↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/3

歌わなくなったオルゴール

ブラスヘイヴンの朝は、いつも少しだけ騒がしい。


遠くで飛行艇の汽笛が鳴り、工房街の煙突から白い蒸気が立ちのぼる。石畳の上を荷車が通り過ぎるたび、積まれた金属部品がカタカタと音を立てた。


その工房街の端に、小さな家がある。


一階は修理工房。二階は住居。


入口の木製看板には、歯車と黒猫の絵、それから少し曲がった文字で、


『ブラスヘイブン修理工房』


と書かれていた。


リリィは朝から、作業台に向かっていた。


真鍮製の小さなランプを分解し、煤で黒くなった部品を布で磨いていく。長い髪が作業の邪魔にならないよう後ろで結ばれ、鼻の頭にはうっすらと黒い汚れがついていた。


「よし。これで、もう少し使えるかな」


磨き終えた歯車を光に透かす。


作業台の端では、黒猫のナイトが前足を揃え、じっとその様子を眺めていた。


「なに?」


リリィが尋ねると、ナイトは目を細めた。


まるで、まだ終わっていない、とでも言いたげだった。


リリィはもう一度ランプを見た。


「あ」


留め具が一つ、緩んでいる。


締め直してから振り返ると、ナイトは満足そうに尻尾を揺らしていた。


「最初から教えてくれればいいのに」


もちろん、黒猫が返事をするはずはない。


けれどリリィには、ときどきナイトが自分よりもずっと物知りに思えることがあった。


店の扉についたベルが鳴ったのは、それから間もなくのことだった。


「ごめんください」


入ってきたのは、灰色の外套を着た男性と、赤い帽子をかぶった小さな女の子だった。


男性は大切そうに木箱を抱えている。


「修理をお願いしたいのですが」


「はい。どうぞ、こちらへ」


リリィが作業台の前の椅子を勧めると、男性は木箱をそっと置いた。


中から現れたのは、古いオルゴールだった。


濃い色の木でできた箱には、小さな白い花がいくつも彫られている。角は丸く擦れ、蓋には何度も開け閉めされた跡があった。


大事に使われてきたのだろう。


男性が横についたねじを巻き、蓋を開けた。


けれど音は鳴らなかった。


内部で、かすかに何かが引っかかる音だけがした。


「動かなくなったのは、いつ頃ですか?」


「半年ほど前です」


男性は隣の少女を見た。


「妻が娘のために使っていたものなんです。眠る前には、いつもこれを鳴らしていました」


少女は何も言わず、帽子の縁を指でいじっていた。


「妻は昨年、病気で亡くなりまして」


工房の中に、歯車時計の音だけが響いた。


「来週、この子の誕生日なんです。それまでに、もう一度鳴るようにしていただけないでしょうか」


「分かりました。中を見てみます」


リリィが答えると、少女が小さな声で言った。


「別に、直らなくてもいい」


父親が驚いたように振り向く。


「エマ」


「もういらないもん」


少女はオルゴールを見ようとしなかった。


「お母さんがいないのに、鳴ったって意味ないもん」


父親は何か言おうとしたが、結局、口を閉じた。


リリィは少女の横顔を見た。


怒っているようにも見えた。


けれど、帽子をつかむ指には、強く力が入っていた。


「お預かりします」


リリィは静かに言った。


「直せるかどうか、調べてみますね」


男性と少女が帰ったあと、工房はまた静かになった。


リリィはオルゴールを作業台の中央へ置いた。


ナイトが椅子から飛び降り、箱の周りをゆっくり一周する。やがて、白い花の彫刻に鼻を寄せた。


「きれいだね」


リリィは彫刻を指先でなぞった。


その瞬間、世界が少しだけ遠くなった。


工房の音が消え、代わりに知らない部屋が見えた。


淡い月明かり。


小さなベッド。


毛布の中で、幼いエマが笑っている。


