五話 祈りのようなもの
午前中に隔離室を出て、小鳥遊や志摩子と交流したことで、美代はくたびれてしまった。
午後は個室でトロトロと眠りについたり起きたりを繰り返すうちに過ぎていった。
「仲畑さーん、診察でーす。二番の部屋にどうぞ」
何度目かの眠りに落ちそうになっていたところに、主治医の佐伯医師の声で起こされた。
言われた通り、診察室二番に向かう。
佐伯医師はパソコンを打ちながら、美代に向き合った。
「どうですか?具合は?」
「…普通、ですかね。午前中にデイルームに顔を出して、ちょっと人疲れしちゃいました」
「デイルームに行けましたか。それは良かった。誰と話しました?」
「えっと…患者さんの、小鳥遊さん、と、凪さんです」
そして先生のことを、厳しいと言っていた、ということを思い出した。
「小鳥遊さんとは普通に話せましたか?」
「はい、不思議なくらい」
「そうですか。それは良かった。何か原因はわかりますか?小鳥遊さんは、その…例の彼を思い出すに足る存在だと思うのですが」
佐伯医師はタイピングしながらも、美代の表情の変化を逃すまいとしているのがわかる。
美代はその質問にたじろいだ。
「それが…ちっともわかりません。彼のことは浮かびもしませんでした。ただ……」
美代は言い難いことを言葉にしようともがいた。
「失恋を癒すのは、新しい恋だと言いますね?」
「ええ、一般的には」
「その片鱗のようなものが、胸に棲みついて離れないとでも言いますか…」
美代は一言一言、確かめるように言った。
「恋、ですか…」
佐伯医師は慎重に呟いた。
美代はその響きに敏感に危険性を感じ取った。
「恋、とは、違うような…もっと儚くて鋭い感じの……祈り、みたいな」
「恋とは、違うんですか?」
「その人を思えば、この単調な治療も耐えられるし、食事も喉を通るようになりました」
そして、美代はこの想いに名前はないなと改めて思った。
「そうですか…」
「その頃から、男性看護師さんへの嫌悪感も減ったように思います」
「それは助かります」
最初の頃、男性看護師への嫌悪で、看護を拒否したことを思い出して、美代は申し訳なく思った。
「そうそう、明日、ご両親が面会に来ます」
「両親が…平日ですよね?」
「明日?平日ですね、木曜日です」
父の孝之は土日祝休みの仕事のはずだ。また美代のために、仕事を休んだのかと、美代は暗い気持ちになった。
「なにか不便なことはありませんか?」
「今のところ、なにも」
美代はそう答える。
不便さを訴えたり、退院を早くしたいと考えたり、そんな人の一角にわたしも加われるだろうか、と美代は漠然と不安になった。
でも、凛が出て来たら…そして、わたしより先に退院するようなことがあれば、わたしは今の暮らしを不便に感じるんじゃなかろうか。
両親との面会は、個室でひっそり行われた。両親はビクビクしながら、廊下を歩いてきた。
「美代…?」
看護師の後ろに立ち、不安そうに声をかけるのは母親の美奈子だ。孝之は、美奈子の手を握っている。
美代は看護師の後ろに控える両親をチラと見て、複雑な気持ちになった。
笑いかけてあげたら、両親はきっと安心するし喜ぶだろう。それはわかるが、それが実行出来るかは別だった。
「少し、顔色が良くなったんじゃないか?」
孝之は、美代の顔色を見て、少し安心したらしい。
「あなた、何を言ってるの。こんな所に閉じ込められてるのに…顔色がいいだなんて…でも、確かに少しふっくらしたような…」
美奈子のヒステリックな響きを含んだ声が、どんどん落ち着いてゆく。
「美代…よく顔を見せて?」
美奈子の手が伸びて、美代の髪を撫でる。
「お母さん…」
美代は涙を零していた。
「美代…」
美奈子も一緒に泣く。そして二人は抱き合う。
「ごはん、食べてるの?」
「ちゃんと食べてるよ」
「そっか…」
孝之はそんな二人を少し離れた所から見ていた。夢に見たようなあたたかな景色に、ふわふわした感情に取り憑かれながら。
「お父さん?」
「美代?」
美代は孝之に手を伸ばした。孝之は慌ててその手を掴む。
そして、掴めた事に驚く。
この半年間、美代との身体的接触は無しに等しかったからだ。
「心配かけてて、ごめんなさい」
孝之も心の中で泣いていた。
この半年の痛みが、少しずつ溶けてゆく。長い冬を超えて、あたたかな春の日差し…確かに、それを感じた。




