05-1
「いいお袋さんじゃん。桜子ちゃんと同じタイプだよな」
病室の見舞い客用のパイプ椅子の背を跨ぎ、抱きかかえるように行儀悪く座る智也が、ベッドの横のサイドテーブルに残された、兎の形に切られた林檎を小気味よくシャリシャリと齧りながら、ベッドの背もたれを起こし座る直人を気だるそうに見つめそう言った。
「そうかな?」
「そうだろ?」
否定を強調する直人の返答は、智也の左手に持たれた、パチパチと小気味良く炭酸の気泡が弾ける音を立てる缶ジュースの中身と共に即座に飲み干される。そのままの動作で、空になった缶をサイドテーブルに置いた智也は、器用に背後の冷蔵庫を開け、中から新たに今日の昼食に付いていたというヨーグルトを発掘し、透明なスプーンをその白い柔肌に滑らせた。
そんな智也を横目に直人が、着替えと一緒に届けられたフィルムを箱ごと、そっと頬に当てれば、微熱で火照った肌に冷たく心地良い感覚がじんわりと広がる。まだ冷蔵庫から出されて十五分弱と言ったところだろうか。
先ほどまでここに訪れていた直人の母親は、バイト先の友人と紹介した智也に営業用の笑顔で挨拶をし、『親に言えない様なことが増える年頃だとは思うけどさ……困ったことがあったら、相談しなさい。辛いことがあったら、泣き言を吐きにいらっしゃい。最初はお説教になるかもしれないけど、でも、どんなことでも受け止めてあげるから。お前の母親を甘く見るんじゃないわよ』という、わかっている様な、いない様な微妙な台詞を残し、着替えと差し入れを置いて、まだ残業が残っているという会社へと戻っていった。こんなに激務の癖に出張がちな父親と二人きりでのデートの時間は、きちんと確保しているらしいからリア充爆ぜろ的な人だと自分の親ながらに思う。
「あ、智也、これ、その冷蔵庫に入れといて」
「あ?なんでフィルムなんてもん、冷蔵庫に入れるんだ?」
愛用の二眼レフカメラから抜き出した巻き取ったフィルムを、カメラバックから取り出したケースと箱に入れた後、さらに同じく常に持ち歩いている小さめの密封式の袋に入れ、ベッドの上の住人である直人と、病室に据え付けられた冷蔵庫の中間地点に座る智也に差し出した直人に、怪訝そうな表情で智也が尋ねる。
「ああ、フィルムって気温変化や湿度に弱いんだ。特に撮影後のフィルムは劣化しやすいから。今は入院中で、すぐに現像に出せないからね。とりあえずの応急処置。退院したらその足で写真屋さんに現像に出しに行く」
「へぇー」
「結構フィルム代とか現像代とかってバカにならなくって。僕はバイト代が出た時、まとめてフィルム購入してるから、うちの冷蔵庫の一番上の段、母さんの手の届かない所は半分は僕のフィルム保管場所になってるよ」
気の無い返事をしながらも、話を聞き漏らすことが無い智也は、手に持った、いつの間にか空のヨーグルトの容器をベッド脇のゴミ箱に投げ込むと、直人から受け取った袋を冷蔵庫の一番上の段にそっと置き、代わりに中で鎮座していたシュークリームを三つ取り出し扉を閉めた。
孝典さんが手配してくれた部屋が冷蔵庫付きの個室でよかった、とはおそらく直人も智也も共通の認識であろう。
「てっきり、禁厭や姫神の力が関わったフィルムは腐りやすいとか、冷やさないとヤバイもんが出てくるとか一癖あるのかと思った」
「そんなわけないでしょー?ないわー、それない。ごく普通のフィルムだよ」
そんなこと、これっぽっちも全く思っていなかったであろうに軽口を叩く智也から、投げられたシュークリームを一つ受け取り、歯と片手で小包装を開けながらスマホのアプリを起動する。
「直人、<K.K>使ってんの?」
手の中、覗きこまれた画面の、見慣れたアプリに不快感が薄っすら感じられる言葉が智也の口からもたらされ、直人は苦笑した。
「ああ、<kagome-kagome>?今時、スマホに入れてない中高生なんていないでしょ?流石だよね、七瀬さん。出向先で開発してきたんだよね、確か?僕もリアルタイムの同年代の噂の動向を追うには便利だから活用させてもらってる」
