悪役令嬢人形譚〜病弱令嬢と眠らない人形〜
「悪役令嬢人形譚」シリーズの一作です。
今回は、病弱な侯爵令嬢オフィーリアと、幼い頃からずっとそばにいる「眠らない人形」のお話。
悪意ではなく、愛情から始まったものが、いつの間にか誰かを縛ってしまうことがあります。
家族を嫌いになる話ではなく、
愛されながらも、自分の人生を自分で選ぶことを覚えていく少女の物語です。
少し不思議で、けれど怪異だけでは終わらない人形譚をお楽しみいただけましたら幸いです。
悪役令嬢人形譚〜病弱令嬢と
オフィーリア・フォン・メルツェンは、息をするたびに胸の奥が焼けるように痛んだ。
熱は何日続いているのだろう。昼なのか夜なのかも、もうよく分からない。重たい瞼をどうにか持ち上げても、薄暗い天蓋と、寝台の脇に置かれた燭台の灯りが滲んで見えるだけだった。
喉がひどく乾いている。それなのに水を飲もうとすると咳き込み、胸が締めつけられる。浅く息を吸うたび、肺の奥から細い笛のような音がした。
「……お母、さま……」
声にしたつもりだったが、自分の耳にすら届かなかった。
誰かが額の布を取り替えている。別の誰かが医師を呼べと言っている。母の泣き声も、父の低い声も聞こえた気がしたが、それらはすぐに遠ざかっていった。
すべてが水の底の方から聞こえてくる音のようだった。
苦しい。
胸が苦しい。
頭も痛い。
身体中が熱いのに、指先だけが冷たい。
もう一度息を吸おうとして、できなかった。
その瞬間、オフィーリアはひどく怯えた。
まだ十三歳だった。
死ぬ、というものが何なのか、本当には分かっていなかった。それでも、このまま息ができなくなれば自分が消えてしまうのだということだけは、恐ろしいほどはっきり理解できた。
嫌だ。
死にたくない。
そう思ったのに、次の瞬間には、その恐怖さえ遠のいていった。
胸の痛みが消えた。
身体の重さもなくなった。
不思議なくらい、楽だった。
ああ。
楽だ。
そう思った途端だった。
見たことのないはずの天井が、頭の中に浮かんだ。
白い天井。
四角い照明。
その下で寝転がりながら、本を読んでいる自分。
けれど、その自分はオフィーリアではなかった。
もっと大人で、もっと健康で、茶色でも金色でもない見慣れた髪をしていた。
知らない街。
知らない言葉。
けれど、全部知っている。
電車。
学校。
図書館。
劇場。
本屋。
映画。
パソコン。
スマートフォン。
思い出す、というよりも、閉ざされていた扉が突然開いて、向こう側から大量の記憶が雪崩れ込んできたようだった。
前世。
その言葉まで、ごく自然に浮かんだ。
私は、一度死んでいる。
その理解に辿り着いた時、オフィーリアは熱に浮かされながら、ひどく場違いなことを考えた。
――転生なんて、本当にあるのね。
前世では、そういう物語を何冊も読んだ。
病弱な令嬢。
侯爵家。
美しい兄たち。
過保護な両親。
そして、自分は十三歳。
ここまで揃えば、物語なら何か起こりそうなものだけれど、今のところ起きているのは、ただ単に自分が死にかけているということだけだった。
――笑えないわ。
そう思ったところで、また息が苦しくなった。
遠くなっていた身体の感覚が、一気に戻ってくる。
胸が痛い。咳が出る。喉が焼ける。
それでも、先ほどまでとは何かが違っていた。
死にたくない、という気持ちが、はっきり形を持っている。
まだ何もしていない。
十三年間、ほとんど寝台の上で過ごしてきた。
庭へ出たいと言えば風に当たるのは身体に悪いと言われ、少し歩きたいと言えば転んだらどうするのと止められた。窓辺で本を読んでいれば目が疲れると取り上げられ、友人から手紙が来れば返事は明日にしなさいと言われる。
家族は優しかった。
誰もオフィーリアを嫌ってはいない。
むしろ、愛されすぎているくらいだった。
だからこそ、これまで疑問を持ったことがなかった。
自分は病弱なのだから仕方がないのだと、ずっと思っていた。
けれど。
――本当に、全部仕方がないことだったのかしら。
前世の記憶を取り戻した頭で考えると、少しだけ違和感があった。
医師は以前、体調のよい日には短い距離から歩く練習をした方がいいと言っていなかっただろうか。
母はそのあと、そんな無理をさせる必要はありません、と答えていた。
父も、それなら無理をしなくていい、と頷いた。
オフィーリア自身も、両親がそう言うなら、それが正しいのだと思った。
でも。
前世の自分は知っている。
ずっと寝ていれば、身体は弱る。
食べられなければ、もっと弱る。
そして何より、本人のためと言って、本人の意思を聞かずに何もかも決めることが、必ずしも優しさではないことも。
また咳が出た。
身体を丸めるだけの力もなく、オフィーリアは苦しさに涙を滲ませた。
その時、何かが小さく光った。
寝台の横。
枕元の小卓に座らされた人形だった。
濃いブルネットの髪。白いビスクの顔。淡い水色の硝子の瞳。少し開いた口から、小さな白い歯が覗いている。
子どもの頃から、ずっとそばにいた人形。
オフィーリアは、この人形に名前をつけたことがなかった。
名前をつけると、家族がそれを呼ぶようになる気がしたからだ。
この子は自分だけの友達でいてほしかった。
話しかけても返事をしない。
大きな声も出さない。
勝手に励ましたりしない。
今日は元気そうだから起きなさいとも、元気がないから寝ていなさいとも言わない。
ただ、そこにいる。
それが好きだった。
「……あなたは……静かで、いいわね……」
掠れた声で呟いた。
人形は当然、何も答えなかった。
淡い水色の瞳で、じっとこちらを見ているだけだ。
その目は、昔から閉じない。
横に寝かせても、傾けても、ずっと開いたままだった。
普通なら眠るはずの人形なのだと聞いたことはある。
けれど、オフィーリアが物心ついた頃には、もう目を閉じなくなっていた。
眠らない人形。
自分が眠っている時も、苦しんでいる時も、ずっと見ている人形。
「……死にたく、ないわ」
今度は、はっきり言った。
言葉にすると、不思議と少しだけ力が戻った。
「わたくし……まだ、何も……選んでいないもの……」
誰と友達になるかも。
何を学ぶかも。
どこへ行くかも。
何をしたいかも。
何ひとつ、自分で決めた覚えがなかった。
このまま死んだら、前世を思い出した意味すらない。
悔しい。
それは恐怖とは少し違う、初めて感じる種類の感情だった。
オフィーリアは目を閉じた。
眠らない人形の水色の瞳だけが、最後まで視界に残った。
次に目を覚ました時、窓の外は朝だった。
熱はまだあった。
身体は鉛のように重かった。
それでも、息はできた。
ゆっくり吸って、ゆっくり吐く。
痛い。
苦しい。
けれど、生きている。
枕元では母が椅子に座ったまま眠っていた。頬には涙の跡が残っている。
少し離れた長椅子では、父も眠っていた。
二人とも、本当に自分を心配していたのだろう。
そのことは分かる。
分かるからこそ、今まで何も言えなかった。
オフィーリアはしばらく二人を見つめ、それから小卓へ目を向けた。
人形はまだそこにいた。
淡い水色の瞳を開いたまま。
「……生きてる」
小さく呟く。
自分が、である。
声に気づいたのか、母が目を覚ました。
「オフィーリア!」
椅子が倒れそうな勢いで立ち上がり、母は娘の手を握った。
「よかった……! 本当に、よかった……! もう大丈夫よ。何も考えなくていいの。ずっと眠っていていいのよ。お母様が全部してあげるから」
以前なら、その言葉に安心しただろう。
優しい母。
自分のために何でもしてくれる母。
けれど今は、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
何も考えなくていい。
全部してあげる。
その言葉が、ひどく重く聞こえた。
オフィーリアは母の手の中で、自分の指をほんの少し動かした。
弱々しく、それでも確かに。
「お母様」
「なあに? お水? 先生を呼ぶ? 何でも言ってちょうだい」
オフィーリアは息を整えた。
今はまだ、長い話はできない。
だから、一つだけ。
「今度から……」
母が顔を近づける。
「ええ」
「わたくしのことを決める前に……わたくしにも、聞いてくださいませ」
母は、一瞬だけ意味が分からないという顔をした。
オフィーリアはそれ以上話す力を失い、ゆっくりと目を閉じた。
その横で、眠らない人形だけが、いつものように目を開けていた。
◯◯
熱が下がり、オフィーリアが少しずつ起き上がれるようになったのは、それから十日ほど後のことだった。
