00-1
叶わないとわかっている願いを持ったとき、どうすれば良かったのだろう。
叶えたいと願う事は罪なのか。
叶えられない事は罰なのか。
叶わないとわかっている願いを捨てられないことは禁断なのか。
白い汚れの落ちきらない黒板の前で学校の先生は言った。
『叶わない願いはない。願いは叶うまで努力しろ。自分で限界など作るな』
ぶっちゃけ子供にだってわかる綺麗事だと思った。
そもそも、こんな標準以下の自分に限界を打ち破れる力があるのかさえわからない。
でも、〈あの日〉。
もし、叶うなら、世界を、いや、この世の全てを、敵にしてもいい。
確かに、そう思えた。
*****
互いの肩が触れそうで触れない。各々のパーソナルエリアを守りつつ歩く人々は線引きにシビアだ。
帝都でも指折りの人の往来が多い駅ビル地下街。指示された場所を目指し直人は人ごみと表現するにふさわしい往来の中、移動をはじめる。
「さて…今日も今日とて鬼退治~」
パーソナルエリアを守る為、他者に鈍感になることを覚えた街での独り言なんて聞く人間もいないだろう。携帯電話用のインカムでの通信を切った後、ふと適当に口にしてしまった鼻歌のくだらない歌詞に直人は自然に苦笑がこぼれた。
人間慣れれば何とかなるものだなぁとしみじみ実感する。
目下差し迫っているはずの非現実的状況は、情けない過去の自分の再現を見るようなものなので、確かに多少なりとも気に障りはする。障りはするが、これから起きることは普通の人間では、どうこう出来る範疇を超えたものだし、何より直人自身が自称〈怒る事が苦手〉なのだから仕方がないという感情しか生み出さない。
達観はできないものの現状への悲観もない。
結局のところ写真撮影に例えるならば、今日も直人の寛容度はオーバー気味かアンダー気味であり適正値には程遠い。
そうなればむしろこれくらいのことなら楽しむしかないだろうと散々足掻いた後、腹をくくったのは数か月前。
人間、大事の前には諦めも大切だと学んだ。
「……?」
密封とは言わなくても、大地とコンクリートに囲まれ一応空調までされている空間内、ふと激しい感情の乱れを感じ、直人が見つめた先。
幾多の足音が反響する地下道の中、移動を続ける目には見えぬ波紋の中心点がそこに居た。
グレーのニットキャップに、貴重品分だけとは考えられない腰周りのじゃらじゃらした鎖。かっこいいのかだらしないのか判別がつきにくい服装で〈身を守り〉、ヘッドフォンからの音楽をダダ漏れに、今時を装い軽快にあるく若者に皆、顔を一瞬ゆがめるが、すぐさま無関心の仮面に付け替える。
人々のその感情の小さくも激しい揺らぎに、人知を越えた存在から押し付けられた感覚故に、直人も周り以上に吐き気にも似た不快感を感じるが、それをおくびにも見せずその中心とすれ違う。
無遠慮なギターだかドラムだかの轟音にも近い暴力的な聴覚からの不快感はもっともだと直人も思う。
しかし、それが無意識に包み隠すのは、もっともっと強く根深く質の悪い本能的な、その他大勢と異なるものへの排除感でしかない。
思わず奥歯を強く噛み締めてしまった事に気がつき、直人は唇の端を意識して上にあげ、自分の耳にささったままのインカムを人差し指で小刻みにトトンと叩いた。
直人もこの街の人々と同様に、怒る事や不快感を現す事がめっぽう苦手だ。
いや、直人の場合、正確には〈怒るという行為が面倒くさい〉と言った方が早いかもしれない。
鬱憤や濁り溜まった感情を表に噴出し、周りに不快感をばら撒いても、それはその場の雰囲気の悪化をもたらすだけで、なんら解決策をもたらさない。それどころか一度唇に乗せてしまった言葉は自分の中の感情を再認識させ、最悪は周辺の人々をも巻き込んで感情の更なる悪化を進めることになってしまう。
なんて持論を言えば、とても理知的な人間に思われるのだろうが、ぶっちゃけ、他の人間がどう考えているのかはともかく、直人にとって、怒るという行為は心底面倒くさいだけなのだ。
実際、内心、怒っているかどうかは別にして。
現実問題、個々としてなら、怒りを、鬱憤を、態度や口にすることでスッキリする人間が居ることを直人は知っているし、正しい場合だって数多くあるだろう。そういう行動を他人が取ることも否定はしない。
かとって、この街が抱えるような〈大多数の正義〉という呪縛に甘えるつもりも一切ない。
所詮、自分は自分、他人は他人なのだ。だから線引きは間違えない。
ただただ、直人はその行為を〈自称苦手〉とするだけなのだ。
