十話 退院したくない
その週の週末。
病棟ではカラオケ大会が催されていた。
各々が好きな曲を入れ、順番に歌を披露する。
美代は朝から凛を探していたが、ずっと見当たらない。
「美代ちゃん、歌わないの?若いのブイブイ言わせてよ」
志摩子が美代のそばに寄ってくる。
「志摩子さんこそ、歌ってくださいよ」
「あ、もしかして小鳥遊くん探してる?外泊だって。凛ちゃんも」
「外泊…」
志摩子は、美代の反応を見てクスリと笑った。
「相談なら、乗るよ?」
「え…」
「好きなんでしょ。凛ちゃんのこと」
「志摩子さん…なんで…」
驚く美代に、肩をすくめて志摩子は答える。
「見てたらなんとなくね。でも、叶わぬ恋だ」
「叶わない…ですかね、やっぱり」
「凛ちゃんには、家庭があるのよ?」
志摩子は驚いて言う。美代の心に、その一言が抜けない棘となって刺さった。
「叶わない恋の歌でも唄うかぁ?」
志摩子が朗らかに言うのを、憂鬱な気持ちで美代は聞き流していた。
志摩子が歌い上げたのは、身体だけの関係から抜け出せず、気付けば相手は最愛の人を見つけて結婚してしまった、悲しいラブストーリーの曲だった。
一方その頃、凛はひと月振りに自分の城に足を踏み入れた。
思ったより、悪くないな、と思ったのもその筈で、凛の不在時、義理の母が通い詰めていたのだ。その痕跡が、メモ用紙に現れた時、凛の張り詰めていたものが切れた。
「啓介、お義母さん来てたの?」
「ん?あぁ、だって啓太と莉子の面倒見たり、色々さ」
「今日は啓太と莉子は?」
「先生に聞いただろ、まだ会わせない方がいいって。母さんに預かって貰ってるよ」
嫁の留守に、嫁にとっての敵である姑を無防備に招き入れたなんて…と、凛の頭の中は怒りがグツグツ煮えていた。
「な、それより、やっと二人きりだ。他のことはまた考えよう」
「やめて、やめてよ、わたしシャワーもろくに浴びてない」
「凛、いい匂いだよ」
啓介は凛の胸元に顔を埋めて悦に入っている。
「駄目ってば」
今日は病棟の面会室じゃないので、思い切って拒絶する。
「ちぇ。じゃあ、一緒にシャワー浴びる?」
「違う。不倫のこと、わたしまだ納得してない」
啓介はやれやれと首を振る。
「そんなに俺が信頼出来ない?」
「そう言うなら見せて、アスカとのライン」
「もうブロックしたからなにもやましいことはないよ」
啓介は携帯を差し出してくる。凛はおや、と思った。素直に携帯を差し出すなんて…怪しい。
「ははーん。ラインでやり取りするの、やめたのね?他のアプリかDMかしら」
「ち、違うってば」
「寝室を見せて」
「寝室?二人の?」
凛はそう言うなり、二階に上がってゆく。
人の夫と知りながら、不倫して臆面もなくラインしてくるあのアスカの神経から、必ず留守中に家に上がり込んでるに違いないと思った。
寝室かバスルームに、きっとアスカの痕跡が残っている筈だった。
「ビンゴ」
ベッドと床の隙間に、ド派手なパンティが残されていた。これは宣戦布告か。
啓介は、それを見てあちゃあ、と頭を抱えた。
「これはどう説明する?きっとあなたの体液も出てくるわ。立派な証拠として押さえておきますから」
「終電を逃して帰れなくなった彼女を、家に泊めてあげただけさ。なにもしてない」
「嘘ばっかり。どうせバスルームに行ったらわたしの知らないシャンプーでも置いてあるんでしょうよ」
限界だった。手元にあった枕で、啓介を殴りつける。
啓介は、凛を抱きすくめて、ベッドに押し倒した。
何度目の悪夢だろう。
決して治らない浮気癖に、それを許してしまう自分。凛はため息をついた。
「凛、信じてくれよ。愛してるのは、凛だけなんだ。他の女はみんな、穴埋めでしかない」
「穴埋めだって、わたしでしてよ。他でしないで」
「それは凛が俺を一人にするから…」
「たったのひと月じゃない、耐えてみせてよ」
凛は堪え切れず啜り泣いた。
「愛してる、凛」
「わたしもよ、啓介…」
そして二人は赦し合うように唇を重ねた。
何度も何度も。
次第に熱を帯びるそれは、止めどなく続いた。
その日わたしたちは、何度も何度も抱き合った。
裸になってひとつになることで、離れていたひと月を埋めあうように。
けれど唇を重ねても、身体をどれだけ重ねても、どんな言葉をかけられても、わたしの心は満たされなかった。
わたしの心は、もう知っていた。
自分の愛情が、ここにないことを。
でも認めたくなくて、身体で愛を探した。啓介の中に。
翌朝。
病棟とは違う暖かなカーテンから漏れる光で凛は目覚めた。傍らには、夫の啓介が少年のような表情で寝入っている。
結局昨夜は何度も抱き合うばかりで、ろくな話し合いが出来なかったな、と凛は思った。
でもそれが、自分たちらしい結末でもある、と凛は思った。
結局愛なんて不完全でどこかしら欠けている。
「啓介…」
「おはよ、凛…」
啓介はうっすら目を開けて、凛の方を幸せそうに見た。
「おはよ」
「腹、減ったな」
「昨日のピザ温めようか?」
夕飯はデリバリーのピザを頼んだ。それくらい離れ難かったのだ。
「うん。ねぇ、凛?」
啓介は甘えた声を出す。
「なぁに?」
「早く退院して…寂しくてたまらないよ」
「はい、はい」
退院の二文字が、凛の鼓動を早くした。
退院?したくない。
そしてハッキリ浮かんだ。美代の顔が。会いたい、胸を締め付ける想いに蓋をして、凛はベッドを出た。




