第六話:天才の苦悩、魔物の声
リリィが新たな交易路の開拓に乗り出し、ディランがイザベラの影を追う中、セレスティーナの元に、思いもよらぬ方向から緊急の報せが舞い込んだ。
それは、アストル王子から託された、一羽の速鳥が運んできた極秘の書簡だった。
『聖女様。感謝と共に、緊急の警告を。国内で制御されていたはずの魔物たちが、原因不明の凶暴化を見せ、各地で暴走を始めています。もはや、食料支援だけでは解決できぬ、より根源的な問題が発生した模様。我が国の魔術師たちにも、原因は掴めておりません』
書状に綴られたインクの滲みに、若き王子の焦りが透けて見えるようだった。
これまでガルダ帝国がその力の源泉としてきた魔物が、今や帝国そのものを内側から蝕む脅威へと変貌しつつある。セレスティーナは、国内の政争とは比較にならない、巨大な災厄の予兆を感じ取っていた。
その謎を解き明かす鍵が、王立魔術学院の静かな研究室で、まさに生まれようとしていた。
ルカは、ここ数週間、寝食も忘れて古代文献の解読に没頭していた。彼の研究テーマは「魔物の言語体系と感情表現の可能性」。学院の主流である攻撃魔法や効率的な討伐法の研究からかけ離れたそれは、多くの同僚や教授たちから、天才の奇行として異端視されていた。
だが、ルカには確信があった。魔物たちの発する咆哮や鳴き声には、明確な法則性と、そして「意味」がある、と。
「…見つけた…!」
埃をかぶった数千年前の石板に刻まれた、古代ルーン文字。その解読に成功したルカは、そこに記された内容に息をのんだ。
『――古の王、その傲慢によりて大地の精霊を捕らえ、その魂を裂き、力だけを抽出し僕と成す。魂の片割れは地の底深くに封じられ、力のみが獣の形を与えられ地上を彷徨う。いつの日か封印破れし時、半身は半身を求め、大いなる厄災が世界を覆わん――』
魔物は、元々は自然のバランスを司る精霊のような存在だった。それを古代の王が無理やり力と魂に引き裂き、力を兵器として利用した。それが、現代に伝わる「魔物」の正体。
そして、引き裂かれた魂は、今も地の底深くに封印されているというのだ。
「まさか…そんなことが…」
ルカは震える手で、自身の開発した広域魔力探知魔法を発動させる。王国の魔術師の誰もが成し得なかった、大地の魔力の流れを可視化する究極の探査魔法だ。
魔法陣が淡い光を放ち、研究室の床に、王都周辺から国境に至るまでの巨大な立体地図を映し出す。
そして、ルカは見た。
ガルダ帝国と王国の国境地帯、その遥か地下深く。そこに、他のどんな場所とも比較にならない、途方もなく巨大な魔力の塊が、まるで脈打つ心臓のように明滅しているのを。
古代の「封印」。石板の記述は、真実だった。
だが、問題はそれだけではなかった。
その心臓の鼓動は、明らかに弱々しく、そして乱れていた。封印の力が、急速に失われつつあるのだ。
「…だからか! 封印が弱まっているから、地上の魔物たちが不安定に…!」
ガルダ帝国が、封印から漏れ出す力を無理に引き出し、利用し続けたツケが回ってきたのだ。このまま封印が完全に破壊されれば、石板の予言通り、制御不能となった純粋な魔力の奔流が地上に溢れ出す。それはガルダ帝国だけでなく、隣接する王国をも巻き込む、未曽有の大災害となるだろう。
顔面蒼白になったルカは、研究資料をひっつかむと、セレスティーナの邸宅へと全力で走った。
「セレスティーナ様! 大変なことが分かりました!」
息を切らして駆け込んできたルカから報告を受けたセレスティーナは、その内容の重大さに、さすがの彼女も言葉を失った。
リリィを狙うイザベラの妨害。ディランが掴んだヴァレンシュタイン家の暗躍。そして、ルカがもたらした両国の存亡に関わる、惑星規模の危機。
絡み合った糸が、一気にその全貌を現したかのようだった。
セレスティーナは、為政者として、極めて困難な判断を迫られていた。
国内の政敵を排除することが先か。それとも、今はまだ誰も知らない、しかし確実に迫りつつある大災害への備えを優先すべきか。
彼女はしばらく目を閉じていたが、やがて静かに目を開くと、その瞳には迷いの色はなかった。
「…ルカ、ありがとう。あなたの研究が、私たち全員を救うことになるやもしれません」
彼女は、この巨大な危機を前に、もはや小さな政争に時間を費やすべきではないと判断した。
問題は、どうやってイザベラにこの事実を信じさせ、手を取り合うかだ。あのプライドの高い公爵令嬢が、素直に自分の言葉に耳を貸すとは思えない。
だが、セレスティーナの口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。
「この危機は、あるいは…イザベラ様との凍りついた関係を変える、好機になるやもしれませんわね」
絶望的な状況の中に、一筋の光を見出す。
それこそが、彼女が多くの人々を惹きつけ、道を切り開いてきた、聖女たる所以だった。
物語は、セレスティーナとイザベラ、二人の令嬢の直接対決という、新たな局面へと突入しようとしていた。