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飛べない機械蝶

ブラスヘイヴンの朝は、珍しく雲ひとつない青空だった。


工房街の屋根に並ぶ煙突からは、細い蒸気が白く立ちのぼっている。朝日を受けた真鍮の配管や看板は、ところどころ淡い金色に光り、その隙間を縫うように小型の飛行艇がゆっくりと高度を上げていった。


丸窓のそばでは、リリィが紅茶のカップを両手で包んでいた。


窓を少しだけ開けているせいか、外からは遠くの工房で金属を打つ音や、通りを走る蒸気車の短い警笛がかすかに届いてくる。


今日は少し風が強い。


窓枠に吊るした真鍮の風見飾りが、からからと小さく鳴っていた。


そのすぐ横では、ナイトが朝の日差しを背中いっぱいに浴びながら毛づくろいをしている。黒い毛並みの表面が、光の加減でほんの少し青く見えた。


「今日の飛行艇、低いね」


リリィが言うと、ナイトは前足を舐めるのを止め、一度だけ外を見た。


大きな飛行艇が、工房街の屋根の向こうをゆっくり横切っていく。


船腹に差した光が丸窓へ反射し、工房の中を一瞬だけ明るくした。


棚に並んだ瓶や古い時計の硝子がきらりと光る。


ナイトは眩しそうに目を細めたあと、また何事もなかったように毛づくろいへ戻った。


「興味ないんだ」


リリィは紅茶を一口飲んだ。


花の香りが、ふわりと鼻を抜ける。


返事はない。


ただ、ナイトの尻尾の先だけが、ゆっくりと一度動いた。


午前中は、昨日から預かっていた小型ランプの修理をして過ごした。


煤で曇った硝子を外し、細い燃料管の奥に詰まった汚れを取り除く。磨き終えた真鍮の部品を元へ戻して火を灯すと、琥珀色の明かりが作業台の上へやわらかく広がった。


「よし」


リリィは満足そうにランプを棚へ移した。


その直後だった。


入口のベルが、からん、からん、といつもより勢いよく鳴った。


「こんにちは!」


元気な声と一緒に、一人の少女が工房へ飛び込んでくる。


十歳になるかならないかくらいだろうか。


栗色の髪を左右で短く結び、小さな鞄を肩から斜めに下げている。頬は少し赤くなっていて、ここまで走ってきたらしい。


少女は入口で一度大きく息を吸うと、両腕で抱えていた小箱をリリィの前へ差し出した。


「これ、直せますか?」


「こんにちは。まず、見せてもらってもいい?」


「あ、はい」


少女は少し照れたように頷き、接客用のローテーブルへ箱を置いた。


木箱の蓋を開ける。


中に入っていたのは、手のひらほどの機械仕掛けの蝶だった。


薄い真鍮で作られた胴体に、青緑色の薄い金属板を重ねた四枚の羽。


羽の表面には細かな模様が刻まれていて、窓から差す光の角度によって青にも緑にも色を変えた。


中央には小さな歯車がいくつも組み込まれ、蝶というより、まるで精巧な宝飾品のようだった。


「きれい」


リリィが思わず呟くと、少女の表情が少しだけ明るくなる。


「でしょ? お兄ちゃんが作ったの」


「お兄さんが?」


「うん。でも、失敗してる」


嬉しそうだった顔が、すぐにむっとしたものへ変わった。


少女は蝶の背中にある小さなつまみを何度か回す。


ちちち、と歯車が動き始めた。


四枚の羽がゆっくり開き、やがてぱたぱたと羽ばたき始める。


けれど、机の上から浮かび上がる気配はない。


「ね?」


少女は腰に手を当てた。


「羽は動くのに、全然飛ばないの」


「なるほど」


リリィは蝶を覗き込んだ。


羽の動きは滑らかで、歯車の噛み合わせにも不自然なところはない。


少なくとも、壊れているようには見えなかった。


「いつから飛ばないの?」


「最初から」


「最初から?」


「そう。お兄ちゃんがくれたときから、ずっと」


少女は頬を膨らませる。


「だから絶対、作るの失敗したんだよ」


そう言いながらも、蝶を木箱へ戻す手つきだけはとても丁寧だった。


リリィはその様子を見て、ほんの少し口元を緩めた。


「お兄さんは今、どこにいるの?」


「遠い街」


少女は視線を落とした。


