一話 わたし、行くから
その日はよく晴れた月曜日。
普段なら仕事に向かうはずのその車は、いつもとは反対方向に向かっていた。
一人の少女が、後部座席で人形のようにかしこまって座っている。ハンドルを握るその父親は、何度もバックミラーに映るその姿を確かめていた。
まるで、瞬きをしてる間に消えてしまうかのように、生気のない顔からは、なんの感情も読み取れない。
少女の名は仲畑美代。腰まで届く長い亜麻色の髪、薄いブルーの瞳は、硝子のように輝いている。肌は白く、透けてしまいそうなほどだ。
美代の細く折れそうな手を、ふっくらした暖かな手が包む。母親の美奈子は、隣に座る美代をずっと見つめている。
まるで、今生の別れのように、目に焼き付ける。
美代の涙がポロリと零れて、美奈子の手に落ちる。
「あなた、やっぱり戻って…連れて行くなんて、できないわ」
美奈子の悲痛な声が車内に響いた。
「美奈子、もう何度も話し合ったじゃないか」
父親の孝之は、諦めたように溜息をついた。
「だって……」
美代はそれを、ただ聞いていた。なんにも反応しない。その視線は一心に、窓の外に向けていた。
「この半年、何をしても駄目だった。もう美代が傷つくことだけは…」
美奈子の脳裏にこの半年がかすめる。
夜中に帰宅した娘を、驚いて受け入れたあの日。
半狂乱になって暴れる娘を押さえつけた日。
リストカットの跡を見つけて叱りとばした日。
そして、ある手術を経て心を閉ざし、喋らなくなった今の美代。
これしか道はないと、二人で何度も話し合った。
「やっぱり駄目だわ…離れるなんて…」
「美奈子、しっかりするんだ」
美奈子の目に、娘と同じ硝子のような瞳に涙が溜まってポトポトと零れる。
「…だって、こんなに大人しくなって、害もないのに」
「いつ暴れるか、わたしらにはわからんのだぞ」
孝之は、バックミラー越しに二人を観察しながら言った。
「暴れる、だなんて」
「いつ、また自傷行為を繰り返すか、わからん。安全な病院に入れるしかないんだ」
「安全?目を離すことが安全なの?」
美奈子はあり得ない、とばかりに叫んだ。
「あなたは結局、この子が憎いんだわ。そうでしょう?」
論点のずれた返事に、孝之はまた溜息をついた。
「また溜息ね!早く車を止めて、家に帰って」
ヒステリックな叫びが、美代の耳についた。
また、これだ、と美代は思った。
美代は美奈子の前夫との子供で、孝之と血の繋がりはない。美代が五歳の時に二人は出逢い、再婚した。
美代の下には弟がいた。弟はもちろん、孝之と血の繋がりのある子だ。だから仲畑家では時折、美代について論争が起こるのだ。
血の繋がり、そんなに大事なのかな、と美代は何度も自分に問うた問いの中に逃げた。
「美奈子、落ち着いてくれ。美代が動揺するよ」
「落ち着いてなんて…あなたはよくもそんなに落ち着けますね」
美奈子が扉に手をかけたので、孝之は慌てた。丁度路肩にスペースがあったので、車を寄せて停める。
「わかった。わかった、とりあえず停まったよ」
「美代を、連れていかないで」
美奈子は自分のシートベルトを外し、次に美代のシートベルトに手をやった。
その時だった。
「お母さん、わたし、行くから」
美代が窓の外を見つめたまま、そう呟いた。
「へ?美代?今なんて…」
「わたし、行くから」
その鈴のような声に、悲壮な色はなかった。ただ淡々と、自分の意志を乗せて伝える。
「お父さん、車を出して」
孝之は呆気にとられて美代を見つめたままだ。
「美代……いいのか?」
それ以上話すつもりはないのか、美代は代わりに小さく頷いた。
再び車が動き出す。
今度は車内には、エンジン音以外響かなかった。




