九話 言えなかった、愛してる
一方、部屋に戻った凛は泣いていた。
傍らに黙って侍るのは、志摩子だった。
「わたし、やっぱり許せないの…」
散々泣いた後で、凛はそう切り出した。
「旦那さんの不倫?」
凛は黙って頷く。志摩子はそうよね、と言わんばかりに、凛の肩を強く抱いた。
「謝罪もなしじゃ、許せないわよね」
「それに…」
「それに?」
凛はその一言を言うのに躊躇っている。志摩子は嫌な予感しかしなかった。
「やっぱり愛してる、啓介を」
「ああ、そうよね」
志摩子はまた泣き出した凛の顔を、じっと見つめた。
「それは、本当に、愛?」
志摩子の問いは宙に浮いた。
けれど確かに、愛を思い浮かべた時、凛の脳裏にある笑顔がよぎった。一瞬すぎて誰か掴めなかったそれは、啓介ではないことだけは、確かだった。
「診察受けて来ます」
「こんな時間から?」
「主治医、今日当直なの」
凛は志摩子の手を振り解くと、優しく微笑んだ。
「ありがとう、心配してくれて」
部屋を出たところで、美代とばったり会った。
「美代、どうしたの?なんかあった?」
「凛さん…泣いてるの?」
美代はそう呟くと、そっと凛の頬に手を伸ばした。そして涙を一粒、掬ってみせる。
「うん、ちょっとね。でも平気よ、診察受けるし」
美代の触れた箇所を、確かめるようになぞりながら、凛は答える。
「診察?こんな時間に?」
何故か美代の問いは、先程の志摩子の問いとは違った。
「今日、当直で…」
「ねぇ、わたしの部屋で少し話さない?」
「部屋で?駄目よ、他人の部屋には入らないようにって…言われたし」
「少しくらい良いじゃない。ね?」
美代は凛の手を掴んだ。凛も振り払わず、黙ってついてゆく。
この頃美代は、ナースステーションから多少距離のある個室に入っていた。だから、こんな大胆に凛を招けたのかもしれない。
二人きりになると、美代は凛に泣きついた。
「美代…?どうしたの?」
「わたし、怖くて…」
「なにか、思い出しちゃったのね?」
凛は美代との付き合いの中で、美代の身に起きた不幸になんとなく思い当たっていた。
過度な男性恐怖。それをシャットアウトするために、心を虚にするほど。
きっと異性関係で良くないことに巻き込まれたんだろう、と思って見守ってきた。
「ごめんなさい、わたしが啓介のことなんか話したせいだわ」
「違う、違うの…」
美代が怖かったのは、それじゃない。首を振って否定するけど、凛はその通りには受け取らなかった。
「ごめん、ごめんなさい」
「謝らないで。わたしが怖いのは、男性じゃない」
「え?」
「わたしが悲しいのは、凛さんが、泣いてること」
「ありがとう、優しいのね」
凛が嬉しそうな声を出す。
「優しい…?」
「美代は最初から、いつだって優しかったわ」
凛は美代の髪を撫でながら、出逢った日のことを思い返す。
美代は凛の髪の撫でるのにうっとりと、身を任せていた。
「怒鳴り散らす隣人を、憐れみでもなく受け入れてくれてた」
「それは、凛さんだったから…」
「ありがとう」
凛は美代の髪を撫でる手を止めた。美代がその手を掴んだからだった。
「凛さん…わたし……」
二人は暫し見つめ合った。
美代は続きの言葉を探したが、何も出てこない。
好き、という二文字以外は。
そしてそれを伝えたら、この関係は崩れてしまう気がして、美代には言えなかった。
「美代、ありがとう。行くね」
丁寧に手を解くと、凛は部屋を去ってゆく。
その背中に手を伸ばして、美代は心の中で叫んだ。
愛してる、と。