まだ長く座っていることはできず、食事も少量ずつしか取れない。けれど、少なくとも意識ははっきりしていたし、前世の記憶が夢ではなかったことも確認できた。
そして、記憶が戻ってからというもの、今までなら気にも留めなかったことが妙に引っかかるようになっていた。
朝、侍女がカーテンを開ける前に、母が今日は曇っているから窓は閉めたままにしておきなさいと言う。
昼、医師が体調のよい日は椅子に座る時間を少し延ばしてもいいでしょうと話すと、母がまだ早いのではありませんかと口を挟む。
夕方、父が新しい本を買ってきたと笑うが、それを読む時間については「疲れない程度に」と母が決める。
どれも、以前なら当たり前のことだった。
今は違う。
オフィーリアはひとつひとつに、妙な息苦しさを覚えていた。
家族は自分を大切にしている。
それは間違いない。
けれど、大切にすることと、何もかも代わりに決めることは同じなのだろうか。
そんなことを考えていたある午後、部屋の扉が勢いよく開いた。
「オフィーリア!」
聞き慣れた大声に、オフィーリアは反射的に眉を寄せた。
長兄のフェリクスだった。
赤みのある銅褐色の髪を乱し、いかにも元気そうな顔でこちらへやって来る。
「起きていて大丈夫なのか? 顔色はまだ悪いぞ」
「兄上の声で悪くなりそうですわ」
「何だ、口が戻ってきたな!」
そう言って笑う声がまた大きい。
オフィーリアは目を閉じた。
前世を思い出す前なら、これも兄なりの愛情だと思って我慢していただろう。
実際、そのつもりなのだ。
悪気はない。
だからこそ厄介だった。
「兄上、もう少し静かにしていただけませんか」
「おっと、悪い悪い」
フェリクスは声を落とした。
ただし、本人なりに。
通常の人間からすれば、まだ十分に大きい。
「そうだ。今日、学校で皆がお前のことを心配していたぞ。特にエドガーなんかは――」
その名前を聞いた瞬間、オフィーリアは少しだけ身体を強張らせた。
熱病に倒れる直前、兄が連れてきた友人。
あの日も、オフィーリアは体調が悪いから今日は休みたいと言った。
けれどフェリクスは「少し話すだけだから」と笑い、エドガーという少年を部屋へ連れてきた。
学校で風邪のような症状が流行っている、と誰かが話していた時期だった。
その数日後、オフィーリアは高熱を出した。
確証はない。
けれど、可能性は高い。
「兄上」
「ん?」
「エドガー様は、お元気ですの?」
「今はな。この前は熱を出して二、三日寝込んだらしいが」
やはり。
オフィーリアは目を伏せた。
フェリクスは気づかず話を続ける。
「まあ、若い男なんて寝れば治る。お前みたいに身体が弱いわけじゃないからな」
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
悪意がないことが分かっているからこそ、怒鳴る気にはなれなかった。
けれど、何も言わずに飲み込む気にもなれなかった。
「兄上」
「どうした?」
「わたくしは、あの日、誰にも会いたくないと申し上げました」
フェリクスの笑顔が止まった。
「……そうだったか?」
「ええ。頭が痛いので休みたいと」
「でも、エドガーなら気心も知れているし、少し話せば気も紛れるかと思って」
「わたくしは、気を紛らわせたいとは申し上げておりません」
部屋が静かになった。
オフィーリア自身も、こんな言い方を兄にしたのは初めてだった。
フェリクスは困ったように頭を掻いた。
「悪かった。そこまで嫌だったとは思わなかった」
「嫌だったのではなく、具合が悪かったのです」
「ああ……そうだな」
兄は珍しく素直に頷いた。
そのことに少し驚いた。
もっと「心配していたんだ」と返されるかと思っていたからだ。
けれど、そこで扉が控えめに叩かれた。
侍女が入ってきて、フェリクスへ手紙を差し出す。
「フェリクス様、こちらを」
「誰からだ?」
「クラリッサ様です」
フェリクスはあからさまに嫌そうな顔をした。
「またか」
オフィーリアはその反応を見逃さなかった。
クラリッサ。
兄の婚約者。
「何ですの?」
「いや、別に」
「婚約者の方からのお手紙でしょう?」
「ああ。今日会う約束だったんだが、お前の見舞いに来るから断った」
オフィーリアは、しばらく何も言えなかった。
「……今日?」
「そう。お前が倒れてからずっと心配だったしな」
「わたくし、兄上に今日来てほしいとは申し上げましたか?」
フェリクスが固まった。
「いや、でも――」
「婚約者との約束を断ってまで、毎日来てほしいとも?」
「それは……」
「わたくしのため、なのですか?」
声は小さかった。
責めるつもりはなかった。
本当に、分からなかったのだ。
自分の知らないところで、自分の名前が理由として使われている。
それが、ひどく不気味だった。
フェリクスはしばらく黙ったあと、少し気まずそうに手紙を見た。
「まあ……俺が来たかったんだ」
「では、そう仰ればよろしいではありませんか」
「何?」
「『妹が心配だから』ではなく、『自分が妹に会いたいから約束を断った』と」
フェリクスは目を丸くした。
オフィーリアは自分でも驚くほど冷静だった。
「わたくしを理由にしないでくださいませ」
その言葉は、兄だけに向けたものではなかった。
たぶん、家族全員に向けていた。
数日後、今度は次兄のマティアスが見舞いに来た。
彼はフェリクスとは違い、静かな人だった。
透けると金色に見える茶髪と、緑がかった榛色の瞳は、父とオフィーリアによく似ている。
「今日は少し顔色がいいね」
「ありがとうございます」
「無理はしないで」
「はい」
そこまでは穏やかだった。
けれど、彼が机の上に置いた革手袋を見た時、オフィーリアは違和感を覚えた。
外出用の正装。
しかも、まだ外の冷気が残っている。
「兄上は、どちらかへ行かれる途中でしたの?」
「いや、帰ってきたところだよ」
「どちらから?」
マティアスは一瞬だけ迷った。
「婚約者の家から」
「今日はお約束が?」
「……あった」
「ありましたのね」
「君の具合がまだ悪いと聞いたから、早めに切り上げてきた」
まただ。
オフィーリアは胸の奥が重くなるのを感じた。
「わたくしが頼みましたか?」
「何を?」
「早く帰ってきてほしいと」
「頼まれてはいないよ。でも家族なんだから」
「では、婚約者の方には何と?」
マティアスは黙った。
その沈黙で、十分だった。
「『妹の具合が悪いから』と仰ったのですね」
「……そうだよ」
オフィーリアはゆっくり息を吐いた。
前世の記憶がなければ、きっとここで「心配してくれてありがとう」と言っていた。
けれど今は、それができなかった。
「兄上」
「うん」
「わたくしは、お二人の婚約者の方々に嫌われているのではありませんか?」
マティアスの表情が変わった。
「そんなことはない」
「本当に?」
「少なくとも、君が悪いとは思っていないはずだ」
「でも、兄上たちは何度もわたくしを理由にしています」
「……」
「約束を断る理由にも、途中で帰る理由にも」
胸が少し苦しくなり、オフィーリアは一度言葉を切った。
それでも続けた。
「その方々から見れば、わたくしはいつも兄上方を呼びつけている、我儘な病弱令嬢に見えるのではありませんか?」
否定してほしかった。
すぐに。
けれどマティアスは答えなかった。
その沈黙は、何より正直だった。
その夜、オフィーリアは眠れなかった。
人形を枕元へ置き、淡い水色の瞳を見つめる。
兄たちのことだけではない。
もしかすると、自分が知らないことはもっとあるのではないか。
そんな不安が消えなかった。
翌日、侍女に頼んで机の引き出しを開けてもらった。
そこには、以前にもらった友人たちからの手紙が何通か入っていた。
どれも古い。
最後の日付は、三か月前だった。
「最近、お手紙は来ていないの?」
何気なく尋ねた。
侍女の手が止まった。
ほんの一瞬。
けれど、オフィーリアは見逃さなかった。
「どうしたの?」
「いえ……」
「来ているのね?」
侍女は青ざめた。
「お嬢様、それは……奥様から」
心臓が嫌な音を立てた。
「お母様から、何を言われているの?」
侍女は困り果てたように俯いた。
「お嬢様がお疲れにならないように、急ぎでないお手紙は一度奥様へお渡しするようにと」
「それで?」
「奥様が、お嬢様のご体調を見て……」
「渡すかどうかを決めているのね」
侍女は答えなかった。
答えなくても分かった。
「どのくらい前から?」
「……かなり以前からです」
オフィーリアは、しばらく動けなかった。
友人が少ないことを、自分の病気のせいだと思っていた。
学校へまともに通えない。
お茶会にも行けない。
人と会えば疲れる。
