったねー。えっと、ふっ、スネークとか、バッ、なにやってんのぉ、個人情報晒しすぎ。ちょ、これ、やり過ぎっしょ。高校生の直人君の前で話せいないような内容じゃん。そりゃー人格崩壊するわ。契約媒体は…っと、んー、やっぱ、お二人の読みどおり、やっぱりその髪自体で正解かなー。ちょっと前にコスプレ関係のいざこざから派生したストーカーに電車内にて、髪の毛の一部を切られる被害にあってる。女の髪はそれでなくとも力が宿るからねー。それがきっかけかなー?』
「ふーん。本当にそんだけなの?ずいぶん直人には積極的なアピールかませてると思うんだけどさー。……で、<トモエ>との関連性はねーの?」
続けられたかなり主観が入り混ざった七瀬の言葉に、髪の鞭と反射神経比べを楽しんでいた感もあった智也が、その動きを一瞬止め、聞くものが背中を黒く冷たい良くない物が這うような感覚を受ける声を発し尋ねる。
『んー。ないと思う。やっぱり電車内のきっついファーストフード臭にお怒りなんじゃない?ほら、私も前に事務所で飢えてる時、智也にやられた時は、ネットワーク上の預貯金データを全消去しようかと思った位だし。……あ、隠し垢も含めてブログとかSNSの過去ログ、漁ってるんだけど、ペンペン草も生えない位荒らされてるねぇ。うーん、該当項目はなさそうねー。おっかしいよなー?侵食が早目なだけだったのかなー。OL姿も彼女にとってはコスプレだったのねー。他人事と思えないわー』
最後の一言に直人は、何時もならジャージに半纏で過ごす七瀬が、官公庁街らしい服装を違和感なく着こなし、他省庁に厳しく指示を入れる一面を思い出す。
あれはどうやらコスプレの一種だったらしい。女は怖い。あとさらりと語られた食い物の恨みも怖い。
「そうか……。ならいつも通りの生け捕り、でいいんだな?」
あっさりとした七瀬の返答に、チラリと見え隠れしたように思えた智也の生々しい表情は、智也と組んでから何度も<トモエ>という言葉に付随して見ているものなのに、直人にはどんな感情が篭っているのか全く想像が付かない。けれどそれは直人が聞いてはいけないし触れてもいけないモノだと本能的にだけわかる。線引きはシビアにきっちりされていた。
『そそ。そいじゃ、GO!しちゃっていいんで。よろっ!』
多少順番は狂ったが空間隔離の確認が出来た。上司からの許可も下りた。これでやっと、大腕を振って般若女本体に向けての攻撃が可能となった。
智也が大鎌の長柄をクルリとその手の中で回し、刃があるほうを上にし構えなおすと、一瞬視線を直人に向けた後、柄で軽くホームのコンクリートを叩いた。
トンッ
音にもならない乾いた小さな振動だ。
しかし、その振動に合わせ、直人と智也は今までの動きが嘘だったかのように、ホームを軽く蹴り上空にその身を躍らせた。
*****
突然の二人の反応速度の変化に、一瞬躊躇を見せた髪の鞭は、己の不利を判断したのか、一斉にその数も量も攻撃の質も向上させる。
ウヨウヨ動くその様は、西洋の神話に出てくる、髪の毛が蛇の神様を彷彿とさせる。
「なー、遥ちゃん、そろそろ、オイタは止めてせめて人間に戻ってこよう、な?堕ちるのは、<鬼>に取り込まれるのは簡単だが、元にもどるのは、滅茶苦茶大変なんだ。手を貸してしてやっから一緒に楽しく姫神様の神使の下部になってちまって、公僕に非正規雇用でこき使われる生活をエンジョイしようじゃないか。あ、でも遥ちゃん、正社員なんだよな?だったら今までどおりの生活を続けながら、国家権力振りかざして思う存分復讐三昧しても良いし、神様使って、壊されたものを全部完全復元してしてもいい。連れて歩くだけで羨ましがられるほどのイケメンである俺様も出来るだけ付き合ってやるからさ。……但しこれがラストチャンスだ」
黒蛇の鞭の海の中、軽々とそれらを掻い潜ってストンと般若女の背後に逆さ立ちした智也が、般若女の耳元で甘く囁いた。その手に握られた大鎌の刃の鋭い先端は、確実に般若女の喉元を狙っている状態だ。
「ないわー。本当にないわー。智也の言葉はいつ聞いても理系国立大生とは思えぬ頭の悪い台詞にしか聞こえないわー」