「飛行艇の機関士になるために修業に行ってる。半年くらい帰ってこないって」


「そっか」


「出発する前に、これをくれたの」


少女の指先が、機械蝶の羽をそっと撫でる。


「でも、その前に喧嘩した」


「何で喧嘩したの?」


「……忘れた」


「忘れたの?」


「細かいことは」


少女はむっとした顔のまま、テーブルの木目を見つめる。


「でも、私が『こんなのいらない』って言ったのは覚えてる」


工房の奥で、時計が一つ、かちりと音を立てた。


少女はしばらく黙っていたが、やがて小箱の縁を指でなぞりながら続ける。


「なのに、お兄ちゃん、これ置いていった」


「捨てなかったんだね」


「……捨てるのは、なんか違うから」


すぐに返ってきた答えだった。


リリィは小さく笑う。


「そっか」


「でも、ちゃんと飛ぶようにはしたい」


少女は顔を上げた。


「お兄ちゃんが帰ってきたときに見せるの。『ほら、直ったよ』って」


「分かった。一度預かるね」


「ほんと?」


「うん。ただ、飛ばない理由を調べてみないと、直せるかどうかはまだ分からないけど」


「大丈夫。リリィさんなら直せるって聞いたから」


「誰から?」


「パン屋のおばちゃん」


思わず、リリィは目を丸くした。


工房から二本ほど先の通りに、小さなパン屋がある。時々、壊れた計量器や古いランプを持ち込んでくる店主だ。


「噂って、広がるんだね……」


少女はきょとんとしている。


少し離れた場所では、ナイトが専用の一人掛け椅子から、どことなく得意げな顔でこちらを見ていた。


「じゃあ、お願いします!」


少女は勢いよく頭を下げると、入口へ向かった。


扉を開ける直前に、一度だけ振り返る。


「絶対、飛ぶようにしてね!」


「できるだけ頑張ります」


「絶対だからね!」


もう一度念を押して、少女は工房を出ていった。


ベルの音が、遠ざかる足音に重なって消えていく。


工房にはまた、時計の音と遠くの機械音だけが残った。


リリィはテーブルの上に置かれた機械蝶を見つめる。


「絶対って言われちゃった」


ナイトが椅子から降り、ゆっくりと近づいてきた。


「でも、不思議だね」


リリィは蝶を持ち上げる。


「壊れてるようには見えないんだけど」


作業台へ移り、背面の小さな留め具を外していく。


ランプの光の下で、小さな歯車が一つずつ姿を現した。


内部は思った以上に丁寧な作りだった。


歯車同士の噛み合わせも悪くない。羽を動かす機構にもほとんど無駄がなく、これを作った少年が相当な時間をかけたことが分かる。


「失敗、ではなさそう」


リリィは首を傾げる。


普通、飛行する玩具なら、羽の動きと連動して小さな浮力を生み出す機構が入っている。


けれど、この蝶にはそれがない。


壊れているのではない。


最初から取り付けられていないのだ。


「飛ばないんじゃなくて……飛ばないようにしてある?」


指先で蝶の胴体へ触れる。


その瞬間、手のひらにふっと温かな感触が広がった。


工房の景色が静かに薄れていく。


代わりに見えたのは、夜の小さな部屋だった。


ランプの下で、一人の少年が机に向かっている。


十四、五歳くらいだろうか。


机の上には細かな部品や歯車が散らばり、床にはくしゃくしゃになった設計図が何枚も落ちている。


少年は眠そうに目を擦りながら、それでも手を止めなかった。


削りすぎた歯車を捨て、新しいものを作る。


羽の角度を直す。


ねじを巻き、動かしては止める。


『今度こそ』


小さく呟く。


何度目かの試作で、機械蝶は初めて宙へ浮かんだ。


青緑色の羽を震わせながら、小さな体が部屋の中を軽やかに飛ぶ。


少年の顔がぱっと明るくなった。


けれどその直後、蝶は勢いよく方向を変え、部屋の隅にある長椅子へ飛んでいった。


そこでは幼い少女が毛布をかぶり、眠っている。


少女が目を覚ました。


飛んでくる蝶を見る。


『きゃっ!』


悲鳴を上げ、慌てて毛布の中へ潜り込んだ。


少年が急いで蝶を捕まえる。


『ごめん! ごめんって!』