だから、仕方がないのだと。
でも。
「返事が来ないから、皆、書くのをやめたのね」
誰にともなく呟いた。
侍女が顔を上げる。
「お嬢様……」
「お母様を呼んでください」
その日の午後、母はいつものように優しい顔で部屋へ来た。
「どうしたの、オフィーリア。疲れていない?」
「お母様」
「なあに?」
「わたくし宛の手紙を、止めていらしたのですね」
母の顔が、ほんの少し強張った。
それだけで答えは分かった。
「止めていたわけではないのよ」
「では、何を?」
「あなたの身体に負担になりそうなものを、少し選んでいただけ」
「それを止めると言うのではありませんか?」
母は困ったように笑った。
「でもね、オフィーリア。あなたは小さい頃から身体が弱いでしょう? お友達から手紙が来れば返事を書かなくてはいけないと思うし、無理をしてしまうでしょう。だから、お母様が――」
「わたくしは、返事を書きたいかもしれません」
母が言葉を止めた。
「書きたくない日なら、書きません。疲れているなら、明日にします。でも、それを決めるのはわたくしではないのですか?」
「あなたのためなのよ」
その言葉だった。
兄も。
父も。
母も。
いつも同じことを言う。
あなたのため。
オフィーリアは枕元の人形を見た。
この人形だけは、一度も自分のために何かを決めなかった。
何も言わない。
何も奪わない。
ただ、そばにいる。
「お母様」
「ええ」
「わたくし、しばらくお祖父様とお祖母様のところで療養したいです」
母の顔から血の気が引いた。
「どうして?」
「静かなところで身体を治したいからです」
「ここでもできるわ。何でもしてあげる。もっと静かにするし、お兄様たちにも――」
「そうではありません」
オフィーリアは母をまっすぐ見た。
声を荒げる力など、まだない。
だからこそ、できるだけゆっくりと言った。
「わたくしは、自分で決める練習をしたいのです」
母の目に涙が浮かんだ。
その姿を見ると、胸が痛んだ。
母を傷つけたいわけではない。
嫌いでもない。
今でも愛している。
それでも。
「お母様のそばにいることと、お母様を愛していることは、同じではないと思うのです」
言ってしまった。
母は何も答えなかった。
その夜、オフィーリアは久しぶりに深く眠った。
数日後、祖父母の屋敷へ療養先を移すことが決まった。
逃げるわけではない。
医師とも相談した正式な療養先の変更だった。
馬車ならすぐに戻れる距離。
家族と縁を切るつもりもない。
ただ、少しだけ離れる。
出発の日、荷物の最後に人形を抱き上げた。
母が一瞬、何か言いたそうにした。
けれど、何も言わなかった。
オフィーリアは人形を膝に乗せ、馬車の窓から侯爵家を見上げた。
生まれてから十三年間、ほとんど出ることのなかった家。
恐ろしくないと言えば嘘になる。
けれど、胸の奥には、それ以上に不思議な感覚があった。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
自由になった気がした。
◯◯◯
祖父母の屋敷へ移ってから、オフィーリアの生活は少しずつ変わっていった。
最初の数日は、何かをするたびに「本当に大丈夫なのかしら」と自分で自分を疑った。長く寝台の上で過ごしてきたせいで、立ち上がるだけでも脚が頼りなく、ほんの少し廊下を歩いただけで息が上がった。
けれど、祖母のベルタはそこで大騒ぎをしなかった。
「疲れたなら休みなさい。明日はもう少し短くすればいいわ」
それだけだった。
祖父のエルマーに至っては、オフィーリアが庭へ出たいと言えば、「では上着を持っていきなさい」と答えただけだった。
風が強ければ戻る。
寒ければ早めに切り上げる。
歩けない日は歩かない。
誰かが勝手に「今日は元気だからこれくらい」「今日は危ないから何もしてはいけない」と決めるのではなく、オフィーリア自身が身体の具合を確かめながら決める。
それは、思っていた以上に難しかった。
けれど同時に、思っていた以上に楽しかった。
新しく紹介された医師も、母とはずいぶん違った。
「お嬢様は確かにお身体が弱いです」
最初の診察で、医師はそうはっきり言った。
オフィーリアは少し緊張した。やはり、自分は何もできないのだろうか。
だが、医師は続けた。
「ですが、弱いからといって、動かさない方がよいとは限りません。むしろ長く寝ていたことで、さらに体力が落ちています。呼吸器も弱い。食事も足りていない。まずは少しずつ身体を起こしていきましょう」
「歩いても、よろしいのですか?」
「もちろんです。ただし、頑張りすぎないこと。倒れるまで歩く、という意味ではありませんよ」
念を押され、オフィーリアは思わず笑った。
そんなことを言われたのは初めてだった。
歩いてもいい。
その事実だけで、妙に胸が軽くなった。
朝は庭を少し歩く。
昼は本を読む。
疲れたら眠る。
夕方に余裕があれば、祖母とお茶を飲む。
それだけの生活だった。
けれど、侯爵家にいた頃より、自分の一日が自分のものになった気がした。
手紙も届くようになった。
最初は少なかった。
当然だった。何か月も返事のなかった相手に、いつまでも手紙を書き続ける者はいない。
それでも、オフィーリアは過去にもらった手紙を一つずつ読み返し、返事を書いた。
遅くなったこと。
自分のもとへ届いていなかったこと。
返事をしたくなかったわけではないこと。
すべて正直に書いた。
兄たちの婚約者にも手紙を送った。
自分は兄たちを呼びつけたことはない。
婚約者との約束を破ってまで来てほしいと頼んだこともない。
自分の名前が理由に使われていたことを、つい最近まで知らなかった。
そして、知らなかったとはいえ、自分の存在が二人を傷つける理由のように使われていたことを申し訳なく思っている、と。
返事はすぐには来なかった。
オフィーリアは待った。
以前なら、待つことも不安だっただろう。
今は、返事を書くかどうかも相手が決めることなのだと分かっていた。
そんなある日の午後、祖母がオフィーリアの部屋へやって来た。
窓辺の椅子に座っていたオフィーリアの膝には、いつもの人形がいた。
ベルタはその姿を見ると、懐かしそうに目を細めた。
「まだ大事にしてくれているのね」
オフィーリアは人形を見下ろした。
「もちろんですわ」
「あなたが三つの頃だったかしら。あまり外へ出られないから、せめて部屋の中で友達になってくれればと思って贈ったのよ」
オフィーリアは少し驚いて顔を上げた。
「この子、お祖母様からいただいたのですか?」
「覚えていないでしょうね。まだ小さかったもの」
ベルタは笑った。
「あなたのお母様は、もっと柔らかい布人形の方がいいのではないかと言っていたけれど、私はこの子が気に入ってしまってね。目の色が綺麗だったでしょう?」
オフィーリアは淡い水色の瞳を見つめた。
幼い頃から、ずっとそばにいた人形。
誰からもらったのかなど、考えたこともなかった。
「お祖母様が選んでくださったのですね」
「ええ。少し大人びた顔をしていたけれど、あなたならきっと大事にすると思ったの」
ベルタは人形を受け取り、何気なく横へ傾けた。
その瞬間、眉を寄せた。
「……あら?」
「どうなさいました?」
「この子、目を閉じないのね」
オフィーリアは首を傾げた。
「ずっとそうですわ」
「ずっと?」
「わたくしが覚えている限りでは」
ベルタの表情が変わった。
「おかしいわね」
「おかしい?」
「この人形、横にすると目を閉じるものだったはずよ」
オフィーリアは目を瞬いた。
「本当に?」
「ええ。贈る前に何度も見たもの。立てれば目を開けて、寝かせれば閉じる。その仕掛けが面白くて選んだのよ」
オフィーリアは人形を受け取り、ゆっくり横にしてみた。
淡い水色の瞳は、いつものように開いたままだった。
「では、壊れているのですね」
「そういうことになるわね」
そう言われて、オフィーリアは少し妙な気持ちになった。
壊れている。
たしかに、その通りなのだろう。
けれど、これまでオフィーリアは、この人形を「壊れている」と思ったことがなかった。
目を閉じない。
ただ、それがこの子なのだと思っていた。
「直してみる?」
祖母にそう聞かれ、オフィーリアはすぐには答えなかった。
直せば、今までの人形ではなくなってしまう気がした。
けれど同時に、もし本来の姿に戻せるのなら、戻してやりたいとも思った。
少し考えてから、頷いた。
「お願いします」
ベルタは、昔その人形を扱っていた店と付き合いのある人形師を呼んでくれた。
やって来たのは年配の女性だった。
人形を受け取ると、顔を近づけてじっくり見つめ、頭部を軽く傾ける。