そう冷やかす直人も、渦巻く黒蛇の鞭の束を軽々と切り落とし、本来なら自分の頭がある高さの位置に足を構え、逆さに立つ般若女の心臓の位置にまっすく大剣の剣先を沿えた。
「俺、リア充だから」
いやらしい、いかにもな作り笑いを浮かべてそう言った智也が、大鎌を持つ手に入れる力を少し強くしたのか、般若女の大鎌の刃が当たる喉元から赤い筋がまっすぐ彼女の顎の方に刻まれる。
「嘘ばっかり。このリア獣。智也は他種の雌しか興味ないでしょ?遥さん……でしたっけ?そこのバカが言うとおり、人としての次元を下り鬼になるのは簡単ですが、そこから人としての次元に戻ることはかなり難しいんです。でも、今ならただの人には戻れませんが、人に近い次元には戻れます。世の中、そう悪いことばかりでもないですよ。あなたは今ら特別な力を得るチャンスを得た、貴重な存在です。こちらの手をとるならば、国があなたの身の安全を保障します。ここまでで積み重ねてしまった罪もチャラにしてもらえるそうです。さぁ、戻ってきましょう。今ならあなたのどんな願いにも、姫神様が耳を傾けてくださいます。壊されてしまった環境だって、あなたが望めば、元通りの姿で手に入る。ここまで力の差があるんです。あなただってもうわかっているでしょう?僕達には勝てないって。あきらめて戻ってください」
智也が言った内容とほぼ同じだが、耳障りのいい言葉を選び直人も般若女に語りかけた。まるでどこかの胡散臭い新興宗教の誘い文句のようだ。いや、新興宗教よりも性質が悪い。甘い言葉しか紡がない。一度は道を踏み外してしまった人間への唯一の救いの手段は、呪縛という名の罰への誘いの言葉でしかない。
直人の目の前を、般若女の顎から赤い水滴がポツリポツリと滴っていくが、ホームに落ちる筈のそれは、何の跡も残さない。先程まで智也が大量に切り落とした髪の毛も同様に、幻か霞みだったかのように、この場に存在はしない。
この現象は空間的問題ではない。なぜなら直人や智也の残したものは確実にコンクリートの染みとなっている。とすれは、切り裂かれ消える欠片は、般若女が人間から離れつつあることを指し示す指標だ。直人達とは違うベクトル、違う次元への人からの剥離。
智也の言葉に、悩むかの様に軽く瞼を閉じていた般若女が、そっと瞼を上げ瞳に苦悩にも似た感情を浮かべる。まだ白目も黒目も人として通常のカラーリングに、願わくばいまだ、人としての名残惜しさを欠片でも感じていてほしいと感じる。
大剣を片手に持ち替えた直人は、彼女を絶望という〈鬼〉から救うため、手を差し出した。
「戻リタイ」
薄い唇から漏れたのは肯定の言葉だと思った。
けれど、一瞬にして苦悩の色合いから、愉悦の色合いに、瞳の感情を塗り替えた般若女は卑しく笑い、真っ直ぐその両腕を、直人の伸ばされた手ではなく、大剣に伸ばす。ジュウジュウと音をたてた般若女の腕の肉が、焼け焦げるような臭いをあげ、融ける様に崩れていく。真っ直ぐ直人が見つめた先、女は軽く瞬きをして見せた後、その瞳のカラーを白黒が反転したモノに剥離させていた。
「戻リタイ。ワタ…シ、ハ、戻リタイ!」
勢よく片手に握っていた大剣を引かれ、予想だにしなかった行動にバランスを崩した直人の両肩を、般若女が爛れた腕で抱きしめる。直後に直人の首元に激しい痛みが走り、意識が一瞬遠のいた。
「ちっ!!」
舌打ちと同時に飛び退いた智也の横っ腹を、その動きよりほんの少し早く動いた黒蛇の鞭が襲いかかる。避け切れなかったその体を、隣の柱へと叩きつけるのが直人の視界の端に見えた。
「あなたをチョウダイ。そして我は戻ル」
自分に齧り付きながら話される内容はえぐい。
心底求められてたとしても嬉しい内容ではない。どうやら冗談ではなく、直人はファーストフードテロというよりは肉汁滴るステーキ肉にみられていたようだ。
しかしながら、齧り付かれながらも、確実に相手の腹に片手ながら大剣を食い込ませる自分も十二分にえぐいだろう。
拒絶もここまでくれば残酷だ。先程まで囁いた隠し事の多い優しい言葉はとりあえず取り消しだ。
