紅茶 ~セイロン~
図書館で興味深そうに本を読んでいる少女がいた。
歳二十歳前後辺りだろうか、朝の人が少ない図書館で椅子が空いているのにも関わらず立って本を読む少女は存外目立つものであった。
少女が読んでいる本の内容は紅茶のものであった。
少女はその中の一つの紅茶の事について熱心に読んでいる。
「へー…セイロンってストレートティーでも飲まれるのね。でも、大抵ブレンドしてあったり他の紅茶のほうが目立つわよね…キャンディとか」
「そうだな、現地でも結構ブレンドして飲んでるとこが多い」
「そうなんだー…えっ!」
唐突に真後ろから聞こえた声に少女が勢いよく振り向くと、どうしたと言わんばかりに首をかしげる青年がいた。
「い、いきなりびっくりするじゃないですか!」
「ここは図書館だから、静かにな」
「あ、すいません。…じゃなくて!」
今度は小声を意識して再び青年に詰め寄る。
「いきなり知らない人に声をかけられて、びっくりしない人はいないと思います!」
少女が訴えると青年はそれを今気が付いたと言わんばかりに目を見開いた。
そしてすぐに申し訳なさそうに目を細めた。
「それはすまない。自分が知っている分野だったので、口を挟みたくなった」
「まあ、それは分からないでもないですけど…」
頭を下げて謝られて、それでも怒る人は少ない。少女も枠に嵌らず、怒りを持続させることはなかった。
「俺は楠木佳。先程は驚かせてすまなかった。紅茶が好きで、特にセイロンが一番好きなんだ」
「い、いえ!それはもういいですからっ。私は来栖美空と言います」
簡単な自己紹介を済ませると、美空は自分が目の前の男に興味を抱いていることに気が付いた。
傍から見ても立派な美丈夫であるこの青年は、男にあまり免疫のない美空には刺激が強い。
しかし、気になりだしたら止まらない性格を持つ美空は目の前の男のことも知りたい衝動に駆られたのだ。
「セイロンについてお詳しいそうですね」
「詳しいかどうかは…ただ、好きだととことん調べてみたくなる」
「ああ、それ分かります。…あの、よければなんですがこの後お話しできませんか?今日でなくともいいんです。セイロンについて、もう少し詳しいことが知りたくて…」
「理由を、聞いても?」
「大学のレポートでスリランカについて書かなければいけないんです」
それで大体の事を察したのか青年は笑顔で今からでもいい、と頷いた。
「へぇ、セイロンってホントに最初の紅茶なんですね」
「最初、という表現は正しくないが…まあ、だいたいは」
近くの喫茶店で美空は佳の話を必死にメモしていて気付かなかった。佳が嬉しそうに、微笑ましそうに自分を眺めていることに。
「あの、ありがとうございました。ここまで詳しく教えてもらって…」
「いや、俺も好きなことについて語れて楽しかった。こちらこそ礼を言おう」
そう言って、にこりと笑った。何故か、笑顔を見た途端心臓が鷲掴みされたように苦しくなった。胸が高鳴る、とでもいうのか。しかし美空はそれを一生懸命顔に出さずに微笑み返した。
カタリと、青年が席を立ったので慌てて美空も席を立った。
それを何故か微笑ましそうに見つめる佳に美空は居心地が悪くなってしまう。落ち着かないのだ。
心拍数は上がっていく気がするし、なんだか青年の笑顔に当てられたのかふらふらするし、頬は赤くなっていく気がするし。
この現象を冷静に見極めた結果、全てを押し留めることに集中する。
その間にいつの間にか会計は済ませられ、手を引かれて歩いていることに美空はまだ気が付いていなかった。
美空が気が付いた時には公園のベンチに座っており、隣には青年がじっとこちらを見ていた。
「え、あ、な、何でしょう…」
「いや、考えを整理しているのかと思って」
真面目な表情でそう言って退ける佳の天然さに、思わず美空は吹き出した。それに驚いたように目を見開く佳にさらに笑いの渦が深まる。
最初は不思議そうな顔をしていたが、思い切り笑っている美空を暫く眺め、自分も微笑んだ。
佳が微笑んでいることに気が付いた美空が、今度は不思議そうな顔をする番だった。
「いや、自分が美空を笑わせられたなら、それでいいと思って」
微笑みながら言われた言葉に、思わず美空は不審そうな顔で返してしまう。自分で言っては何だが、初対面の相手に講義をしてくれ、笑わせられて嬉しいとまで。お人よしすぎる。
不審そうな、しかし心配そうな美空の表情で言いたいことを察したらしい佳は苦笑で答えた。
「美空にとって俺は初対面だが、俺にとっては美空は初対面ではない」
驚いた。初対面ではないとしたら、どこで見かけたというのか。顔に思いっきり現れた疑問に、こくりと首を傾けながら佳は答える。
「美空は調べたいことがあったらまず図書館に行くだろう?」
「え、はい」
「俺もなんだ。結構な頻度で図書館に行く。だから、たまに真剣な表情で、席が目の前で空いているのにも関わらず立って読んでいる美空が、次第に気になった。声をかけたかったが、あまりにも真剣で声をかけずらかった。でも今日は、俺の得意分野で好きなことだったから、我慢できなかったんだ」
「そうだったんですか…」
呆けたような顔で聞いていた美空は心の中でだからあんなに懇切丁寧だったのか、と納得した。しかし、それがいけなかった。
美空は考え事をすると目を横に逸らす変な癖がある。なので、直前まで近づいた佳にも気づかなかった。
気づいた時には、唇に柔らかな感触が当たり舌で舐めとられた後だった。
「………えっ!?今、何を!」
「何を…キス?」
顔の距離数センチというところで、顔を傾げる姿は可愛らしい。しかし美空はそれどころではなかった。男に免疫がないのに、いきなり口づけされて、慌てないほうが可笑しい。
「な、な、なんで…!」
目線をあっちへこっちへ忙しなく動かす美空を、暫く黙って見つめていた佳は唐突に美空の頬を両手で包んで固定した。
そして逃げる隙も与えずに再び美空の唇に己のそれを重ねた。先ほどよりもゆっくりと、優しくされるそれに、美空は段々と抵抗できなくなる。頭の芯が痺れたように震え、思考は止まる。
「何故と問われるならば、美空にこうしたかったから、だ」
暫くして佳の顔が遠ざかると、唐突にそう言って退ける。その甘い声と笑顔に、ときめかない女がいるだろうか。