「スリープアイですね」
「やはり?」
「ええ。目そのものが壊れているというより、動くはずの機構がどこかで止まっているようです」
人形師はウィッグを外し、その下のペイトを慎重に取り外した。
オフィーリアは興味深く見守った。
人形の頭の中を見るのは初めてだった。
空洞の中には、硝子の瞳を動かすための小さな仕掛けがある。
人形師は細い道具を使いながら、しばらく無言で調べていた。
やがて、「あら」と小さく声を上げた。
「何かありましたか?」
「これですね」
細いピンセットの先に、小さな欠片が挟まれていた。
乾いて脆くなった素材の破片。
「ペイトの一部です」
「それが?」
「中へ落ち込んで、目の可動部に噛んでいます。これでは動きません」
オフィーリアは思わず人形の顔を見た。
「では、目そのものが壊れていたわけではないのですか?」
「そうですね。これを取り除いて調整すれば、たぶん動きます」
人形師は慎重に破片を取り除いた。
そして人形を少し傾ける。
今まで一度も動かなかった瞼が、ほんの少し下がった。
オフィーリアは息を呑んだ。
「動いた……」
横にいたベルタも驚いたように目を細める。
「本当に、昔のようね」
けれど、まだ滑らかではなかった。
「長年このままでしたから、少し調整が必要ですね。それと」
人形師は人形の身体を指で確認した。
「胴体もかなり傷んでいます。布が薄くなっていますし、詰め物も偏っています」
「直せますか?」
「もちろんです。ただ、少し開けることになります」
オフィーリアは人形を見た。
顔と手足は白いビスク。
胴だけは柔らかな布でできている。
病気で眠れない夜には、何度も胸に抱いた。
それだけに、身体のあちこちが擦れ、布もくたびれている。
「お願いします」
数日後、人形師から連絡が来た。
「少し見ていただきたいものがあります」
オフィーリアとベルタは、人形師が作業をしている部屋へ向かった。
机の上には、胴体を開かれた人形が横たわっていた。
古い布の一部はすでに取り除かれ、新しい布が用意されている。
その横に、小さなものがいくつも並べられていた。
折り畳まれた紙。
糸で結ばれた小さな布袋。
乾燥した香草のようなもの。
薄い金属片に印を刻んだ護符。
オフィーリアは足を止めた。
「これは……?」
人形師が困ったように言った。
「人形のお腹の中から出てきました」
ベルタの顔から笑みが消えた。
「私が贈った時には、こんなものは入っていなかったわ」
その言葉に、オフィーリアは祖母を見た。
「間違いありませんか?」
「ええ。贈る前に店で中身まで確認したわけではないけれど、少なくともこういう祈願を仕込んで贈った覚えはないわ。それに、この布の縫い方は後から一度開けた跡でしょう?」
人形師が頷いた。
「そうですね。古い補修跡があります。かなり昔に、一度だけ胴を開いたようです」
誰かが、贈られた後で入れた。
オフィーリアは折り畳まれた紙の一つを手に取った。
古びて黄ばんでいる。
丁寧に開くと、女性らしい筆跡が残っていた。
『この子が元気になりますように』
オフィーリアの指が止まった。
別の紙を開く。
『病に苦しみませんように』
さらにもう一つ。
『丈夫な身体になりますように』
どれも、祈りだった。
呪いではない。
悪意のある言葉もない。
ただ、病弱な子どもの健康を願う言葉ばかりだった。
そして最後に、小さく折られた紙が一枚残っていた。
なぜか、それだけは開く前から胸がざわついた。
オフィーリアはゆっくり広げた。
『いつまでも私のそばにいてくれますように』
しばらく、誰も何も言わなかった。
ベルタが紙を覗き込み、眉を寄せる。
「この字……」
オフィーリアにも分かった。
見慣れた筆跡だった。
誕生日のカード。
本に添えられた短い言葉。
体調を気遣う置き手紙。
母の字だった。
「お母様です」
声が、自分でも驚くほど静かだった。
オフィーリアは並べられた紙を見つめた。
元気になりますように。
病に苦しみませんように。
丈夫になりますように。
そして。
私のそばにいてくれますように。
祈りの言葉だけを見れば、どれも不思議ではない。
病弱な子どもを持つ母なら、誰だって願うかもしれない。
けれど、最後の一文だけが、どうしても胸に引っかかった。
元気になってほしい。
でも、そばにいてほしい。
もし元気になれば、自分で歩く。
学校へ行く。
友達を作る。
いつか家を出る。
それは、「そばにいてほしい」という願いとは、少しだけ矛盾している。
オフィーリアは、急に寒くなったような気がした。
「お祖母様」
「なあに」
「これを、お母様に見せてもいいでしょうか」
ベルタは少し考えたあと、頷いた。
「その方がいいでしょうね。私も、どうしてこうなったのか知りたいわ」
数日後、マルグリットが祖父母の屋敷を訪れた。
オフィーリアは応接室で母と向き合った。
机の上には、人形から出てきた祈願の紙と護符が並べられている。
母はそれを見た瞬間、顔色を変えた。
「これ……」
「お母様が入れたのですね」
マルグリットはしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくり頷く。
「ええ」
ベルタが静かに尋ねた。
「私が贈った後に?」
「はい、お母様」
マルグリットは視線を落とした。
「オフィーリアがまだ幼かった頃です」
「どうして?」
オフィーリアが尋ねると、母は祈願の紙をそっと指で撫でた。
「あなたが小さかった頃、こういうお守りが流行っていたのよ。病気の子どもの枕元に置いたり、服の内側へ縫い込んだり、人形の中へ入れたり。神殿で祈願してもらった紙もあるわ」
オフィーリアは護符を見る。
確かに、どれも奇怪というほどのものではなかった。
母は続けた。
「お母様からこの人形をいただいたでしょう? あなたはとても気に入って、眠る時も離さなかった。だから、この子に入れておけば、ずっとあなたのそばで守ってくれるような気がしたの」
ベルタは何も言わなかった。
マルグリットの声が少し震えた。
「少しでも元気になってほしかったの。あなたは本当に身体が弱くて……夜中に息ができなくなったことも何度もあったから」
それは嘘ではない。
母は本当に、怖かったのだ。
「では、人形の目が閉じなくなったのも……?」
マルグリットは目を伏せた。
「たぶん、私のせい」
「どういうことですか?」
「あなたが眠っている間に、お守りを入れていたの。布の縫い目を少し開いて、詰め物の奥へ隠して……縫い直そうとしていた時に、あなたが突然目を覚ましたのよ」
母は小さく苦笑した。
「びっくりして、人形を落としてしまったわ」
オフィーリアは、人形師が取り出したペイトの破片を思い出した。
「その時に、ペイトが傷んだのですね」
「おそらく」
ベルタも静かに頷いた。
「贈った時にはちゃんと目を閉じていたもの。時期も合うわね」
落とした拍子に劣化していたペイトが傷み、その破片がやがて頭部の内側へ落ち込み、スリープアイの機構に噛んだ。
それだけ。
呪いではない。
怪異でもない。
ひどく現実的な理由だった。
オフィーリアは少しだけ息を吐いた。
けれど、まだ聞かなければならないことが残っている。
最後の紙を母の前へ置いた。
『いつまでも私のそばにいてくれますように』
マルグリットの顔から、表情が消えた。
「これは?」
母はすぐには答えなかった。
オフィーリアは急かさなかった。
長い沈黙のあと、マルグリットは小さく言った。
「そのままの意味よ」
「わたくしが元気になっても?」
母の唇が震えた。
「元気になってほしかったわ」
「でも、そばにもいてほしかった」
「……ええ」
そこまで聞いて、オフィーリアはようやく理解した。
母は自分を病気にしたかったわけではない。
弱いままでいてほしいと願ったわけでもない。
本当に元気になってほしかった。
それでも同時に、自分のそばから離れてほしくなかった。
二つの願いが、母の中では矛盾せずに並んでいた。
それが、ずっとオフィーリアを囲っていたのだ。
「お母様」
「なに?」
「わたくし、このお守りを捨てようとは思いません」
母が顔を上げた。
「どれも、わたくしを心配してくださったものですもの」
「オフィーリア……」
「でも」
オフィーリアは最後の紙に指を置いた。
「これは、もう叶えなくていいと思います」
母の目から涙が落ちた。
オフィーリアはそれを見ても、言葉を取り消さなかった。
「わたくしは、お母様のそばにいるために元気になるのではありません」
母は泣いた。
声を上げず、ただ涙を流した。