他者に自分が持った怒りの感情をわざわざ動作や言葉で伝える。そんなこと、直人は面倒くさくてやっていられない。やるべき事を抱えた、限りあるこの人生の最中において時間の無駄でしかない。なにより、そんな無駄なことに、それでなくとも足りていないと感じてしまう体力を使うのは馬鹿げている。直人はそう判断し無感情を装っているまでだ。
だから直人は他人に対してめったに表だって怒らない。
そんな自分に、上っ面だけの判断で『怒ることってある?』『怒ったところを想像できない』なんて言う人間も多いが、いつも笑っているからと言って自分の腹の中が一晩で降り積もった新雪のような白さを湛えていないことは、誰よりも直人自身が一番よく知っている。
直人だけではないだろう。
この街の無関心を装う人々だって表向き怒らないだけで、不快感や諦め感といった負の感情は確実に煤汚れの様にその内に降り積もり溜まっていることだろう。
〈大多数の正義〉という心地よい逃げ場と攻撃方法まで与えられているのだから罪の意識さえないのかもしれないが。
そして、赤の他人から見れば直人だってその逃げ場に身を寄せる一人に見えていることだろう。「何が違うのか?」という冷笑付きで。
両親、親戚、クラスメイトに学校の先生、果ては御近所やら町内会の皆様まで幅広い層に好印象を持たれている直人だったが、たとえ罪の意識を抱えていよう、そうでなかろうと、所詮はこの街の大多数と同様に腹の中は煤だらけの真っ暗闇だ。
いや、抱えた罪の重さから考え、自惚れるならこの街の誰よりも酷い有り様なのかもしれない。だから直人は自分自身でさえ、その汚さに穢れるのを恐れ、触れることなどしないし、見たことも無い奥底なんて知りたくもないし知ろうとも思わない。直人は〈二度と大人にはなれない〉という甘えから、それから目を逸らし綺麗事をほざいているだけの自分をはっきりと認識しているし、酷く嫌悪している。
昔……いや、ほんの一~二年前の、中学生の一時期は逃げ場の持つ残虐性にさえ気がつきながらも目を剃らし甘え、〈怒らない〉自分を、他者と異なる選ばれた人格として特別視し、他者を見下し、我が儘以外なにものでもない行動をとって居たこともあった。
けれど〈二度と成長出来ぬモノ〉になり、ついでに現状を生み出してしまった複雑怪奇な状況を客観的に見つめさせられ、真に特別と言われる存在に焦がれてしまった今現在、あんな独り善がりな妄想を夢みていた中二病の自分が恥ずかしくてたまらない。
心の奥底から恥ずかしいし、情けない。
ぶっちゃけ、これが高二病なのかと実感してしまう。
ただし、あの事件の後、直人の〈怒って見せる事が苦手〉だという基本的な考えは、己の自己嫌悪から変わるどころが更に強くなっている。
それは〈大多数の正義〉という逃げ場と攻撃性を直視した上で、それでも確実に、だ。
けれど根本的に直人だって怒らないわけではない。
だから、直人は良い面からそうでない面まで知られてしまったバイト先の皆からよく、因幡の白兎に似てると揶揄される。
因幡の白兎の様に、見た目は大人しくて真っ白な人格でも隠れていた腹の中に抱えた真っ黒さはどうやら無意識に染み出てしまっているらしい。
冷笑や罵倒を受けようとこれは少なくとも〈少数の信念〉であるし、そのまま溜め込んだものを全て吹き出した場合の惨状を思い描けば染み出す位は許して欲しいと思う。
バイト仲間も言い当てたものだ。
和爾の上を己の目的の為、無知な顔で無邪気に跳ね回る。
伝説の白兎はまさに今の直人そのままだ。
ちなみに、こんな道徳の授業的には碌でなしに部類されるであろう自分をやはり愛してやれるもの自分だけだとも認識済みだ。人間、大願成就の為には諦めが大切だと噛みしめながら、人知を越えた存在から気まぐれから押し付けられた感覚と、与えられた貴重な日々を直人は実直に過ごさせていただいている。
で、だ。話は戻る。
飛行機が飛び、高速鉄道網は発達。国内の些細な情報も数秒で世界中に広がるほどに文明が発達した現代社会には大変似つかわしくないけれど、確実に背中合わせで存在している、鬼とか災厄とか呼ばれる不可視なもの。
それは、こんな直人の前述である、更に情けない以前の姿にとても似ているものを惑わし、拐かす。
そして、そんな残念としか言い様のないものとこれから直人は戦うのだ。
『これは普通の人間のどうこう出来る範疇を超えたものだから仕方がない』と心の中、毎回言い訳するのは自分の羞恥心と上っ面の白い道徳心の為だけなのは折り込み済みだ。
大事の前の小事だったとはいえ、契約した以上、諦めて戦う以外、何が求められるというのだろう。