ベッドのそばには、痩せた女性が座っていた。


女性はオルゴールのねじを巻く。


ゆっくりと、優しい曲が流れ始める。


途中で一つだけ、少し外れた音が鳴った。


幼いエマがくすくす笑う。


女性も笑った。


『また、変な音がした』


『この子の癖なのよ』


『直さないの?』


『直さなくてもいいの。少しくらい違う方が、うちの子らしいでしょう?』


女性の手が、オルゴールの蓋を撫でる。


温かな手だった。


場面が揺れる。


次に見えたのは、昼間の部屋だった。


女性は一人で机に向かい、小さな紙に何かを書いている。


何度も書き直し、最後に紙を小さく折り畳む。


そして、オルゴールの底を外し、その奥へ隠した。


そこで光景は途切れた。


リリィはゆっくりと手を離した。


胸の奥に、まだ温かな余韻が残っている。


物に触れると、ときどきこうして、その物に残された思いが見える。


いつから見えるようになったのか、リリィ自身にも分からない。


すべての記憶が見えるわけではない。


物が忘れたくないと願った、ごく短い瞬間だけ。


ナイトが小さく鳴いた。


「うん」


リリィはうなずいた。


「底に何かあるみたい」


オルゴールを裏返し、細い工具で底板を外す。


奥に、小さく折り畳まれた紙があった。


リリィはそれを開かなかった。


見えた記憶が正しいのなら、その手紙は自分が読むものではない。


紙を別の封筒へ入れ、大切に作業台の引き出しへしまった。


次に、内部の機械を調べる。


故障の原因はすぐに分かった。


音を鳴らすための金属板が一本、根元から折れていた。ほかの部品も錆びており、長い間無理をして動き続けていたらしい。


同じ部品は、もう作られていない型だった。


リリィは棚から古い部品帳を持ってきて、ページをめくった。


寸法の近いものはある。


けれど完全に同じ音にはならない。


折れた一本を新しく作れば、曲は鳴るようになる。


ただし、昔とまったく同じ音色には戻せない。


リリィは椅子に座ったまま、長いことオルゴールを見つめていた。


「同じじゃないと、だめかな」


ナイトは作業台へ飛び乗り、折れた金属板の横に座った。


「お父さんは、同じ音を聞かせたいんだと思う」


ナイトは動かなかった。


「でも、エマは聞きたくないって言った」


黒い尻尾が、静かに一度だけ机を叩く。


リリィは、記憶の中で聞いた言葉を思い出した。


少しくらい違う方が、うちの子らしいでしょう。


「そうだね」


リリィは工具を手に取った。


「同じに戻すんじゃなくて、この先も鳴れるように直そう」


それから三日間、リリィはオルゴールの修理を続けた。


錆びた歯車を磨き、軸を交換し、折れた金属板の代わりを一から削り出す。


新しい板は、元のものよりほんの少しだけ高い音がした。


旋律の途中に、ぽつんと違う音が混ざる。


リリィは何度も調整した。


けれど、どうしても完全には同じにならなかった。


夜も遅くなり、リリィは作業台に突っ伏して眠ってしまった。


工房のランプが、弱い炎で揺れている。


ナイトは椅子から飛び降りた。


しばらくリリィの顔を見つめたあと、音もなく床へ降りる。


揺れる灯りの向こうで、黒い影がゆっくりと伸びた。


次の瞬間、そこにいたのは黒猫ではなかった。


黒い髪と金色の瞳を持つ、一人の青年だった。


青年は壁に掛けてあった毛布を取り、リリィの肩にそっと掛ける。


それから、修理途中のオルゴールへ目を向けた。


ねじを巻き、蓋を開ける。


静かな旋律が工房に流れた。


途中で一つだけ、新しい音が鳴る。


青年は少しだけ目を細めた。


「悪くない」


誰にも聞こえない声でそう言うと、彼はオルゴールの蓋を閉じた。


朝になったとき、作業台の上には黒猫のナイトが丸くなっていた。


「また寝ちゃった」