『やだ! 虫やだ!』\


『これ虫じゃないって!』


『飛ぶから同じ!』


毛布の中から怒った声が返ってくる。


少年は困ったように機械蝶を眺めた。


しばらくして、机へ戻る。


そして、せっかく完成させたばかりの飛行機構から、小さな歯車を一つ外した。


『これなら、怖くないだろ』


毛布から返事はなかった。


少女はもう眠ってしまったらしい。


少年は肩をすくめ、それでも少しだけ満足そうに笑った。


場面が変わる。


出発の日。


玄関には、大きな鞄。


少年は旅行用の外套を着ていた。


少女は部屋の隅で腕を組み、そっぽを向いている。


『別に、いらない』


机に置かれた機械蝶を見もしない。


『そう』


少年は少し寂しそうに笑う。


『じゃあ置いていく』


『持ってけばいいじゃん』


『重いから』


『そんな小さいのに?』


『重いんだよ』


少年は少女の頭へ手を伸ばした。


けれど少女が避けたため、その手は途中で止まった。


少年は少し困った顔をして、手を引っ込める。


『じゃあな』


扉が閉じる。


部屋が静かになる。


少女はしばらくその場から動かなかった。


やがて机へ近づき、機械蝶を手に取る。


青緑色の羽を、指先でそっと撫でる。


そこで記憶は途切れた。


リリィはゆっくり目を開けた。


目の前には、ランプに照らされた作業台が戻っている。


ナイトがすぐそばに座り、金色の瞳でこちらを見ていた。


「大丈夫だよ」


今度の記憶は悲しいものではなかった。


ただ、胸の奥に少しくすぐったいような、温かなものが残っている。


「お兄ちゃん、失敗したんじゃなかったんだ」


ナイトの耳がぴくりと動く。


「飛ばないようにしたんだね」


妹が怖がらないように。


けれど、そのことを少女へ伝えるつもりはなかった。


兄が何を思って作ったのか。


それはいつか、兄自身が話せばいい。


リリィは椅子にもたれ、機械蝶を眺めた。


「でも、飛ばしたいって言ってたよね」


ナイトが蝶へ鼻先を近づける。


「普通に飛ばすだけなら簡単なんだけど……」


リリィは部品箱を引き寄せた。


元の飛行機構をそのまま戻せば、蝶はきっと高く飛ぶ。


けれど、それでは少年がわざわざ外した理由までなくしてしまう。


「怖くないくらいなら、いいかな」


一枚の紙を取り出し、鉛筆を走らせる。


高く舞い上がらない。


急に方向を変えない。


手を差し出せば、そこへ降りる。


そんな動きを思い描きながら、何度も線を引き直した。


やがて工房の外が夕暮れ色に染まり始めた。


丸窓から差し込む光が、作業台の上に長い影を落としている。


試作は思ったより手こずった。


最初は数センチ浮いて、すぐに落ちた。


二度目は天井へ向かって飛び、慌ててリリィが両手で捕まえた。


三度目は横へ逸れ、本棚へ突っ込みそうになる。


「わっ」


リリィが手を伸ばすより早く、ナイトが前足で蝶を叩き落とした。


機械蝶は絨毯へ、ころんと転がる。


「ありがとう」


ナイトは何事もなかったように座り直した。


「でも、もう少し優しくできなかった?」


金色の瞳が、じっとこちらを見る。


リリィは笑いながら蝶を拾った。


外がすっかり暗くなったころ、工房のランプの明かりだけが部屋を温かく照らしていた。


窓の向こうでは、夜間飛行の飛行艇が遠くを横切り、船体についた小さな灯りが星のようにゆっくり移動している。


リリィは最後の調整を終えようとしていた。


けれど、何度試しても、蝶は手のひらへ降りる直前で少しだけ勢いを失い、不安定に揺れてしまう。


「あと少しなんだけどな……」


もう一度歯車を外す。


また組み直す。


やがて工具を握ったまま、リリィの瞼がゆっくり落ちていった。


頬杖をついたまま、作業台に伏せる。


呼吸が穏やかになる。


ナイトは椅子の上からその様子をしばらく見ていた。


やがて、音もなく床へ降りる。


ランプの炎がふっと揺れた。


黒猫の影が壁の上で長く伸びる。


そして次の瞬間。


作業台のそばに立っていたのは、一人の青年だった。