オフィーリアも少しだけ泣いた。
母が嫌いだからではない。
むしろ、愛しているから苦しかった。
数日後、人形師の手入れを終えた人形が戻ってきた。
布製の胴体は丁寧に補修され、詰め物も整えられている。
ブルネットの髪もきれいに梳かされ、白いビスクの顔も以前より明るく見えた。
ベルタは人形を受け取ると、懐かしそうに笑った。
「やっと、私が贈った頃の姿に戻ったわね」
そして、そっと人形を横にした。
淡い水色の瞳が、ゆっくりと閉じる。
オフィーリアは息を呑んだ。
初めて見た。
この子が眠るところを。
けれどベルタにとっては違う。
昔、一度は見た姿だった。
「ほら。こうだったのよ」
祖母の声は優しかった。
オフィーリアは眠った人形をしばらく見つめ、それからそっと抱き上げた。
身体を起こすと、瞼が開く。
また、水色の瞳がこちらを見る。
「お帰りなさい」
オフィーリアは小さく笑った。
この人形は、祖母が自分へ贈ってくれたものだった。
母の願いを腹の中に抱え、長いあいだ目を閉じられず、それでもずっとオフィーリアのそばにいた。
何も言わず。
何も決めず。
ただ一緒に。
昔と同じ友達だった。
けれど、もう「眠らない人形」ではなかった。
そして自分も、いつまでも寝台の上にいるだけの病弱令嬢ではなくなる。
そう思うと、窓の外の庭が少しだけ近く見えた。
◯◯◯◯
人形が戻ってきた頃には、オフィーリアの体調も目に見えて安定し始めていた。
もちろん、急に丈夫になったわけではない。朝から庭を歩けば昼には眠くなるし、冷たい空気を吸い込めば咳が出ることもある。季節の変わり目には胸が苦しくなり、医師から外出を止められる日もあった。
それでも以前とは違った。
できないことばかりを数えるのではなく、今日はどこまでならできるかを考えるようになったのだ。
祖父母の屋敷へ移ってから診てもらっている医師は、オフィーリアの身体を「病弱だから仕方がない」の一言で片づけなかった。幼い頃から呼吸器が弱かったことに加え、食が細く栄養が足りていなかったこと、長く寝かされ続けたことで筋力が落ちていたこと、そのすべてが重なって現在の虚弱さにつながっているのだと説明した。
「つまり、わたくしは本当に身体が弱いけれど、弱いからといって何もしてはいけないわけではないのですね」
オフィーリアが確認すると、医師は頷いた。
「その通りです。無理をしないことと、何もしないことは別です」
その言葉を、オフィーリアは気に入った。
以前の自分には、その二つの区別がなかった。
家族にとっても、きっとそうだったのだろう。
少しでも危険があるなら、やらせない。
少しでも疲れるなら、休ませる。
少しでも傷つくかもしれないなら、人から遠ざける。
結果として、オフィーリアは傷つかなかった代わりに、何も選べなくなっていた。
人形の腹から出てきた祈願の紙は、きれいに伸ばして箱へしまった。
捨てるつもりはなかった。
母の願いそのものを否定したいわけではない。
ただ、最後の一枚――『いつまでも私のそばにいてくれますように』だけは、以前とは違う意味で読むようになった。
願いは、人を縛ることがある。
たとえ、それが愛から生まれたものであっても。
そんな頃、兄たちの婚約者から返事が届いた。
最初に届いたのは、フェリクスの婚約者、クラリッサ・フォン・ホルツァーからだった。
封を切る前に、オフィーリアは少し緊張した。
怒っているかもしれない。
自分を嫌っているかもしれない。
手紙を書くことで、かえって相手を不快にさせた可能性もある。
それでも、これは自分で選んでしたことだった。
だから、受け止めるしかない。
便箋を開く。
文章は簡潔だった。
オフィーリアを責める言葉はなかった。
むしろ、事情を知らせてくれたことへの礼が書かれていた。
ただし、その後に続く内容は甘くなかった。
婚約者であるフェリクスとの関係については、すでに何度も話し合ったこと。
約束を破るたびに「妹が病弱だから仕方がない」と言われれば、それ以上責めることができなかったこと。
けれど、本当に問題だったのは妹ではなく、フェリクス自身が自分との約束を軽く考えていたことではないかと気づいたこと。
そして、婚約を続けるかどうかを改めて考えたいこと。
オフィーリアは最後まで読み、ゆっくり便箋を畳んだ。
悲しいとは思った。
自分が原因ではないと分かっていても、兄の婚約が壊れるかもしれないことを喜ぶ気にはなれない。
けれど、以前のように「わたくしのせいで」とすべてを背負い込もうとも思わなかった。
これは兄とクラリッサの問題だ。
自分にできるのは、真実を伝えるところまで。
その先を決めるのは二人だった。
数日後には、マティアスの婚約者、イゾルデ・フォン・レンバッハからも返事が届いた。
こちらは少し長かった。
イゾルデは、オフィーリアが兄を呼びつけているとは思っていなかったらしい。ただ、マティアスが何かにつけて妹を理由にするため、本人がどこまで望んでいるのか分からなかったのだと書かれていた。
そして最後に、一人の医師の名前が添えられていた。
『私どもの領地で長く診療をしている方です。呼吸器の弱い方や、長く寝込んで体力を落とした方も多く診ています。もし今の先生が相談相手を必要とされるなら、お繋ぎできます』
オフィーリアは何度もその一文を読んだ。
自分は兄たちの婚約者に、嫌われているのだと思っていた。
病弱で、兄たちを振り回す厄介な妹。
そう思われていても仕方がないと。
けれど実際には、少なくとも一人は、自分の身体を気遣う情報を返してくれた。
「……わたくし、随分勝手に決めつけていたのね」
誰にともなく呟く。
嫌われているに違いない。
迷惑に思われているに違いない。
それもまた、本人に聞かずに決めつけることだった。
オフィーリアは紹介された医師について今の主治医へ相談した。
主治医は不機嫌になるどころか、むしろ興味を示した。
「一度意見を聞いてみるのは良いでしょう。私とは違う経験を持っているかもしれません」
その反応にも、オフィーリアは驚いた。
専門家というものは、自分の判断に口を挟まれることを嫌うものだと思っていたからだ。
前世でも、今世でも、人はもっと自分の正しさにしがみつくものだと思っていた。
けれど、そうではない人もいる。
そのことが、最近少しずつ分かってきた。
二人の医師は何度か意見を交わし、オフィーリアの生活を改めて組み立てた。
食事を少量ずつ回数を分けて取ること。
呼吸が苦しくならない範囲で歩くこと。
外へ出られない日は、室内で軽く身体を動かすこと。
疲れたら休むこと。
そして、体調の悪い日に無理をしたからといって、翌日まで自分を責めないこと。
「最後のものも治療ですか?」
オフィーリアが尋ねると、医師は笑った。
「あなたは少し真面目すぎますから」
それから半年ほど経つ頃には、オフィーリアは屋敷の庭を一周できるようになっていた。
以前なら馬車で移動させられていた距離を、自分の足で歩ける。
歩き終えた日は疲れて昼寝をした。
それでもよかった。
起きた時、自分が何かを成し遂げたような気分になった。
家族との関係も、少しずつ変わり始めていた。
フェリクスは、以前ほど頻繁には来なくなった。
最初は母に止められているのかと思ったが、違った。
ある日やって来た兄は、庭の椅子に座るなり、珍しく静かな声で言った。
「クラリッサとの婚約は解消になった」
オフィーリアは何も言わず、兄の顔を見た。
フェリクスは笑おうとして、うまく笑えなかった。
「俺は、あいつならずっと待っていてくれると思ってたんだろうな」
「……兄上」
「お前が病弱だから仕方ないって言えば、何でも仕方なくなると思ってた」
オフィーリアは視線を落とした。
「申し訳ありません」
「何でお前が謝る」
「でも」
「違う」
フェリクスははっきり言った。
「これは俺の失敗だ」
その言葉を聞くまで、オフィーリアはどこかで兄を心配していた。
自分を責めるのではないか。
クラリッサを責めるのではないか。
あるいは、「妹のせいで」と言われるのではないか。
けれど、兄はそうしなかった。
「好きじゃなかったわけじゃないんだ。ただ……婚約者っていうのは、そこにいて当然だと思ってたんだろうな」
「お辛いですか」
「そりゃな」
フェリクスは少し笑った。
「でも、剣の稽古はあるしな。考えてても仕方がない」
いかにも兄らしい答えだった。
オフィーリアも少し笑った。
「今度は、誰かとの約束を破る時に、わたくしを理由になさらないでくださいませ」
「分かってる」
「本当に?」
「……努力する」
「そこは断言してください」
二人は久しぶりに、普通の兄妹のように笑った。