全ての原因が直人にあると言えばそれは傲慢であろう。
けれど、全ての原因が直人にないといえは、それもまた偽りになるだろう。
思春期特有の自分が特別だと思い込む感情、いわゆる中二病を拗らせてしまった直人はその歪さゆえに、真の特別を知り、〈姫神様〉に出会い、永遠に子供のまま夢想に溺れる枷を抱えた。
これから直人が戦うものはそんな直人達の予備軍と言っていいだろう。
ただし、歪から黒く染まるのか白く染まるのか、選択するのはこれからの本人次第だ。
事情はどうであれ。
そして……残念ながら、一色にしか染まらなければ、それはそれで終わりなのだ。
結局のところ、愛しい人の口癖ならば、
『この世の中、みんな等身大の不幸に手一杯で……そして道を違えてしまう』
のだ。
目的地まであと少し。
周辺の感情の気配の変化とともに、不快感を一掃する新鮮で開放的な空気が直人の喉に流れ込んでくる。
あまり親しい付き合いはしたくない知人ほどではないが中々に整っているであろう顔つきの直人より幾つか年上であろう騒音青年は、間に沢山の人々を挟みながら直人とすれ違う瞬間、ここではないどこかに向けていた視線を、彼を見つめ続けていた直人のものに一瞬絡ませた。
直人の意図に気がついたのかわからない。けれど気持ちだけ両肩と唇の端を上げ、彼はそのままそこから周囲を乱す姿をかき消した。
誰も注意なんてしないし、知らないフリをする。
この街のルールが間違っているのか、それとも直人達が誤っているのか。
今の直人にはまだわからない。
授業が終わってから電車と新幹線を乗り継ぎこの街にくるのも、もう手馴れたもので、今では現地集合も迷わずできる。
梅雨前のこの時期、冬服の学生服で移動するのはかなり汗ばむが、急な呼び出しに着替える時間さえ惜しかった直人は帝都北部の地方都市の高校の制服のままだ。
おそらく周囲の人々はそうと判別出来ないであろう、首から提げた古い型のカメラを大切に両手で支え、直人は目的のホームへ続く階段を軽快なリズムで駆け上がった。
*****
家路を急ぐ人々で溢れるかえる帝都の交通網中心部に位置する駅のホームから見上げた空は赤黒く、気味悪さを感じさせた。そのホームの端に一人立つ直人は、存在を切り取られたかのように他の人間からは干渉を受けていない。
バイト先の上司である榊さんが何かしらの禁厭を手配したのか、それとも自分という存在自体が他者からのピントから外れているだけなのか。
色々な可能性に無意識に全身に力を入れてしまっていたのか、首から提げていたフィルム式の二眼レフカメラを握り締める両手がいつの間にか汗で濡れていたことに直人は気が付いてしまった。
前言撤回だ。
慣れても諦めてもどうにもならないことはある。確かにある。
感情論は理性でどうこう出来ても、その時が近づけば近づくほどそれは感じてしまう。先ほど無意識にくだらない鼻歌を歌って誤魔化してしまおうとしてしまったくらいには。
人という存在から剥離する感覚。
それは、自分の命を削る恐怖とそれを上回る高揚感に近いのか。他人の生を土足で踏みにじり、ぶつ切りにする傲慢への恐怖は同時に薄れていく。
相反するそれが共存するのは、灰色斑になった歪な直人が壊れかけている証かもしれないし、特別な存在に焦がれる証かもしれない。
しかも、だ。
珍しい位に今回はおかしい。
事前にバイト先から与えられた情報通りの上、隠す気があるのか無いのか判断のしように迷う漂う禁厭的なこの場の気配に直人は違和感さえもった。
嵐の前の静けさか、はたまた、これ自体が災厄の始まりか。
なにはともあれ、このまま変に緊張していればいざという時、体が動かない。
このバイトは不本意ながら数日間しか顔を出せなかったファーストフード店のキッチン並みに反射神経と対応力を非常に求められる肉体労働だ。
とりあえず先ほど新幹線の中でフイルムを入れ替えたばかりのカメラの黒いピントフードをかすかに震える指で起こし覗き込めば、肉眼で見るよりも鮮やかで華奢に見える見慣れた世界に直人は少しだけ心が落ち着いた気がした。
直人が常に持ち歩くこの二眼レフは、父方の祖父が昔、趣味で集めたという、とても古いカメラだ。一見、縦長四角の黒いアンティークな箱に見えるそれは、前面に二つのレンズが縦に並んでいる。すべての調整が手動で、画像保存はメモリーカードではなく、今では取扱店が少なくなってしまったフィルムを使うため、撮った直後に画像の確認は出来ない。
