歌わなくなったオルゴール
ブラスヘイヴンの朝は、いつも少しだけ騒がしい。
遠くで飛行艇の汽笛が鳴り、工房街の煙突から白い蒸気が立ちのぼる。石畳の上を荷車が通り過ぎるたび、積まれた金属部品がカタカタと音を立てた。
その工房街の端に、小さな家がある。
一階は修理工房。二階は住居。
入口の木製看板には、歯車と黒猫の絵、それから少し曲がった文字で、
『ブラスヘイブン修理工房』
と書かれていた。
リリィは朝から、作業台に向かっていた。
真鍮製の小さなランプを分解し、煤で黒くなった部品を布で磨いていく。長い髪が作業の邪魔にならないよう後ろで結ばれ、鼻の頭にはうっすらと黒い汚れがついていた。
「よし。これで、もう少し使えるかな」
磨き終えた歯車を光に透かす。
作業台の端では、黒猫のナイトが前足を揃え、じっとその様子を眺めていた。
「なに?」
リリィが尋ねると、ナイトは目を細めた。
まるで、まだ終わっていない、とでも言いたげだった。
リリィはもう一度ランプを見た。
「あ」
留め具が一つ、緩んでいる。
締め直してから振り返ると、ナイトは満足そうに尻尾を揺らしていた。
「最初から教えてくれればいいのに」
もちろん、黒猫が返事をするはずはない。
けれどリリィには、ときどきナイトが自分よりもずっと物知りに思えることがあった。
店の扉についたベルが鳴ったのは、それから間もなくのことだった。
「ごめんください」
入ってきたのは、灰色の外套を着た男性と、赤い帽子をかぶった小さな女の子だった。
男性は大切そうに木箱を抱えている。
「修理をお願いしたいのですが」
「はい。どうぞ、こちらへ」
リリィが作業台の前の椅子を勧めると、男性は木箱をそっと置いた。
中から現れたのは、古いオルゴールだった。
濃い色の木でできた箱には、小さな白い花がいくつも彫られている。角は丸く擦れ、蓋には何度も開け閉めされた跡があった。
大事に使われてきたのだろう。
男性が横についたねじを巻き、蓋を開けた。
けれど音は鳴らなかった。
内部で、かすかに何かが引っかかる音だけがした。
「動かなくなったのは、いつ頃ですか?」
「半年ほど前です」
男性は隣の少女を見た。
「妻が娘のために使っていたものなんです。眠る前には、いつもこれを鳴らしていました」
少女は何も言わず、帽子の縁を指でいじっていた。
「妻は昨年、病気で亡くなりまして」
工房の中に、歯車時計の音だけが響いた。
「来週、この子の誕生日なんです。それまでに、もう一度鳴るようにしていただけないでしょうか」
「分かりました。中を見てみます」
リリィが答えると、少女が小さな声で言った。
「別に、直らなくてもいい」
父親が驚いたように振り向く。
「エマ」
「もういらないもん」
少女はオルゴールを見ようとしなかった。
「お母さんがいないのに、鳴ったって意味ないもん」
父親は何か言おうとしたが、結局、口を閉じた。
リリィは少女の横顔を見た。
怒っているようにも見えた。
けれど、帽子をつかむ指には、強く力が入っていた。
「お預かりします」
リリィは静かに言った。
「直せるかどうか、調べてみますね」
男性と少女が帰ったあと、工房はまた静かになった。
リリィはオルゴールを作業台の中央へ置いた。
ナイトが椅子から飛び降り、箱の周りをゆっくり一周する。やがて、白い花の彫刻に鼻を寄せた。
「きれいだね」
リリィは彫刻を指先でなぞった。
その瞬間、世界が少しだけ遠くなった。
工房の音が消え、代わりに知らない部屋が見えた。
淡い月明かり。
小さなベッド。
毛布の中で、幼いエマが笑っている。