一方、マティアスはイゾルデとの関係を立て直していた。
彼は何度もレンバッハ家へ足を運び、自分が妹を理由に逃げていたことを認めたらしい。
やがて婚儀を予定より早めることが決まり、結婚後はイゾルデの家へ婿入りすることになった。
「随分早くなりましたのね」
オフィーリアが言うと、マティアスは苦笑した。
「イゾルデから言われたんだ。結婚する気があるなら、いつまでも実家の都合を言い訳にしていないで、こちらへ来て一緒に仕事を覚えろって」
「とても正しいことを仰いますわ」
「君までそう言うのか」
「ええ」
マティアスは肩を落とした。
けれど、その顔はどこか晴れやかだった。
自分の家を離れることを怖がっているようには見えなかった。
「領地経営なんて、まだ何も分からないんだけどね」
「イゾルデ様も、すべてお一人でできるわけではないのでしょう?」
「そうらしい」
「では、お二人で覚えればよろしいではありませんか」
以前のオフィーリアなら、そんなことを言えただろうか。
誰かが自分より優れていること。
自分にできないことがあること。
二人とも分からないなら一緒に学べばいいこと。
今では、それが当たり前に思えた。
兄たちがそれぞれ自分の道を選び始めた頃、父も祖父母の屋敷へ一人でやって来た。
グレゴールは以前より少し老けて見えた。
髪に白いものが増えたせいだけではない。
応接室で向かい合うと、父は長く黙っていた。
「お母様は?」
オフィーリアが尋ねる。
「今日は来ていない」
「そうですか」
「少し、話し合っている」
その言い方が妙だった。
オフィーリアは首を傾げる。
父は手を組み、しばらくそれを見つめてから言った。
「お前が家を出てから、お前の母親はずいぶん塞ぎ込んだ」
「……はい」
「最初は、連れ戻した方がいいと思っていた」
予想していた言葉だった。
だから、驚かなかった。
「でも、お前の祖父に言われた」
「お祖父様に?」
父は苦い顔をした。
「『娘が家を出て初めて妻の顔を見るような男が、父親面をするな』とな」
オフィーリアは思わず口元を押さえた。
エルマーなら言いそうだった。
穏やかな祖父ほど、本気で怒った時には容赦がない。
「私は、お前の母親が、お前を大切にしていると思っていた」
「大切にはしてくださっていました」
「ああ。今でもそう思う」
父は頷いた。
「だから、何も問題はないと思っていた。あれほど娘を可愛がる母親なら、任せておけば間違いないと」
オフィーリアは黙って聞いた。
「だが、それは任せていたんじゃない。私は、面倒なことを全部任せきっていただけだった」
父の声には、自分を正当化する響きがなかった。
「お前が何を食べたいのか、誰と文通しているのか、何を勉強したいのか、私はほとんど知らなかった」
その言葉に、オフィーリアは少し胸が痛んだ。
本当にそうだった。
父は優しかった。
本を買ってくれた。
贈り物もくれた。
体調を心配してくれた。
でも、オフィーリアがどんな本を好んでいるのか、たぶん知らなかった。
「今、お母様とは?」
「夫婦で話している」
父は少し困ったように笑った。
「二十年以上夫婦をやっていて、今さらな」
「今さらでも、話さないよりはよろしいのでは?」
「お前は随分大人びたな」
「十三歳です」
「前よりは、だ」
オフィーリアは少し笑った。
「お父様」
「何だ」
「お母様を責めないでくださいませ」
父が目を上げた。
「わたくしも、お母様だけが悪いとは思っておりません」
「……分かっている」
「兄上方もです」
「分かっている」
「もちろん、わたくしも」
父は少し驚いた顔をした。
「わたくしも、何も言わなかったのですから」
嫌なら嫌と言う。
静かにしてほしいなら静かにしてほしいと言う。
自分の手紙を自分で読みたいと言う。
歩きたいと言う。
それができなかった。
もちろん十三歳の子どもにすべての責任があるわけではない。
けれど、これからも同じでいる必要はない。
「だから、誰か一人を悪者にして終わりにはしたくありません」
父はしばらくオフィーリアを見ていた。
やがて、小さく頷いた。
「そうだな」
それから一年、二年と時間が過ぎた。
オフィーリアは少しずつ学園へ通えるようになった。
最初は週に数日。
体調が悪い日は休む。
長時間の行事には参加しない。
それでも、机に座って授業を受けることが嬉しかった。
特に好きだったのは文学だった。
物語は昔から好きだったが、ただ読むだけではなく、いつ、どこで、どんな人々が、なぜその物語を書いたのかを知ることが面白かった。
同じ恋物語でも、百年前と今では結婚の意味が違う。
同じ英雄譚でも、国が違えば称えられる人物が違う。
昔は「ただの昔話」だと思っていた戯曲が、当時の政治や宗教を知るとまったく違って見える。
その面白さに夢中になった。
身体が疲れるまで庭を歩くことはできなくても、本なら遠い国へ行けた。
そして以前とは違い、本を読む時間を誰かに決められることもなかった。
やがて学園を卒業し、さらに上の課程へ進んだ。
文学史を専攻した。
学部だけで終えるつもりだったのに、調べれば調べるほど面白くなり、気づけば大学院にあたる上級課程まで通っていた。
ベルタはそれを笑った。
「昔は本を読みすぎると疲れると言われていた子が、今では本を読むのが仕事になりそうね」
「本当に」
オフィーリアも笑った。
その頃には、人形の目もすっかり滑らかに動くようになっていた。
夜、人形を横にすると、水色の瞳が静かに閉じる。
朝、起こすとまた開く。
それを見るたび、オフィーリアは少しだけ安心した。
眠ることは、閉じ込められることではない。
休むことは、何もできないという意味でもない。
自分で眠る。
自分で起きる。
たったそれだけのことが、以前よりずっと大切に思えた。
そして、オフィーリアが十七歳になった春。
メルツェン侯爵家から、一通の手紙が届いた。
差出人は父だった。
そこには、母が懐妊したと書かれていた。
オフィーリアは何度も読み返した。
驚きの方が大きかった。
父と母の年齢を考えれば、もう子どもが増えるとは思っていなかったからだ。
ベルタに知らせると、祖母も目を丸くした。
「まあ」
それだけ言って、しばらく黙った。
やがて、少し笑う。
「そう」
その笑みを見て、オフィーリアもようやく実感した。
母に新しい依存先ができた。
そういうことではない。
少なくとも、そうであってほしくはない。
後に母から届いた手紙には、以前とは少し違う言葉が書かれていた。
『今度は、この子が何をしたいのか、きちんと聞ける母親になりたいと思っています』
オフィーリアはその一文を読んで、長いこと動けなかった。
やがて生まれたのは、男の子だった。
ニルスと名付けられた末弟は、母の淡い蜂蜜色の髪と、父の緑がかった榛色の瞳を受け継いでいた。
長兄フェリクスは騎士として家を出る準備を進め、次兄マティアスはすでに婿入りしている。
だから将来は、ニルスが侯爵家を継ぐことになる。
それでいい、とオフィーリアは思った。
誰かが家に残るために、誰かが自分の人生を諦める必要はない。
フェリクスはその後、騎士として功績を上げ、騎士爵を授かった。
近衛兵へ取り立てられ、侯爵家から正式に独立した。
そして数年後、同じ騎士として働く女性と結婚した。
その知らせを聞いた時、オフィーリアは少し笑った。
「兄上らしいですわね」
相手は、兄が守ってやらなければならない女性ではなかった。
同じように剣を持ち、同じように働き、意見が違えば遠慮なく言い返す人だった。
たぶん、兄にはその方がいい。
マティアスも、イゾルデと共に領地経営を学びながら、忙しく暮らしているらしい。
たまに届く手紙には、税の計算が合わないとか、収穫量の予測を外したとか、イゾルデに叱られたとか、そんな話ばかりが書かれている。
それでも楽しそうだった。
父母も、以前より穏やかになったようだった。
もちろん、何もかもが綺麗に解決したわけではない。
母は今でもオフィーリアの体調を気にする。
父も時々、必要以上に心配する。
フェリクスなど、妹が少し咳をしただけで医師を呼ぼうとする。
人間は、そう簡単には変わらない。
けれど、オフィーリアも以前のようには黙っていなかった。
「大丈夫です」
「今日は休みます」
「それは自分で決めます」
「手伝ってほしい時にはお願いします」
その言葉を、何度でも言った。
家族も、少しずつ聞くことを覚えていった。
愛しているからこそ、離れることがある。
心配しているからこそ、任せることもある。
何も言わずに先回りすることだけが、優しさではない。