上から覗き込むその世界は左右逆転していて、ありふれたこの世界の日常に、手の届くはずのない異世界に迷い込んだ錯覚を与えてくれる。出来上がった写真はその瞬間の自分の気持ちまで写りこんで居るのではないかと感じるほどに鮮やかに時間を切り取り、空気の色さえ見えそうなほど繊細で緻密だ。初めて触れたときから直人はその感覚に魅了された。
何よりだ。
この二眼レフは何よりも大切な記憶の欠片であり、この二眼レフが無ければ直人はこの世界において、八尺瓊姫第三神使第八下部、業界用語で<勾玉姫の下部>と呼ばれる、普通の人から剥離した存在ではいられない。
これは直人と姫神との大切な契約の媒体の一部だ。
この古い二眼レフカメラがあるからこそ直人はこの世界で絶望せず、少しだけ特別な存在で居られる。
カメラのレンズ越しに見つめていた足元、赤く染められたホームのコンクリートが変化する幾何学的な模様を浮かべる。あわせて発生し始めた耳障りな羽音のうるささに直人が視線を向ければ上空を烏の集団が飛び交っていた。
その中に今の夕闇に似た不吉なほど赤黒く輝く美しい一羽。その姿を確認すると直人は至極当たり前のように肘を曲げ、水平になるように腕を差し出す。
すると、その直人の行動を見計らったかのように急降下してきた赤黒い烏は、直人の頭上でゆっくりと大きな羽を数回羽ばたかせ速度を落したあと、こちらも、さも当たり前のように直人の細い腕に三本の足を伸ばし羽を休めた。
腕に飛び降りてきた烏が血の様に赤い瞳を細め、嘴を、人間の唇の様に動く事はないはずなのだが、ニヤリと歪め意地悪げに笑う。
この夕焼けと同じくらい気味悪いこの烏の性格の悪さを、直人はここ数ヶ月の同行で実感していた。
こいつが動物達からの無類なき愛情を、一心にうけているとは直人には到底信じられない。しかし、信じられないが事実は事実として認めなければならないことは世の中多い。彼が持つ、数々の<災厄>や<禍>を鎮めた実績もそうだ。
「何か見つけた?」
目上と知ってはいるが、腕に乗ったままの烏への口調は、つい同い年の人間に話すものになってしまうのは、おそらく初対面の印象が互いに悪すぎたせいなのだと思いたい。直人はそんなに礼儀知らずのキャラクターではないのだ。
「何も」
黒光りする嘴がカチカチ動くのに合わせ、人間の声が聞こえるというのはなんとも滑稽な光景だ。だが、自分から話しかけているのだから、ぶっきらぼうに答える烏に直人は驚いたりしない。それよりも重要なのは烏の返答内容だ。
今日、直人は親友とのじゃんけんで負けて、この任を与えられた。直人が八咫姫様こと<鏡姫>の、人知では計り知れない酔狂から授かった力の片鱗、右手でのじゃんけんで負けたのだ。何も起きないはずは無い。たとえセンターからの情報にいつも通り漏れや間違いがあったとしても、これから何かが起きる事は確定事項なのだ。しかも先ほどから明らかにセンターのものではない禁厭の気配が微かに静かに広がっている。烏はその存在故に感知していないのかその話題には触れなかった。
何かを見落としたのか?それとも無意識に何かを恐れているのか?そう自答しながら周辺の気配を探る。
気になる異性の話題で盛り上がる大学生。営業先と取引の電話を続ける男性。制服姿で模試の答え合わせをする中学生。夕飯のメニューを話す親子連れ。よくありがちなホームの情景に、よくありがちな感情の凪が広がる。
ポツン……。
その瞬間、目には見えぬ穏やかな水面に静かな雫が波紋を生んだ。
「?!…おや?珍しい。センターの情報通りのご登場とか、マジ珍しいこった。オラ、<災厄>のほうから俺達を追って来た」
同様に周辺の気配を探っていたであろう烏が地下に続く長い階段の先を面白そうに見つめ笑い、直人の腕からホームへと飛び降りた。
「目印の赤黒いのろしが思いのほか目立ったのかな?やればできるじゃないか」
先ほどからの禁厭の気配に気をとられていたせいか、気づくのが遅れてしまった突然の気配に驚きつつも、上から目線で直人が褒めれば、いや、実際に上から見下ろす形になって褒めているのだが、烏がとても嫌そうな表情をみせる。
「<達>って言ってんだろうが。のろしの俺なんかより、撒かれた疑似餌が美味そうなんだろうよ」
皮肉を口にする彼は、直人の目の前でみるみる間にその姿を変えていく。このままこの駅構内を駈けずり回るには、あの身体は不便だと判断したのだろう。赤黒い羽から腕が見え、三本だった足が二本の筋肉が付いた形状のものに変わっていく。その様は、何度見てもファンタジーにありがちな美しい変身シーンへの夢や憧れが、これでもかと言うほど削り取られた、よく出来たモザイク無しのグロCGにしかみえない。