「そいつ、すっげー旨そうだよな。そいつを喰いたい気持ちは、よーくわかる。よーくわかるが、やめといたほうがいいぞ。腹を壊す」
柱にぶつかった様に見えた背中に、赤黒い大きな羽を生やし、衝突を回避した智也が、悪魔とか死神とか言われるもののように大鎌を振り上げ禍々しく笑った。
「それ、随分…ひどい…智也」
自分自身でも思っていた事だが他者があえて口にする、自分のあまりの言われように直人は苦笑しか浮かばない。
「そいつは旨そうだか、取り込む前におまえ自身が取り込まれて消えちまう。こいつが旨そうに見えるのはこいつ自身が疑似餌になって餌を待っているからだ。俺なんかよりこいつは数倍怖い。人間に戻る前にお前、魂ごと消滅すんぞ。もっと穏便に願いは叶えられる。まだ剥離の直後だ。これくらいなら壊された日常を仮初めであったとしても取り戻せる。喰うのをやめろ。これは最終警告だ」
続けられた言葉と共に、今までにない圧倒的な殺気を込めて、智也が大鎌を振り下ろせば、般若女の黒蛇の鞭の海が全て刈り取られ、断面が何処かで見たような青い炎で燃え爛れる。命の糧と思われるものを、切り刻む。対人としての手加減はなくなったのだろう。
「邪魔スルナ、我はコレヲ喰ラウ。イヤ、コレを喰ラウ為に我はアル」
直人に齧り付いていた手を、口を休め、宣言するその顔を直人が見上げれば、それはもはや般若顔の元人間だったモノではなく、完全に瞳の色が変わってしまい、罪人の証である結晶化した角が二つ額に顔を出す、正真正銘の〈鬼〉そのものの顔だった。
深いため息を一つした後、耳に付けられたままのインカムに手を添えた智也が、ゆっくりと伝える。
「聞いたか、七瀬。交渉決裂だ。随分深くまで侵食されてる。人からの剥離も瞳に角にと手に負えねぇレベルだ。この様子だと既に何人か人を喰っているかもしれない。……いや、喰ってんな確実に。これはもう引き剥がして生け捕りにすんのは無理な段階だ」
『うん、周辺の複数の行方不明者、確認できたお。お仲間になれると思ったのに残念。気をつけてー』
七瀬からの軽い言葉の宣告は、とても重い。
言葉の指す意味はいたって簡単だ。
殺すしか救えない。だから彼女の抹消を了承する。
出来れば殺したくないが、救えないなら殺すしかない。
直人たちが彼女を救うことを拒絶することは許されない。殺さない選択肢はない。それは、姫神からの命だからではない。バイト先である国からの指示でもない。
もともと直人たちも同じものだったのだ。直人だって、今の仲間の早い時点での助けが無ければ、同じ事になっていた。いや、存在の在り方からすれば、更に酷い事を巻き起こしてしまっていただろうと自負する。
直人も智也もここにはいない七瀬でさえ、同じように〈鬼〉や〈厄〉に漬け込まれ〈災厄〉となりかけていたところを救われ神使の下部として生き残れた。それは本当に紙一重の数パーセントの幸運であり最大の不幸だ。
消滅の選択は出来れば避けたかった。けれど、この状況のまま〈災厄〉となり人々に害をなし壊れて、魂ごと消滅することから救い出せる方法はただ一つだけ。剥離直後の今しかない。
これが今、唯一残された選択肢だ。
「直人、お前もいつまでも遊んでないで働け。それともその〈出来損ないの鬼〉を本気で喰うつもりか?」
言われた言葉に再び苦笑し、直人は軽々と智也の言う〈出来損ないの鬼〉の腕から体を逃がした。
噛り付かれていた筈の首元に、傷は何一つ残っていない。
直人としては喰らわれるつもりも喰らうつもりも無いのだから当たり前の事なのだが、何時もながらに相手に理解を得るのは難しいらしい。
状況に追いつけず、人であったころならば、それこそ目を白黒させているであろう〈出来損ないの鬼〉を目の前に、深呼吸の様なため息をついた後、直人は両手で握り締め直し、振り上げた剣を、力いっぱい振り下ろした。
モウ カエッテ コナイ
ナクナッタ
ナクナッテシマッタ
ミンナ コワレテ シマエ
ミンナ キエテ シマエ
ミンナ コワレテ キエテ シマエ
ミンナ ミンナ コワレテ キエテ シマエ
コワレロ!!