黒い髪。


金色の瞳。


静かな表情。


ナイトは眠っているリリィを見下ろし、小さく息をついた。


「またか」


誰にも聞こえない声で呟く。


椅子の背に掛けられていた薄手の毛布を取り、リリィの肩へそっと掛けた。


それから、作業台の上に置かれた機械蝶へ目を向ける。


小さな設計図。


何度も消しては描き直した跡。


散らばった歯車。


ナイトはしばらくそれらを眺めた。


そして機械蝶を手に取る。


背面の蓋を開けると、リリィが最後に取り付けたばかりの小さな歯車が見えた。


「ここか」


指先で、ほんの少しだけ位置をずらす。


歯車が噛み合う音が、ち、と小さく鳴った。


それだけだった。


ナイトは修理を続けることも、部品を作り替えることもしなかった。


ただ、リリィが自分で辿り着いた答えが、きちんと動くように整えただけ。


蝶を作業台へ戻す。


ねじを巻く。


青緑色の羽が静かに開いた。


ふわり。


機械蝶が宙へ浮く。


ゆっくりと工房の中を一周し、ナイトの差し出した手へ近づいていった。


一度、小さく揺れる。


けれど今度は落ちない。


そのまま、青年の人差し指へそっと降りた。


ナイトは目を細めた。


「これならいいだろ」


眠っているリリィへ視線を向ける。


彼女の頬には、作業中についたらしい小さな煤の跡があった。


ナイトは少し迷ってから、そのままにしておいた。


やがて灯りの揺らめきの中で、青年の姿は再び黒い影へ戻っていった。


翌朝。


丸窓から差し込んだ朝日が、作業台の上へ細長く伸びていた。


リリィはゆっくりと顔を上げる。


肩に掛けられた毛布がずり落ちた。


「……また寝ちゃった」


ナイトは窓辺のクッションで丸くなっている。


「これ、いつもどこから持ってくるんだろ」


尋ねても、ナイトは目を開けない。


リリィは小さく笑い、昨夜の続きを始めた。


機械蝶のねじを巻く。


羽が動く。


ゆっくりと宙へ浮かぶ。


工房の中を一周し、差し出したリリィの手のひらへ、今度は滑らかに降りた。


「……あれ?」


リリィは蝶を覗き込む。


昨夜まで、どうしても安定しなかったはずだった。


「寝ぼけながら直したのかな」


ナイトの耳が、ほんの少しだけ動いた。


「まあ、いっか」


リリィは嬉しそうに蝶を手のひらへ乗せた。


「できたね」


窓辺で、ナイトがゆっくりと目を開ける。


金色の瞳が、朝日の中で細くなった。


少女がやってきたのは、その日の午後だった。


入口のベルが鳴るより先に、外から駆けてくる足音が聞こえていた。


「できた?」


扉を開けるなり、少女が尋ねる。


「こんにちはが先じゃない?」


「こんにちは! できた?」


「できたよ」


リリィは笑って、作業台の上の機械蝶を指した。


少女の目が輝く。


「飛ぶ?」


「飛ぶよ。ただし、すごく高くは飛ばないようにしてあるの」


「なんで?」


「まず見てみる?」


少女は大きく頷いた。


リリィがねじを巻き、手を離す。


羽がゆっくりと開く。


機械蝶は机からふわりと浮き上がり、少女の膝ほどの高さをゆっくり進んだ。


青緑の羽が、窓から差し込む午後の光を透かす。


「わ……」


少女が思わず一歩近づいた。


蝶は急ぐことなく工房の中を小さく一周する。


少女の目の前へ来ても、勢いよく近づくことはない。


少し離れた場所で羽ばたきながら、ふわふわと漂っている。


「手、出してみて」


「え?」


「こうやって」


リリィが手のひらを上へ向ける。


少女も真似をした。


機械蝶がゆっくり方向を変える。


小さな羽音を立てながら近づき、その手のひらへそっと降りた。


少女は動かなかった。


青緑色の羽が、掌の上で静かに開いたり閉じたりしている。


「……かわいい」


こぼれた声は、さっきまでよりずっと小さかった。


「飛ぶように直したよ」


「でも、なんか普通の蝶みたいじゃないね」


「そうだね」


「もっと、ぶわーって飛ばせなかったの?」


「できたと思う」