最初の頃は直人にも胃にクルものがあったが、最近は直視しても平気なくらいには免疫が付いた。
「疑似餌ねぇー。それって、食欲をそそる香りを辺りにまき散らす肉汁が滴るステーキ的な感じ?それとも、電車内のハンバーガーテロ的な感じかな?そーいえば、腹が減ってる時のあれ、キッツいよね?!何にせよ、それはお褒めの言葉としてとっておくよ」
「チッ……どこのガキだよ。肉々しくて油くせぇのしかねぇーでやんの。しかも今の話で思いっきり、帰りの電車でハンバーガーテロをやりたくなっちまったじゃねぇかよ。しっかし、作戦とはいえ、お前、普通は旨そうとか言われたら嫌がるもんだろ?自分で言うなよ。あと、どっちかと言えば鬼ホイホイだと俺は思う」
強制的に見せられたグロ変化と自分に対する餌という表現に反射的に返した直人の言葉だけしか伴わない意趣返しに、少し間をあけ、恐らくは確実に選ばれたであろう言葉が返される。なんとなく悔しい気もするが、これが〈ガキの直人〉に対する年上の彼なりの大人の優しさなのだろう。
彼自身の方が何倍も直人より、物理的に心の底に悪質なものを抱えているであろうという点を除いても、だ。
「えー!ゴキブリじゃないんだからさーホイホイはないでしょー。いやーないよなー。……でも、そんなだから、桜子ちゃんから強引に引き離された電車内のポテトみたいな僕が呼ばれたんでしょ?」
直人が、作戦指示書をなぞるようにわざとらしく優等生のフリをすれば、目の前に現れた少女漫画にでも出てきそうなほどラフな大学生スタイルの美丈夫で頭脳は理系、肉体は体育会系という肉食系女子垂涎ものの男子は、そりゃそうだ、ゴキブリに失礼だった。と時折、赤黒く見える目を細め静かに笑った。
とは言え、いつもながら獣姿の時の方が表情が豊かだと感じる位には無表情に近い薄い氷のような笑みだ。
「…さーて、鬼退治の時間だ」
烏から人に戻った、同じ<勾玉姫の下部>でありながら直人より断然格上の八尺瓊姫第二神使下部の智也が見つめる先。階段から上がってくるのはごく普通のOLファッションに身を包んだ女性だった。
その死者さえ想像させる青ざめた顔色を除いては。
ラッシュ時だというのに彼女以外はこの階段を上ってこない。
いや、彼女以外この階段は登れないのだろう。
直人達が原因か、彼女が原因か。先ほどまでの禁厭の気配が嘘のようにスッパリと消え、普段ならあり得ない位にセンターの作戦予定通り、この空間は既に激しい歪みを生じている。
「今日は変に遊ばないで、早めに頼むよ。遅くとも八時の新幹線に乗りたいんだ」
今夜、直人の両親は日付が変わる前に帰ってくると言っていたし、明日は土曜日で学校は休みだが、部活があるのだ。
帰りの時間は必守したいところだった。
「そりゃー随分タイトなスケジュールだねぇ。しっかし、今日はなんの因果かバックアップメンバーが足んねぇーんだから、間に合わなかったら……てか、確実に間に合わねぇだろうから大人しく杏子さんに送ってもらえよ」
くるりと赤黒い瞳を歪め智也は直人の予定が叶わぬことを伝えてくる。
センターから依頼される災厄鎮めのアルバイトの現場配置のメンバーは三~四人が基本だ。しかし基本はあくまでも基本であって、そうでないときもある。……いや、直人と智也が組む場合はそうでないときの方が多い。メンバーが足りないなんて大人達の体のいい言い訳でしかないのをわかっているから智也の仮面の笑顔も嘘臭い。
「嫌だよ。そんなことしたら桜子ちゃんにここのところ連続で帝都に出たことがバレちゃう」
「大丈夫だよ。そんなん多分、毎回バレてるから」
今更隠しても無駄さ。
智也のいつものいい加減、かつ、目をそらしたいのは山々だがおそらくは事実であろう薄い笑いを含んだフォローの言葉と同時に、直人はホームに続く階段の最後の段に足を掛け頭を上げたOLと目線が合った。
*****
死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシにたいシニタイシニタイシニタイシニタイシニタイシニタイシニタイシニタイシニタイシニタイシニタイシニタイシニタイシニタイシニタイシニタイイシニタイシニタイシニタイシニタイシニタイシニタイシニタイシニタイシニタイシニタイシニタイシニタイシニタイシニタイシニタイシニタイシニタイシニタイシニタイシニタイシニタイシニタイシニタイシニタイ
マズイ。
そう思った時にはもう遅かった。頭の中に濁流のように一気に流れ込んでくる禁厭にも似た負の感情の濁流に直人は眩暈を覚え、そのまま足元を掬われる感覚を覚えた。
シニタイ
シニタイ?
