二話 隔離室の隣人
山あいにある、入院設備のある精神病院。
三人は時間通りに目的地に着いた。
「ここは、安心して休む場所だと思って頂けますか?」
三人の前には、佐伯と名札のついた女性医師が座っていた。
「安心して?ええ、まあ…」
孝之は、美奈子の方をそっと見やりながら、受け答えする。
「美代さん、主治医の佐伯エミリです。よろしくね」
美代の瞳には、何も映って居なかった。ただ天井を見上げている。
「やっぱり、無理なんじゃ…わたしたち、間違ってるんじゃ…」
その様子を見て、また美奈子が泣き出した。
「お母さま、落ち着いてください。美代さん?」
「よろしくお願いします」
美代は小さく、けれど確かに呟いた。
「大切なのは、ご家族もしっかりおやすみになることです。では美代さん、こちらに同意のサインを…」
美代は佐伯の方を向き、指さされた箇所にサインをした。その白く細い腕には、赤く腫れたリストカットの跡が、痛々しく残っている。
数ヶ月前には確かになかったその跡が、美奈子の迷いを吹っ切ったらしい。
「美代…ここにいれば美代は、安心して休めるんですよね?」
そして、佐伯に問いかける。
「はい、ご安心ください」
急激に窶れた頬、栄養失調から来る、蒼白いその色。なにもかもが悲劇的な美代は、サインを終えるとまた天井を見上げた。
「片倉くん、ご案内して。ご両親はここまでです」
佐伯は傍らに控えていた看護師に声をかける。片倉と呼ばれた男性の看護師を、美代はチラリと見た。
片倉が男性であることに、一瞬怯えた色がその瞳に浮かぶ。けれど抗うことはなく、美代は片倉に従った。
「美代、待って」
美奈子は思わず立ち上がると、美代を抱きしめた。
「きちんと、ごはん、食べてね。元気にするのよ」
美代は相変わらず立ち尽くすばかりでなんの反応もしない。
「お母さま、ご安心ください」
佐伯の声で美奈子は我に返ると、我が子を愛おしそうに見つめた。
美代は無言のまま、診察室を出ていった。
美代はその心の閉ざしようと、自傷行為を繰り返した経験から、閉鎖病棟の隔離室に入れられた。
隣室は埋まっていた。美代が前を通った時、扉を蹴ってこちらを威嚇してきた。
「開けろこらぁ!」
その野太い威嚇の声に、一瞬だけ美代は揺らいだが、覗き窓に映っているその女性の姿を認めてハッとした。
黒く大きな瞳、焼けた小麦色のつやつやの肌、眉上で切り揃えられた黒髪。この女性の名前は三坂凛。
凛も、覗き穴越しに美代を認めた。蒼白い顔に、何も映さないその空虚な蒼い瞳、亜麻色の髪。幽霊でも出たのかと、一瞬焦る。
「出せ!出せ!出せ!!」
しかし凛の衝動は止まらなかった。扉を蹴り、叫ぶ。
「少しうるさいと思うけど…」
片倉は申し訳なさそうにそう言うと、凛が叫ぶ横の扉を開けて、美代を招き入れた。
殺風景な部屋、と美代は思った。トイレとベッドしかなく、トイレットペーパーすら差し込み口から出されているだけ。何も無い。
「お隣さん、多分これから拘束するから、少し我慢してね」
「…拘束?」
美代が初めて質問したので、片倉は驚いた。
「ごめんごめん、驚くよね。あんまり暴れてるからちょっと縛るかなって感じ」
「わたしなら、平気です」
「本人のためだから」
美代はベッドに腰掛けながら、隣室の物音を聞くでもなく聞いていた。
どんどん、がんがん、と扉を叩いたり蹴ったりする音に混じって、怒鳴り声が漏れてくる。
「出せって言ってるだろ!」
凛は、声の限りに叫んでいた。
頭の中には夫との約束があった。今日は、凛と夫の結婚記念日だ。
凛は二十八歳で二人の子供を育てる母親だった。しかし、病院側はそれを知らない。凛が何も話していないからだ。
凛は点滴で薬を投与されていた。それを外し、また暴れる。
そして駆けつけた主治医に、鎮静剤を打たれて眠りに落ちた。
目覚めた時、両手を拘束されていた。
凛は焦った。病室は真っ暗。夜中だろうと見当はついたが、叫ぶしかなかった。
「三坂さん?どうしたの?」
「外せ、外せよ!」
「まぁ、やだ。暴れないの。いま夜中の三時ですよ」
夜勤帯の看護師が駆けつけて、凛を宥める。
「今日は結婚記念日なんだ。家に帰らせて」
凛はブワッと泣き出した。
「三坂さん、自分のこと、思い出した?」
「ずっと、忘れてない、話してないだけ」
「じゃあ、話してくれる?」
「いいから、これ、外して外に出して」
凛はまだ拘束具を外そうと、ベッドの上で暴れている。
「今はどちらも出来ません」
看護師の山口は毅然とした態度で応じる。
「睡眠をとらないと…旦那さんにも会えませんよ」
凛の怒りはおさまらない。拘束具がギリギリと音を立てる。
「ここから出して」
「三坂さん、落ち着いてください」
山口の宥めるような声が、凛の耳に木霊する。
「落ち着けだなんて!こんな状態で!」
「お医者さん呼びますよ」
「嫌だ!嫌だ!!」