ベッドのそばには、痩せた女性が座っていた。
女性はオルゴールのねじを巻く。
ゆっくりと、優しい曲が流れ始める。
途中で一つだけ、少し外れた音が鳴った。
幼いエマがくすくす笑う。
女性も笑った。
『また、変な音がした』
『この子の癖なのよ』
『直さないの?』
『直さなくてもいいの。少しくらい違う方が、うちの子らしいでしょう?』
女性の手が、オルゴールの蓋を撫でる。
温かな手だった。
場面が揺れる。
次に見えたのは、昼間の部屋だった。
女性は一人で机に向かい、小さな紙に何かを書いている。
何度も書き直し、最後に紙を小さく折り畳む。
そして、オルゴールの底を外し、その奥へ隠した。
そこで光景は途切れた。
リリィはゆっくりと手を離した。
胸の奥に、まだ温かな余韻が残っている。
物に触れると、ときどきこうして、その物に残された思いが見える。
いつから見えるようになったのか、リリィ自身にも分からない。
すべての記憶が見えるわけではない。
物が忘れたくないと願った、ごく短い瞬間だけ。
ナイトが小さく鳴いた。
「うん」
リリィはうなずいた。
「底に何かあるみたい」
オルゴールを裏返し、細い工具で底板を外す。
奥に、小さく折り畳まれた紙があった。
リリィはそれを開かなかった。
見えた記憶が正しいのなら、その手紙は自分が読むものではない。
紙を別の封筒へ入れ、大切に作業台の引き出しへしまった。
次に、内部の機械を調べる。
故障の原因はすぐに分かった。
音を鳴らすための金属板が一本、根元から折れていた。ほかの部品も錆びており、長い間無理をして動き続けていたらしい。
同じ部品は、もう作られていない型だった。
リリィは棚から古い部品帳を持ってきて、ページをめくった。
寸法の近いものはある。
けれど完全に同じ音にはならない。
折れた一本を新しく作れば、曲は鳴るようになる。
ただし、昔とまったく同じ音色には戻せない。
リリィは椅子に座ったまま、長いことオルゴールを見つめていた。
「同じじゃないと、だめかな」
ナイトは作業台へ飛び乗り、折れた金属板の横に座った。
「お父さんは、同じ音を聞かせたいんだと思う」
ナイトは動かなかった。
「でも、エマは聞きたくないって言った」
黒い尻尾が、静かに一度だけ机を叩く。
リリィは、記憶の中で聞いた言葉を思い出した。
少しくらい違う方が、うちの子らしいでしょう。
「そうだね」
リリィは工具を手に取った。
「同じに戻すんじゃなくて、この先も鳴れるように直そう」
それから三日間、リリィはオルゴールの修理を続けた。
錆びた歯車を磨き、軸を交換し、折れた金属板の代わりを一から削り出す。
新しい板は、元のものよりほんの少しだけ高い音がした。
旋律の途中に、ぽつんと違う音が混ざる。
リリィは何度も調整した。
けれど、どうしても完全には同じにならなかった。
夜も遅くなり、リリィは作業台に突っ伏して眠ってしまった。
工房のランプが、弱い炎で揺れている。
ナイトは椅子から飛び降りた。
しばらくリリィの顔を見つめたあと、音もなく床へ降りる。
揺れる灯りの向こうで、黒い影がゆっくりと伸びた。
次の瞬間、そこにいたのは黒猫ではなかった。
黒い髪と金色の瞳を持つ、一人の青年だった。
青年は壁に掛けてあった毛布を取り、リリィの肩にそっと掛ける。
それから、修理途中のオルゴールへ目を向けた。
ねじを巻き、蓋を開ける。
静かな旋律が工房に流れた。
途中で一つだけ、新しい音が鳴る。
青年は少しだけ目を細めた。
「悪くない」
誰にも聞こえない声でそう言うと、彼はオルゴールの蓋を閉じた。
朝になったとき、作業台の上には黒猫のナイトが丸くなっていた。