シニタイ??
いや、……シネナイ!
シネナイ、シネナイ!!
そう、だ。
死にたい。そう思ったのは戻れない咲き乱れるほど美しい夕焼けの中。
そして、だ。
死ねない。そう思ったのも戻れない散り際を匂わす切ない夕焼けの中。
ふとここが何処だったのか忘れかけて見上げた空には赤黒い雲が居座っている。
チガウ!!
心の傷痕を抉るように爪を立て、なんとか自分という意識を確立した。
完全な他者との感情のパーソナルスペースの混濁だ。
与えられた敏感な感覚故に、丁寧に引かれていた境界線なんて強制的に消され直人は引き摺りこまれてしまう。
人間、悪意のあるなしに関わらず、簡単にこんなに濁ってしまうから〈あの事件〉以来、直人は尚更に怒る事を表に出すことが苦手になってしまったのだ。
一度でも声に出した言葉は自分の中の感情を脳に再認識させる。そして時折、ごく普通の現代の人間であっても、たった一言であろうと深い本心であれば言霊が籠る。純粋で単純な感情の言霊ほど〈鬼〉や〈厄〉を引き寄せ、簡単にそれは〈災厄〉となり、本人は自業自得として、関係のない人々にまで害をなす。
それでなくても今、八咫姫様が代替わりの時期を迎え、この時代は〈三柱姫〉の力のバランスが悪いのだ。人間の色々な思惑も入り乱れ、人為的な〈災厄〉も発生しやすい。
先ほどまでの禁厭の残り香を追うため直人は運悪く押し付けられた感覚を研ぎ澄ましていた。
そんな状態で負の感情の濁流に一度巻き込まれれば、そこから簡単に直人がその源流となる人物から他人には戻るすべはない。
よく言えば強制的な同調とも取れる、付随物として与えられた感覚が、面倒くさいな。なんて思うのも直人にとってはいつものことだった。昔の自分を鏡映しで見ているような、腐った感情の形も直人を苛立たせる原因かもしれない。
けれどパーソナルスペースの線引きを越えて足元を掬われてしまった以上は、とりあえず腹を括らなければと直人は覚悟を決めた。いろいろな可能性を考慮しつつ、もう何年も掃除をされていない学校のプールのように淀み汚れきった、先ほどのOL姿の女性の底の見えない負の感情に〈選び取る〉右腕を意識し突っ込み、掻き混ぜるかのようにして探る。
見つけ出して、目覚めさせなければいけないのだ。甘露のごとき甘く居心地の良い、汚物の様な夢から、辛辣に研ぎ澄まされた厳しい現実に。
視界の端、珍しく焦る表情を見せる直哉の頬の汗が一粒、ホームのコンクリートに向け徐々に落ちていくのが見える。ゆっくりとした時の流れの中、直人から見て目の前のOLは顔色は悪くとも、今はまだ、少し年季の入ったお姉さんといった感じのする二十代~三十代ぐらいの綺麗な普通の女性に見えた。
昨今、中二病と名づけられたその期間の心理現象は、昔からあった。
現代では十代前半から始まるそれは本来、人間として心と精神の成長を促すと同時に、この国においては八百万の神々の恩恵をも授かれるチャンスだった。
姫神様という存在や彼女達との理不尽な犠牲を求められる契約などしなくても、人間は今の直人や智也の様な特殊な特権を得ることが出来たのだ。
能力発現可能期間の短さと特殊性からから、めったに恩恵は授かれるものではなかったが、それらは神隠しや神憑りといった口伝承で伝えられる現象に直結し、間接的であったり直接的であったり、影であったり日向であったりと、その時代ごとに異なるものの、人の世に大きな影響を与えた。
しかし、同時に、この神々の恩恵を授かれる条件は不安定さも持ち合わせていた。些細なことで選ばれた人間が〈鬼〉や〈厄〉、〈疫〉に付け込まれ、人々に害を為す人外の〈災厄〉に身を窶す事も多かったのだ。本能的にその恩恵を悟ってはいても人間と言うものは、天災や災害、事故、争いの元が元々人のものだった心の闇から生まれていることは受け入れがたかったのであろう。その拒絶の感情は、恩恵を授かった貴重な人間でさえ排除しようとした。