<kagome-kagome>、通称<K.K>は、今、若者を中心に人気のあるスマホや携帯用無料通信コミュニティツールの一つだ。童謡の<かごめかごめ>の様に環状に繋がった不特定多数のオープンなネットワーク間情報伝達を得意とするところからこのネーミングがついたと言われている。直人も携帯さえ持っていなかった中学生の頃からその名前は友達との会話でよく聞き知っていたが、センターに所属してから、それが、センターの七瀬がメインで秘密裏に開発させたものだと知らされて大変驚いたものだ。実際のところ、確かに<災厄>や<鬼>に関わりを持ちやすい中高生世代の普及率の高さのお陰で、センターはこの情報網からも、事前に<災厄>が訪れそうな場所を予知し、直人たち下部を向かわせ対応している現状がある。
「<かごめ>ってさー、鬼を囲うんだぜ。今更ながらに七瀬のネーミングセンス怖えー」
「智也は囲まれっぱなしだねぇ」
「俺は半分人間だから問題ナッシング」
先ほどの軽口の応酬とばかりに直人も思ってもいない事を口にすれば、智也は平然と自虐ネタで返してきた。
「そうだよねー。特に何もしなくても神域にも入れるもんね。羨ましい」
尽かさず直人が送り出した智也の残りの半分に対する、あえて軽率で率直な感想に、常時無表情な智也も、今度はほんの少し口元に苦笑を見せる。
直人は勾玉姫の下部になってから、いわゆる神域と言われるエリアに好き勝手に出入りできなくなった。おそらくは姫神の下部となった他の人間も同じなのだろう。例えるならそれは、人が隣の家の庭に勝手に出入りすれば不法侵入だが、蟻が人間の土地の間を自由に移動するのは問題がないのと同じことなのだ。神様のルールに触れ、知ってしまったからには普通の人間の様にはもう暮らせない。
けれど、智也は同じ姫神の下部であっても、そのルールに縛られることは無い。おそらくその在り方自体が既に直人達と異なっているのだ。
「ねぇ、智也。今朝の可愛い子達から連絡はきた?」
口の中に広がる甘いバニラビーンズの風味を味わいながら、<K.K>の膨大なほぼ個人的情報の輪の中から、検索で範囲を狭め、捜し求めている情報を見つけた直人は、その内容を目で追いながら智也に確認する。
今回、大地奪還作戦の為、公言は出来ないが直人は智也の能力を参考にさせてもらった。
智也はその姿を烏や猫といった動物に変化させるといった動物系に関する禁厭に特化している。それは日常的に動物と意思の疎通ができ、動物を使役することも可能なものだ。今日も、直人をネットカフェに拉致している間に自分は小動物たちを使役し、情報収集をしていたであろうことは直人も気が付いていた。若干、使役と言うよりはナンパに近いと直人には感じられる所もあるが、意思疎通ではなく使役と言う点が、智也の力の特殊性を極めさせている。姫神の神使に、使役させられている姫神の下部が、使役を行えるのも、ただただ、智也の半身が未だに<鬼>に侵されていることに由来する。
そこまでは直人も今までの付き合いでほぼ把握していた。しかし、使役に対し必要な<贄>と思われる、<精>と呼ばれるものを、智也がどこからまかなっているかということまでは、今日の昼のネカフェでの無駄とも思えた自習時間の生み出した雑談が無ければ、昨夜の情報収集で得られた情報でも、わからなかった事だ。
「あぁ、直人の読みどおりだな。ここ三日間の、この地域だけの異常気象と落雷騒ぎの犯人は大地で間違いないだろう」
「やっぱりね」
読み進めるK.Kの内容と合致する智也の返答にやはり自分の予想が良くも悪くも的中していたことをしみじみと実感する。
大地は元々、天叢雲姫第二神使下部として、気候、風雷雨など自然環境を局地的に変化させる禁厭を扱うことが得意だった。特に得意なのは水を操ること。雷を任意の場所に落すこともできる。日常生活においても大地の側と言うのは、その存在感がもたらす穏やかさからか、体力的不安を常に抱える直人にとっては、とても過ごしやすかった。
入院を伴うほどの体調不順であったことに加え、季節的に梅雨前ということもあって、直人も気が付くのが遅れてしまった感は拭えないが、確かにここ数日間のこの街は、異常気象と言う名前で片付けられる天候が続く。
正確な日時は把握できていないが、大地は何らかの要因で、先日の帝都で直人と智也が取り逃がした遥という女性の成れの果て、鬼の欠片、残骸、いわゆる<鬼のカス>見たいなモノにそそのかれてしまった。直人も智也も共通の見解だ。