「また寝ちゃった」
リリィは肩の毛布に気づき、不思議そうに首を傾げた。
「これ、どこから持ってきたの?」
ナイトは大きくあくびをした。
「まあ、いいか」
修理が終わったのは、エマの誕生日の前日だった。
男性とエマが、再び工房を訪れた。
リリィはオルゴールを作業台へ置いた。
「動くようにはなりました」
男性の顔が明るくなる。
「ただ、壊れていた部品と同じものがなかったので、前とまったく同じ音ではありません」
「そうですか」
男性は少しだけ残念そうに見えた。
エマは黙って床を見ている。
「聞いてみますか?」
リリィが尋ねると、少女は首を横に振った。
「いらない」
父親が困ったようにリリィを見る。
リリィは無理に蓋を開けなかった。
代わりに、引き出しから封筒を取り出す。
「修理中に、底板の奥から見つかりました」
父親は封筒を受け取った。
中の紙を開く。
読み始めた途端、その手が小さく震えた。
エマが顔を上げる。
「なに?」
父親はすぐには答えられなかった。
やがて椅子にしゃがみ、娘と同じ高さになる。
「お母さんからだ」
エマの目が大きくなった。
父親は、震える声で手紙を読んだ。
『エマへ。
あなたが眠れない夜に、この歌がそばにありますように。
悲しい日は、泣いてもかまいません。
でも泣き終わったら、また明日の話を聞かせてください。
あなたがこれから見つけるものを、お母さんは全部知ることができないけれど、あなたが笑うたびに、このオルゴールもきっと嬉しくなるでしょう。
あなたの毎日に、たくさんの新しい歌がありますように』
工房の外を、蒸気馬車が通り過ぎた。
けれど誰も、その音を気にしなかった。
エマはしばらく何も言わなかった。
やがて父親から手紙を受け取り、自分でもう一度、ゆっくり読んだ。
「……鳴らして」
小さな声だった。
リリィはオルゴールのねじを巻いた。
蓋を開ける。
優しい旋律が流れ出す。
記憶の中で聞いたものと同じ曲。
けれど途中で一つだけ、新しい高い音が鳴った。
エマの肩が揺れた。
「違う」
父親が不安そうに娘を見る。
けれどエマは泣きながら笑っていた。
「前と、ちょっとだけ違う」
「ごめんなさい」
リリィが言うと、エマは首を振った。
「ううん」
少女はオルゴールにそっと触れた。
「この子、新しい歌を覚えたんだね」
リリィは少しだけ目を見開いた。
それから、ゆっくりとうなずいた。
「はい。たぶん」
帰り際、エマは床にいたナイトの前にしゃがみ、その頭を撫でた。
ナイトは嫌がらず、静かに目を閉じた。
「また壊れたら、ここに持ってきてもいい?」
エマが尋ねる。
リリィは少し考えてから答えた。
「壊れない方がいいけどね」
「でも、壊れたら?」
「そのときは、また直します」
エマは笑った。
父親と少女が工房を出ていく。
扉のベルが鳴り、二人の足音が石畳の向こうへ遠ざかっていった。
リリィは窓から、その背中を見送った。
エマはオルゴールの箱を両腕で大切そうに抱えている。
「思い出って、不思議だね」
リリィはナイトを抱き上げた。
「同じままじゃなくても、なくならないんだ」
ナイトは返事の代わりに、喉を鳴らした。
工房の奥では、修理を待つ時計が静かに時を刻んでいる。
棚には、欠けたカップ。
動かなくなった機械鳥。
どれにも、まだ誰かの思いが眠っている。
リリィはエプロンの袖をまくり直した。
「さて、次はどれを直そうか」
ナイトは腕の中から飛び降り、欠けたカップの前へ歩いていった。
ブラスヘイヴンの小さな修理店には、今日もまた、誰かの大切な時間が運ばれてくる。