だからこの事実は、人間が生み出してしまった神、〈三柱姫〉の話と同様に、この世界の、この国の表側から故意に消され、一部の権力者によって守られている。現代と言われる今の時代までずっと一般人は何も知らない。
だから、たとえ、自分がその選ばれた対象になったとしても、また運悪く〈災厄〉になってしまっても、誰かが助けに来なければ、自分がどんな状況に陥っているのかさえも気が付けない。
最近の若者は、現代の文化状況からか思春期特有の感情や思想からの卒業が昔の人間に比べかなり遅かったり、卒業自体が存在しないらしい。その為、行動範囲、人間関係の広がった大人が能力発現してしまう事例も増えてしまった。大人になればなるほど良くないものに付け込まれる要素は増え、己の心を偽る力に長け、気が付いたときには大きな<災厄>へとその身を窶す。
目の前の女性も直人から見れば立派な大人なのに、思春期を未だ卒業できていなかったのだろう。子供の様な感情の溝水の中から、大人の女性を思わせる甘い薔薇の香水の香りが、香ってくることに、直人は吐き気を覚えた。
アエテ ウレシイ ッテ イッタノニ
タイセツ ダッテ イッタノニ
キミ ダケダ ッテ イッタノニ
イッタノニ イッタノニ! イッタノニ!! イッタノニ!!!
元は小学生の初恋にも負けぬ、さぞ美しい澄んだ恋の色、薔薇色に染まっていただろう感情は、もう昔の美しさを留めぬほど醜悪な変異を遂げ歪んでいる。
嫌悪感しか湧かない感触の中、直人は右手を意識し探り続けるしかない。
この荒んだ感情を生み出したきっかけ。上っ面の白さを一瞬で汚泥のように黒く染めきった最初の一言を。
キ エテ
キエテ ナ リタイ
――――― キエテ ナクナリタイ
周りと比較して、この手の判断を直人は自分の得意分野だと思ってるし、周囲の時間経過状況から今回も早く見つけたと思った。
汚れた感情の中、隠されていたそれは、初恋の後にもたらされた涙の雫のようにとても儚く美しく寂しい。
急激に捻れた視界の中、時の流れの感覚が元に戻った直人は、即座に謎の禁厭の気配や疑似餌、いや、智也曰く鬼ホイホイとしての自分の効能ではなく、直人と智也という〈大多数の正義〉という観念から外れた歪で斑な存在が揃ったことで生み出されてしまった空間の澱みに女性が引き付けられたのだろうと判断する。
最後の最後に残った人間らしい感情が白く染まりつつある中、人として終わりを迎えるため、視線を反らすことなく確実に自分に終焉を与えてくれる存在を求めていたのだろう、と。
「諦めちゃ、駄目だっ!!!」
階段入り口から走り出し、ホームにそのまま飛び込もうとする彼女を直人はギリギリの所で後ろから抱きしめ、その行動を止めた。
とっさに肩に斜め掛けにしたカメラのストラップが激しく首筋に食い込んだが、ホームにまもなく電車が到着するのを伝える微振動が、足の裏から伝わり恐怖が飛び散った。
なんとか間に合った…と理解し、背中を流れる冷や汗もそのままに、本来の女性のものであろう心を、とりあえずの人格修復の為そっと右手で救い上げようと意識を集中させた瞬間、なぜか指の隙間から零れ落ちるような感覚を感じ、直人は何が起きたのか一瞬理解出来ず体が固まった。
涙の雫のように儚く煌めいていた筈の、本来不可視な〈それ〉は、直人の右手の指先から零れ落ちた。
掴み取れなかったそれが、そのままホームのコンクリートにぶつかり砕ける様は、先ほどの智也の汗が落ちるのを見た速度に近い。
幾重に何処までも広がり繋がるディスプレイや複数のカメラのレンズ越しに、彼女を奉り立てた沢山の男達の純粋な感情が、見えぬ手によって些細でけれど酷く残酷な激しい攻撃性を持ち、薄く透明な壁を突き破り突如襲い掛かってきて、〈それ〉は青い小さな輝石が入ったネックレスに姿を変え、偽りの輝きを乱反射させながら周囲に散り広がり目を眩ませる。
ヤメテ カエシテ
ヤメテ!