「じゃあ、なんで?」


リリィは少しだけ考えた。


「その方が、この子には似合うかなって思ったから」


少女は不思議そうに蝶を見る。


「変なの」


そう言いながら、口元には笑みが浮かんでいた。


少女は掌の上の蝶をしばらく眺める。


やがて、ぽつりと呟いた。


「お兄ちゃん、なんで最初からこうしなかったんだろ」


リリィは工具を片づけながら答えた。


「きっと、作ったときには作ったときの理由があったんじゃないかな」


「理由?」


「うん」


それ以上は言わなかった。


少女はしばらく首を傾げていたが、やがて何かを思い出したようだった。


「……そういえば」


「なに?」


「私、小さい頃、飛ぶ虫すごい嫌いだった」


リリィは手を止めないまま答える。


「そうなんだ」


「今も好きじゃないけど」


少女は機械蝶へ顔を近づけた。


「これなら平気」


青緑の羽が、少女の鼻先でゆっくり動いた。


しばらくして、少女は蝶を大切そうに小箱へ戻した。


「リリィさん」


「ん?」


「手紙って、ここから出せる?」


「郵便なら、通りの角にあるよ」


「そっか」


少女は箱を胸へ抱く。


「お兄ちゃんに手紙書く」


「直ったよって?」


「違う」


少し間を置き、少女は視線を逸らした。


「この前、ごめんって」


リリィは微笑んだ。


「うん。それがいいと思う」


「あと、蝶がちゃんと飛んだって書く」


「それもいいね」


「すごく低いけど」


「そこは書かなくてもいいんじゃない?」


「書くよ。お兄ちゃんの失敗じゃなかったかもしれないし」


少女は少し恥ずかしそうに笑った。


工房を出る前、少女は一度だけナイトの椅子へ近づいた。


「この猫、触っていい?」


「ナイトがいいなら」


少女がそっと頭へ手を伸ばす。


ナイトは逃げなかった。


小さな手が黒い毛並みを撫でる。


「ふわふわ」


ナイトは少しだけ目を細めた。


少女は満足そうに頷き、今度こそ入口へ向かった。


「ありがとう、リリィさん!」


「どういたしまして」


扉のベルが鳴る。


少女は小箱を抱えたまま、明るい通りへ駆けていった。


リリィはしばらくその背中を見送っていた。


やがて姿が角の向こうへ消える。


工房へ戻ると、ナイトはすでに専用の椅子の上で丸くなっていた。


「ねえ、ナイト」


耳だけがこちらを向く。


「ナイトだったら、嫌いなものをプレゼントされたらどうする?」


ナイトは顔を上げた。


少し考えるようにリリィを見つめたあと、その視線がゆっくりローテーブルへ移る。


午後のお茶に食べようと思っていた小さな焼き菓子が、一つだけ残っていた。


「……それは嫌いじゃなくて、欲しいだけでしょ」


ナイトの尻尾が、ぱたん、と椅子を叩いた。


「だめ。これは私の」


もう一度、ぱたん。


丸窓の外では、夕方の光を受けた飛行艇がゆっくり街の上を進んでいる。


どこか遠くの街では、一人の少年が今日も機関士になるための勉強をしているのだろう。


そのもとへ、やがて一通の手紙が届く。


最初の一行を書くまで、少女はきっとずいぶん迷う。


けれど一度書き始めてしまえば、その先は案外、素直な言葉が続くのかもしれない。


リリィは冷めかけた紅茶を飲んだ。


人の気持ちは、物ほど素直には見えない。


言わなければ伝わらないこともある。


それでも、まだ伝えられるのなら。


それはきっと、とても幸せなことなのだろう。


「……おかわり淹れようかな」


立ち上がろうとしたところで、ナイトが焼き菓子へ前足を伸ばした。


「あっ」


リリィが皿を取り上げる。


ナイトは何事もなかったように前足を引っ込めた。


「今、取ろうとしたよね?」


金色の瞳が、ゆっくりと細められる。


工房の外では、夕刻を告げる鐘が鳴り始めていた。


その音に重なるように、リリィの小さな笑い声が、ランプの灯る工房の中へやわらかく広がっていった。

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