キエロ!!
スベテ ナクナッテシマエ!!!
コノ オモイ トドカヌナラバ
セメテ
セメテ!
スベテハ < >サマ ノ ノゾミノ ママニ!
致命傷を避けるためとはいえ、差し出されたかのようにさえ感じる削ぎ落とす契約と命と糧である髪の毛が何処かで見たような色を発し儚く燃えて消えていく。抵抗ではなく攻撃の意思を持った直人と智也の刃は、もうその再生を許さない。
角をへし折られ徐々に深い傷を与えられ呻く姿は痛々しい。存在を残すため抵抗を続ける本体の中身も確実に壊し続ける手ごたえは、何度やっても慣れることはない。多分完全に人から剥離でもしなければこんな事に慣れることなんてできないだろう。
多少の反撃はあったが、そんなもの神使の下部である直人と智也にとっては大したものではなかった。完全な〈鬼〉になっていたのならまだしも、まだ〈鬼〉としては不完全な〈災厄〉に近い〈出来損ないの鬼〉の形状の女性など取るに足らない。
だから、その瞬間まで、それに気がつけず、二人の対応が遅れてしまった感は否めない。
けれど、それが今回、最初から感じていた違和感だったのかと言われれば、それは否だと、直人はなぜか断言できるような気がする。
かつて人であったものから〈鬼〉を引き剥がす。〈鬼〉に与えた契約と命の糧を魂から引き剥がす。断罪の先、剥き出しにされた魂を容赦なく破壊する。
それこそ本物の断末魔の叫びの中。
数瞬遅れたものの、その異常に気が付き、なんとか抑えようと直人も智也も策を取ろうとするが間に合わない。おそらくは現実の視覚も同様に侵されているのだろう。見る見る間に、露出の判断を見誤りアンダー過ぎて黒く潰れた感情がオーバーしすぎて白く飛んだ世界に溢れかえる。
「やられたっ!」
インカムからの七瀬の舌打ちが耳をつく中、激しい感情の衝撃に透明なカーテンのように空間を区切っていた力の割れる繊細な音が空気を振るわせた。
*****
真っ赤に燃え盛る炎と当たり一帯にたちこめる煙に、周辺のビルの窓から覗き見る野次馬が増える。
「…榊調査官、根回しお願いします…」
通信から何かを察し、即座に対応の為こちらに向かったのであろう。十分もたたぬうちに、同じホームに立ち、携帯を片手に直属の上司と関係各所に連絡しだした、事後処理兼迎えの杏子の声に我に返った直人は手に握り締めていた大剣を元の古い二眼レフカメラに戻した。
隣を見れは智也も手にしていた大鎌を消した。
いつも思うことなのだが、彼の契約媒体は何なのだろうか。直人は一度もそれと思われるものを目にした事が無い。
「これは、ニュースになるな」
他人事の様に智也が呟くのが聞こえた。
「僕、桜子ちゃんに誤魔化すの、諦めました」
「前向きで正しい判断だ」
避難誘導が始まり乗客が、人が、駅の構内から街に溢れ出る。ロータリーに集まり来る警察、消防、救急、その他関係車両の中、杏子が用意した車を見つけた二人は、混乱する現場状況に紛れその後部座席に乗り込んだ。
運転席に人の姿がない事から、運転手を手配する時間さえ惜しみ、杏子自身が運転してこの場に現れたのだろうと思われた。そういえば七瀬も忙しいと口にしていたような気がする。
幸い七瀬の端境のおかげで時間差を作れたので、施設には深い爪痕を残すことになったが人的被害者は皆無であろう。
そんな事を思いながら新幹線の時間を気にしつつ座った直人は瞬間、あ、これヤバイな。という感覚に襲われた。
声さえ発する間もなく、抜け落ちた緊張感の中から、それは現れた。多分これはホームで智也に放り投げられた時のものだ。
経験のある感覚が厳しい現実を伝えてくる。もう直人は、自力でこの座席から立ち上がれる自信はない。
息苦しさを伴う痛みに堪えながら直人は、関係機関との交渉で遅れて運転席に滑り込んできた杏子に途切れ途切れになりつつも声を掛けた。
「ごめん……なさい。杏子さん、あの、ちょっと、その……電車、間に合わなそうなんで、送ってくれません?……ついでに、多分、肋骨も……いっちゃったみたいなんで病院も寄って……」
「えっ?!」
バックミラー越しに視線が合った杏子が珍しく短い悲鳴を上げるのと、直人の痛覚の限界はほぼ同時だった。