大方はカスの元の名前が大地の妹<遥香>と漢字が一字違いで、読みが同じ<ハルカ>だったというところと、契約媒体が非常に似通ったものだったのだろう、とは予想も容易い。
そんな誑かしを、どこのどんな<大鬼>だか〈組織〉だかが起こしたのか、なぜ大地はつけ込まれてしまったのか、と言う追求は、取り急ぐ今、気にする時間は無い。
そんなことよりも、大地が今現在、どこまで<鬼>の侵食を受けているのか、どこまで<災厄>に近付いてしまったのか。それを確実に見極める必要が直人にはあった。
今夜、これからの下見で何とかできるなんて希望的観測は持てないことは重々承知の上だ。いや、下見で終わらせたいと言うのも多大な楽観視に過ぎない。
相手は姫神の下部であった人間なのだ。本気で行かなければこちらが交渉の主導権を取ることさえ不可能だろう。
欲しい情報はある程度得られたスマホをベッドテーブルに置くと、ベットからゆっくり床に足を下ろした直人は、シュークリームに齧り付きながら直人のスマホを覗き込む智也を軽く小突くと、自らも三分の一のサイズになったシュークリームを咥え、ロッカーからYシャツと学生服を取り出し着替える。椅子に座り、ゆらゆらとその長い髪を揺らす都会的な出で立ちの智也と比較して、大いに見劣りしてしまう自分が少し切ない所だが、仕方がない。急な入院に、急な<災厄>騒ぎとで、今の直人には制服しか外に着て出られるものが無いのだ。
ふと、視線を上げた先、ロッカーの扉に付く小さな鏡の中、真面目そうな制服姿と一緒に写る淡褐色の瞳が、今だ見慣れることが出来ない異質なもの過ぎて直人はネクタイを締めるものそこそこに、その軽く冷たい金属の扉をきつく閉めた。
三分とかからずに着替え終わった直人は、六分の一程のサイズになったシュークリームを再び右手の親指と人差し指で持つと、空いている左手でベッドデーブルに置いたスマホをそのポケットに突っ込むみ、優しい手つきで同じベッドテーブルに鎮座する、大切な二眼レフフィルムカメラに手をかけた。
「今回、現像できたフィルムを取りに行く時は、大地を連れて行って、あいつのポケットマネーで現像代を払わせる」
「ふっ。やっぱり、直人は性格悪いよな。大地に同情するよ」
面会時間の終了と消灯時間真近の院内放送が響く中、唇の端に付いたカスタードクリームを舌で猫のように舐め取りながら笑う智也の表情はいつもの無表情さが嘘のように残忍だ。
いつの間にか二個食べ終わっていたシュークリームの変わりに肩に担つぐかのようにその手に握られているのは、病院という舞台の惨劇だったならお似合いの、西洋の死を司る神が持つような大鎌。
けれど、これは智也本人の意思とも、見た目とも違い、人の命を数多く救い上げてきた、蜘蛛の糸より尊い救済の大鎌だと直人は知っている。
「最低かもしれないけど、最高で唯一の選択肢だろ、これ?」
「それは否定できないな。しかも、友人思いの直人の大盤振る舞いで、俺の夜食は極上の御馳走、だろ?」
直人も最後の一口を押し込んだ際に指に残ったクリームをそっと舐め取ると、そろそろ常温に戻ったフィルムを一つケースから取り出し、二眼レフカメラに入れる。
「そっちかよ。やだなー。食い尽くさないでよね。手加減できなくなる。……じゃぁ、そろそろ鬼退治にいこうか?」
智也に掛けた、少し弾む自分の声が何時にも増して禍々しいと思えるのはこれから行う大地への非道極まりない行為への罪悪感なのかもしれないと、消える人間的感性の中、直人もまた、手元の古く美しいカメラをあるべき姿へと変化させる。
微熱の下がらない体をぶら下げた身には燻銀に輝く刃が美しい大剣は多少辛い重さであるはずだが、高揚する気持ちにそれはさして気になることではなかった。
男同士の色気もない夜の散歩の為、智也が開け放った病室の窓は、夕方からの激しい雷雨で窓の枠や周囲の床があっという間にべしょ濡れだ。
「ちげーよ、直人。<仲間>を<鬼>にしに行くんだろう?」
「うん。そうだね。<鬼>を<仲間>にするなんて、最高だね」
くだらない言葉遊びに見え隠れする互いの意志をいまだ探りあいながら、二人は病室の四階の窓からその身をしなやかに躍らせた。