リリィは肩の毛布に気づき、不思議そうに首を傾げた。


「これ、どこから持ってきたの?」


ナイトは大きくあくびをした。


「まあ、いいか」


修理が終わったのは、エマの誕生日の前日だった。


男性とエマが、再び工房を訪れた。


リリィはオルゴールを作業台へ置いた。


「動くようにはなりました」


男性の顔が明るくなる。


「ただ、壊れていた部品と同じものがなかったので、前とまったく同じ音ではありません」


「そうですか」


男性は少しだけ残念そうに見えた。


エマは黙って床を見ている。


「聞いてみますか?」


リリィが尋ねると、少女は首を横に振った。


「いらない」


父親が困ったようにリリィを見る。


リリィは無理に蓋を開けなかった。


代わりに、引き出しから封筒を取り出す。


「修理中に、底板の奥から見つかりました」


父親は封筒を受け取った。


中の紙を開く。


読み始めた途端、その手が小さく震えた。


エマが顔を上げる。


「なに?」


父親はすぐには答えられなかった。


やがて椅子にしゃがみ、娘と同じ高さになる。


「お母さんからだ」


エマの目が大きくなった。


父親は、震える声で手紙を読んだ。


『エマへ。


あなたが眠れない夜に、この歌がそばにありますように。


悲しい日は、泣いてもかまいません。


でも泣き終わったら、また明日の話を聞かせてください。


あなたがこれから見つけるものを、お母さんは全部知ることができないけれど、あなたが笑うたびに、このオルゴールもきっと嬉しくなるでしょう。


あなたの毎日に、たくさんの新しい歌がありますように』


工房の外を、蒸気馬車が通り過ぎた。


けれど誰も、その音を気にしなかった。


エマはしばらく何も言わなかった。


やがて父親から手紙を受け取り、自分でもう一度、ゆっくり読んだ。


「……鳴らして」


小さな声だった。


リリィはオルゴールのねじを巻いた。


蓋を開ける。


優しい旋律が流れ出す。


記憶の中で聞いたものと同じ曲。


けれど途中で一つだけ、新しい高い音が鳴った。


エマの肩が揺れた。


「違う」


父親が不安そうに娘を見る。


けれどエマは泣きながら笑っていた。


「前と、ちょっとだけ違う」


「ごめんなさい」


リリィが言うと、エマは首を振った。


「ううん」


少女はオルゴールにそっと触れた。


「この子、新しい歌を覚えたんだね」


リリィは少しだけ目を見開いた。


それから、ゆっくりとうなずいた。


「はい。たぶん」




帰り際、エマは床にいたナイトの前にしゃがみ、その頭を撫でた。


ナイトは嫌がらず、静かに目を閉じた。


「また壊れたら、ここに持ってきてもいい?」


エマが尋ねる。


リリィは少し考えてから答えた。


「壊れない方がいいけどね」


「でも、壊れたら?」


「そのときは、また直します」


エマは笑った。


父親と少女が工房を出ていく。


扉のベルが鳴り、二人の足音が石畳の向こうへ遠ざかっていった。


リリィは窓から、その背中を見送った。


エマはオルゴールの箱を両腕で大切そうに抱えている。


「思い出って、不思議だね」


リリィはナイトを抱き上げた。


「同じままじゃなくても、なくならないんだ」


ナイトは返事の代わりに、喉を鳴らした。


工房の奥では、修理を待つ時計が静かに時を刻んでいる。


棚には、欠けたカップ。


動かなくなった機械鳥。


どれにも、まだ誰かの思いが眠っている。


リリィはエプロンの袖をまくり直した。


「さて、次はどれを直そうか」


ナイトは腕の中から飛び降り、欠けたカップの前へ歩いていった。


ブラスヘイヴンの小さな修理店には、今日もまた、誰かの大切な時間が運ばれてくる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。