それを家族全員が理解するまでには、何年もかかった。
それでも、時間をかければ変わるものもある。
十八歳になったオフィーリアは、祖父母から一つの贈り物をもらった。
クラウゼン家が所有していた、小さな屋敷だった。
侯爵家のような大邸宅ではない。
けれど、一人で暮らすには十分広く、書斎もある。
庭もある。
何より、静かだった。
敷地の端には、通いの使用人たちが暮らすための小さな家がいくつか建っていた。
昼間は料理人や家政婦が母屋へ来る。
庭師もいる。
夜に体調を崩した時には、呼べばすぐ誰かが来てくれる。
けれど、用がなければ誰も勝手には入ってこない。
オフィーリアが寝ていれば、起こさない。
手紙が届けば、そのまま本人へ渡す。
誰かが訪ねてくれば、会うかどうかをオフィーリアに聞く。
当たり前のことばかりだった。
けれど、その当たり前が、オフィーリアには何より贅沢だった。
初めてその屋敷で一人の夜を過ごした時、彼女は寝台の脇に人形を置いた。
窓から月の光が差し込んでいる。
静かだった。
誰も、眠りなさいと言わない。
誰も、まだ起きているのかと覗き込まない。
自分で灯りを消す。
自分で眠る。
朝になれば、自分で起きる。
オフィーリアは人形を横にした。
淡い水色の瞳が、静かに閉じる。
「おやすみなさい」
そう言ってから、彼女は少し笑った。
十三歳の時には、こんな夜が来るとは思わなかった。
家族を捨てたわけではない。
家族に捨てられたわけでもない。
ただ、自分の家で、自分の人生を暮らすようになっただけだ。
それで十分だった。
◯◯◯◯◯
二十歳になったオフィーリアは、王宮書庫で働いていた。
十三歳の頃、寝台から起き上がるだけで息を切らしていた自分を思えば、ずいぶん遠くまで来たものだと、ときどき不思議な気持ちになる。
もちろん、今でも体調の悪い日はある。
季節の変わり目には咳が出るし、無理をした翌日は身体が重い。だからこそ、オフィーリアは自分の体調を見ながら予定を組むことを覚えた。
今日は働く。
今日は早く帰る。
今日は誰にも会わない。
今日は少し遠回りして歩く。
その一つひとつを、自分で決める。
それが今では当たり前になっていた。
王宮書庫での仕事は、オフィーリアに驚くほど合っていた。
大学院にあたる上級課程まで進み、文学史を専攻した彼女は、古い戯曲や詩集、年代記、演劇関係の資料にも詳しい。
書籍の分類。
目録の整理。
古い蔵書の来歴確認。
研究者や宮廷人からの問い合わせへの対応。
静かな作業が多く、必要以上に人前へ出ることもない。
そして何より、本に囲まれている。
それだけで、オフィーリアはかなり満足していた。
ある日の午後も、彼女は眼鏡をかけたまま、古い戯曲集の目録を確認していた。
透けると金色を帯びる茶髪は、仕事の邪魔にならないよう後ろでまとめている。緑がかった榛色の瞳は細かな文字を追い続けて少し疲れていたが、あと数冊だけ片づけてしまいたかった。
そこへ、聞き慣れた足音が近づいてきた。
足音だけで分かる。
静かに歩こうという努力はしているらしいが、近衛騎士の靴はそれなりに音がする。
オフィーリアは顔を上げる前に言った。
「兄上。ここは書庫です」
「まだ何も言ってないぞ」
フェリクスだった。
今では近衛兵となり、騎士爵も得ている。
赤みのある銅褐色の髪は以前より短くなり、騎士服もすっかり板についていた。
オフィーリアは眼鏡の位置を直した。
「声を出す前に釘を刺しただけです」
「酷い妹だ」
「経験から学びましたの」
フェリクスは何か言い返そうとして、それから妹の顔をじっと見た。
オフィーリアは眉を寄せる。
「何ですの?」
「いや」
「でしたら戻ってくださいませ。勤務中です」
「最近、変な男は寄ってきていないか?」
オフィーリアはしばらく兄を見つめた。
「……何のお話です?」
「そのままの意味だ」
「わたくしは二十歳です」
「知ってる」
「王宮で働いています」
「それも知ってる」
「では、なぜそんなことを?」
フェリクスは腕を組んだ。
「眼鏡をかければ少しは地味になると思ったんだが」
「失礼ですわね」
「ならなかった」
「褒めているのか貶しているのか、どちらですの?」
「褒めている」
「でしたら、もっと普通に褒めてください」
フェリクスは妹を見ながら、小さく唸った。
十三歳の頃は、今にも折れそうなほど細かった。
今も華奢ではある。
だが、頬には血色があり、姿勢も以前よりずっとよい。
眼鏡越しの緑がかった榛色の瞳も、昔のように誰かの顔色を窺ってはいなかった。
「まあ、お前が自分でどうにかできるならいい」
「そうしてくださいませ」
「ただし、本当に困ったら呼べよ」
オフィーリアは少しだけ笑った。
「その時はお願いします」
以前なら、兄は自分の出番だとばかりにすべてへ口を出しただろう。
今は、呼ばれるまで待つ。
完全に過保護が治ったわけではない。
それでも、十分な進歩だった。
その時、書庫の入口から別の声がした。
「オフィーリア嬢」
フェリクスが振り返る。
声の主は、ラウル・フォン・ティルゼン子爵だった。
黒に近い濃紺の髪に、明るい灰紫色の瞳。
端正で落ち着いた外見だけを見れば、いかにも冷静な貴族に見える。
ただし、片手には紙束を抱えていた。
オフィーリアはそれを見た瞬間、嫌な予感がした。
「ラウル様。その紙は何ですの?」
「先日の第二幕についてです」
「何枚あります?」
「十二枚です」
「帰ってくださいませ」
「まだ何も説明していません」
「十二枚もあれば十分です」
フェリクスが眉を寄せた。
「誰だ」
「兄上、声」
「誰なんだ」
仕方なく、オフィーリアは小声で答える。
「ティルゼン子爵です。わたくしが脚本を提供している劇団のパトロンのお一人です」
フェリクスの目が細くなった。
「なぜ妹の職場にいる」
ラウルは何の疑問も感じていない顔で答えた。
「脚本について相談がありまして」
「なぜ妹と脚本について相談する」
オフィーリアは額を押さえた。
「兄上。わたくしが書いているからです」
「ああ」
ようやく納得したらしい。
しかし次の瞬間には、別の意味で警戒し始めた。
「お前が例の子爵か」
「例の、とは?」
「妹の周りをうろついている演劇狂い」
ラウルの眉がわずかに上がった。
「演劇狂いについては否定しません」
「そこは否定しろ」
「事実ですので」
オフィーリアは無言で二人を見る。
嫌な予感しかしない。
フェリクスはラウルを値踏みするように眺めた。
「妹に妙なことはするなよ」
ラウルは少し考え、それから真顔で答えた。
「彼女の脚本に妙な改変を加える人間の方が、私は許せません」
「そういう話をしてるんじゃない」
「では、どういう話でしょう」
「分かってて言ってるだろう」
「さあ」
「お二人とも」
オフィーリアが低い声で呼ぶと、二人が同時にこちらを見る。
「書庫では静かにしてくださいませ」
少し離れた席で仕事をしていた書庫員が、必死に笑いを堪えていた。
フェリクスは咳払いをした。
「……悪かった」
ラウルも素直に頭を下げる。
「失礼しました」
「それから兄上」
「何だ」
「勤務へ戻ってください」
「はいはい」
フェリクスは立ち去りかけ、途中で振り返った。
「本当に変な男だったら教えろよ」
「兄上」
「分かった、帰る」
ようやく姿が見えなくなる。
オフィーリアはため息をついた。
その横でラウルが紙束を机へ置いた。
「良いお兄様ですね」
「昔よりは」
「以前は違ったのですか?」
オフィーリアは少し考えた。
「以前は、わたくしが困る前に全部解決しようとする方でした」
「なるほど」
「今は、困ったら呼べと言います」
ラウルは頷いた。
「それは大きな違いですね」
そう言ってから、当然のように紙束を一番上からめくる。
「では第二幕ですが」
「帰らないのですか?」
「本題がまだです」
オフィーリアは諦めた。
ラウルとの付き合いは、劇団に脚本を書くようになってから始まった。
最初に彼が気に入ったのは、オフィーリア本人ではない。
彼女の書いた戯曲だった。
それも、かなり熱烈に。
最初の作品を上演した翌日、ラウルは劇団へやって来て、一時間近く第二幕の台詞回しについて語った。
次の作品では、三幕目の舞台転換について手紙を送ってきた。
その次には、役者の立ち位置を図にして持ってきた。
オフィーリアは何度か、この人は本当に子爵なのだろうかと思ったことがある。
だが、話をしていると面白い。
昔の戯曲にも詳しい。
演劇史についてもかなり勉強している。
何より、オフィーリアが脚本を書くことを「身体に悪いからやめた方がいい」と言ったことが一度もなかった。