ユルサナイ
ユルサナイ! ウバワナイデ!
ナンデ?!
ドウシテ?!
オトコ ナンテ
オトコ ナンテ!
――――― オトコ ナンテ ミンナ キエチャエバイイノニイイイイイ!!!
こんな顔も人間は出来るんだ、と背筋が凍るほどの、口元だけのどす黒い笑顔を浮かべ振り返った女だったソレは、背中を抱きしめた直人の手を軽々と解いた。もともとは女性だったとは思えないその力の強さと、その目元には一切感じられない壮絶な笑顔に、直人は一拍反応が遅れてしまう。
腕を引かれ、体の向きが、位置が、入れ替わる。
はっきりと向き合ったその先、目元に青い輝石を涙の様に輝かせ般若の面の様相をした女だったものが、全身全力で直人をホームへと突き落とした。
直人は実感した。
これがここ数週間、帝都の人々の通勤の足や流通経路に酷く影響を与えていた〈災厄〉の本当の姿だ、と。
もう、すぐそこまで迫った電車のライトが直人の視野を白く奪う。
こんな他者に興味を持たない街でも、頑なに己のパーソナルスペースを必守しようとする街でも、みんな、優しさや正義感でくっきりと引かれていたラインを消し去り彼女を助けたのだ。怯えつつ〈大多数の正義〉から抜け出し、駅のホームで飛び込もうとする彼女を助けようとして、そして、突き落とされた。
これがこの〈災厄〉の正体。
おそらく帝都高速道上で多発している、幽霊が呼び込むと噂される複数台が絡む玉突き事故も、彼女が何かしらの原因なのだろう。
今まで仮説のみで謎だったことが、全て理解できた喜びの中、息苦しさを感じる暇もない速度で直人は物理的に襟を強く引かれ、再びホームの方へと放り投げられる。
高速移動する視界の端、振り下ろされる濡羽色の刃の冷たい光が電車のライトで霞む目に滲んだ。
*****
停車時の空気音で気が付けば、警笛さえ鳴らすことなく電車が無事ホームに入ったのが確認でき直人は安堵する。
電車にトラブルは見受けられない。
おそらく、OL姿の女性がホームに現れてからここまでの全てが五秒以内の出来事だったと今までの経験から推測された。
なんとかカメラを庇い受身のようなものを取ったものの、冷たいホームの上、よろよろと起こした体はあちこち痛くてギシギシする。ごく普通の、いや残念ながら体力的には平均以下なのを認めないわけにはいかない、しがない高校生男子であるはずの直人の体重は、いくら軽めだとは言え、ごく普通の重さだ。こんなに容易に体を何度も振り回されるほど軽くはない。短い時間の中、確実に衝撃は肉体に残っていた。
ドアが開く音と共に、沢山の人間が自分の行くべき場所へ向かって移動を始める。
直人とあの女性とのさほど離れぬ中間地点に、こちらに背を向け立つ智也のとっさの判断と、その手に軽々と握る、死神のそれを思い出させるような2mを超える大鎌が直人をこの世に引き止めてくれた様だ。
三人が立つスペースには先頭車両さえも止まっていないし、そんなRPG的大型武器を所持し振り回していても、ホームを行き来する人々は誰もこちら側に関心さえ持たない。
振り下ろされた位置で留まる大鎌に汚れはなく、少し前までOL姿の女性だった筈のソレは、あの青い輝きは嘘だったかのように般若の面を思い浮かばせる表情のまま、ホームの天井を床にしてまっすぐ立ち、こちらを見つめていた。
人であったころは腰辺りまであったであろう髪が、重力に逆らうことなく、まっすぐホームに向けて垂れ下がる。
状況から大丈夫だろうと判断し、なんとか体を起こした直人も、肩に斜め掛けにしていた二眼レフカメラに<契約媒体>として手を触れた。
熱いとも痛いとも異なる衝撃が身体中を走り、古く美しいカメラは、直人の求めに答え、その形状をドロリと生き物のように、黒光りする柄を持つ燻銀に輝く刃が美しい大剣に変化させる。
先ほどまでと諦め混じりの感情とは異なり、大剣を握り締めた今の直人にとってこの状況は楽しくて楽しくて仕方がないものだ。無意識に舌なめずりする、人から剥離した直人の脳裏に、ふと、少し前のあのくだらない鼻歌がよぎった。