体調が悪そうな日は、
「今日は二幕までにしましょう」
と言う。
続けるかどうかは、オフィーリアに聞く。
それが、彼女にはありがたかった。
二人が良い仲なのではないかと噂する人間もいる。
たぶん、間違ってはいない。
オフィーリア自身、ラウルといる時間は嫌いではなかった。
むしろ、かなり好きだった。
ラウルも隠す気はあまりないらしい。
ただ、二人とも急いではいなかった。
オフィーリアは二十歳になっても未婚だった。
社交界では、理由について色々と言われている。
幼い頃から病弱だったから。
結婚生活に耐えられないのではないか。
子どもを持てないのではないか。
中には、侯爵家がそのことを隠しているのだと勝手な想像をする者までいた。
実際には、医師からは特に問題ないと言われている。
もちろん、妊娠や出産には誰にでも危険がある。
しかし、幼少期に虚弱だったからという理由だけで、子どもを持てないと判断される状態ではない。
それでも、オフィーリアはわざわざ社交界を回って訂正する気にはならなかった。
結婚を急ぐ理由もなかった。
仕事がある。
家がある。
友人がいる。
書きたいものがある。
そして、もし結婚するなら、その時に相手と話せばいい。
それで十分だった。
「ところで」
紙束を読みながら、ラウルが言う。
「三幕目の主人公の台詞ですが」
「はい」
「ここは求婚を受けた方がいいと思います」
オフィーリアは顔を上げた。
「なぜです?」
「観客が期待しています」
「主人公はまだ決めたくないのです」
「でも、相手役は待っていますよ」
「待てばよろしいでしょう」
ラウルが少し笑った。
「厳しいですね」
「結婚は幕を下ろすためにするものではありませんもの」
「それは劇の話ですか?」
オフィーリアは眼鏡越しにラウルを見る。
「劇の話です」
「そういうことにしておきましょう」
腹立たしい。
けれど、嫌ではなかった。
その日の仕事を終える頃には、第二幕についての十二枚のうち半分しか話せていなかった。
残りはまた今度ということになった。
数日後、オフィーリアは劇場の客席にいた。
ここが、今の彼女にとって一番好きな場所だった。
舞台に立つのではない。
客席から見る。
自分が一人で書いた言葉が、役者の声になる。
紙の上ではただの文章だったものが、衣装をまとい、照明を浴び、笑いになり、涙になる。
観客が息を呑む。
笑う。
静かになる。
その瞬間が、オフィーリアは好きだった。
この夜も、幕が下りた瞬間、劇場いっぱいに拍手が響いた。
オフィーリアも拍手をする。
自分の作品なのに、客席では一人の観客だった。
それがいい。
隣の席では、ラウルが満足そうに頷いている。
「第二幕、やはりあの台詞を一行削って正解でしたね」
「終演直後にそれを言います?」
「重要です」
「余韻という言葉をご存じ?」
「知っていますが、それはそれです」
相変わらずだった。
しばらくして、劇団長が二人のところへやって来た。
「先生」
オフィーリアは少し眉を寄せる。
「その呼び方、まだ慣れません」
「もう何本も当ててるんだから諦めてください」
劇団長は笑いながら言った。
「それで、次なんですが」
「もう次ですの?」
「当然でしょう」
「今、幕が下りたばかりですよ」
「だから次です」
ラウルが横から乗り出す。
「どんな企画です?」
オフィーリアは二人を見比べた。
演劇オタクが二人揃うと面倒である。
劇団長は声を潜めた。
「最近、貴族の間でオカルトミステリーが流行ってるでしょう?」
オフィーリアは思わず瞬いた。
「呪われた宝石とか、勝手に動く肖像画とか、そういうものですか?」
「そう。それを取り入れた恋愛劇が欲しいんです」
ラウルの目が明らかに輝いた。
「面白い」
「でしょう?」
二人が勝手に盛り上がり始める。
オフィーリアは椅子にもたれ、少し考えた。
オカルト。
謎。
恋愛。
劇場。
そこで、前世の記憶から妙な連想が浮かんだ。
「うーん……」
「何かあります?」
劇団長が期待に満ちた顔をする。
オフィーリアは顎に指を当てた。
「オペラ座の怪人的な?」
ラウルが首を傾げる。
「オペラ座?」
「あ」
オフィーリアは口を閉じた。
前世の作品だった。
しかも、そのまま使ったら駄目なやつだ。
「……いえ、何でもありません」
「今の、すごく気になりますが」
「忘れてくださいませ」
「怪人が出るんですか?」
ラウルまで食いついた。
「出しません」
「地下に住んでいたり?」
「なぜそこまで食いつくのです?」
「面白そうなので」
オフィーリアはため息をついた。
「前世の作品をそのまま持ってくるのは駄目ですわ。文学を学んだ人間として、それくらいの節度はあります」
「前世?」
劇団長が聞き返した。
「独り言です」
「でも、オカルトミステリーはお願いしますね」
「考えておきます」
「恋愛も」
「それも考えておきます」
ラウルが横から言う。
「今度の主人公は、最後に求婚を受けてもいいのでは?」
オフィーリアは彼を見る。
「どうでしょうね」
「また待たせる気ですか」
「急ぐ理由があります?」
ラウルは少しだけ笑った。
「ありませんね」
その返事が、オフィーリアは好きだった。
劇場を出た頃には、夜もかなり更けていた。
馬車で自宅へ戻る。
祖父母から贈られた屋敷には、今日も暖かな灯りがついていた。
敷地内の使用人宅にもいくつか灯りが見える。
必要なら呼べる。
けれど、呼ばなければ誰も来ない。
玄関では家政婦が迎えてくれたが、「お夜食はいかがなさいますか」と尋ねるだけだった。
「今日は結構です。少し疲れましたから、もう休みます」
「かしこまりました。何かございましたらお呼びください」
それだけ。
誰も、もっと食べた方がいいとも、すぐ寝なさいとも言わない。
オフィーリアは自室へ入り、眼鏡を外した。
机の上には、次の脚本用の新しい紙が置かれている。
少しだけ書きたい気もした。
けれど、今日は疲れている。
なら、明日でいい。
それを決めるのも自分だった。
寝台のそばには、あの人形が座っていた。
濃いブルネットの髪。
白いビスクの顔。
淡い水色の瞳。
口元から覗く、小さな白い歯。
十三歳の時、熱に浮かされながら見つめたのと同じ顔だった。
けれど、今はもう眠らない人形ではない。
オフィーリアは人形を抱き上げた。
「次は、オカルトミステリーですって」
当然、返事はない。
「しかも恋愛劇」
オフィーリアは少し考えた。
「主人公に恋をさせた方がいいかしら」
人形を見つめる。
水色の瞳は、何も答えない。
昔からそうだった。
何も決めてくれない。
だから、好きだった。
オフィーリアは人形を枕元へ横たえた。
仕掛けが滑らかに動き、水色の瞳がゆっくりと閉じていく。
かつて、母が願った。
元気になりますように。
病に苦しみませんように。
いつまでも私のそばにいてくれますように。
その願いは、不思議な形で叶ったのかもしれない。
オフィーリアは完全に丈夫になったわけではない。
けれど、生きている。
歩いている。
学んだ。
働いている。
物語を書いている。
そして人形は、今もそばにいる。
ただし、母のそばではない。
オフィーリアが自分で選んだ家に。
自分で選んだ人生の中に。
「まあ、急がなくてもいいわね」
恋愛劇の主人公について言ったのか。
自分自身について言ったのか。
オフィーリアにもよく分からなかった。
灯りを消す。
それから、眠った人形へ小さく告げた。
「おやすみなさい」
今度はオフィーリアも、自分の意思で目を閉じた。
明日が楽しみだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回の人形は、本当に呪われていたわけではありません。
目を閉じなかった理由も、身体の中に入っていたものも、すべて人の手によるものです。
けれど私は、だからこそ少し怖い話だと思っています。
誰かの幸せを願うこと。
元気でいてほしいと願うこと。
ずっとそばにいてほしいと願うこと。
一つひとつは、ごく自然な愛情です。
ただ、その願いが相手の意思より先に立ってしまった時、愛情は知らないうちに相手を縛るものにもなります。
オフィーリアは家族を捨てたわけでも、家族を嫌いになったわけでもありません。
ただ、
「それは自分で決めます」
と言えるようになりました。
そして、彼女の人形もようやく目を閉じられるようになりました。
眠ることも。
起きることも。
歩くことも。
学ぶことも。
働くことも。
誰かを好きになることも。
急がず、自分で決めていい。
そんな物語として読んでいただけたなら嬉しいです。




