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第三話:英雄たちの現在地、それぞれの壁

 酒場での密会から一夜明け、セレスティーナは自邸の執務室で、アストル王子からの申し出について深く思案していた。窓の外では、かつての子供たちが植えた花々が風に揺れている。


「…無謀です、セレスティーナ様」


 傍らに立つディランが、硬い声で進言する。


「ガルダ帝国は、我が国にとって潜在的な脅威。その内政に干渉するなど、あまりにも危険すぎます。下手をすれば、開戦の口実を与えかねません」


 騎士として、護衛として、彼の意見は至極真っ当なものだった。セレスティーナも、そのリスクは十分に理解している。しかし、彼女の脳裏には、民の飢えを憂う若き王子の、あの切実な瞳が焼き付いて離れなかった。


「ええ、あなたの言う通りですわ、ディラン。これは危険な賭けよ」


 セレスティーナは静かに頷くと、毅然とした表情でディランを見据えた。


「ですが、わたくしは聖女である前に、一人の人間です。目の前で飢えている民がいるのなら、国の境など関係ありませんわ。それに…」


 彼女の声に、為政者としての怜悧な響きが混じる。


「魔物の力に頼る不安定な隣国は、いずれ必ず我が国の脅威となります。彼らが自らの足で立つ道を支援することは、長い目で見れば、この国の平和を守ることにも繋がる。これは、慈悲であると同時に、未来への投資でもあるのです」


 聖女としての慈愛と、現実主義者としての冷徹な判断。


 その二つを併せ持ってこそ、セレスティーナ・フォン・エトワールという人間だった。彼女の揺るぎない決意を前に、ディランはもはや反論の言葉を持たなかった。彼にできるのは、彼女がどんな道を選ぼうとも、その剣となって守り抜くことだけだった。


 セレスティーナは、アストル王子への協力を決断した。


 しかし、彼女が大きな決断を下したその時、かつて彼女が守り育てた子供たちもまた、それぞれの場所で、それぞれの壁に直面していた。


 ◇


 王立魔術学院の研究棟。


 ルカは、巨大な水晶に映し出された魔物の生態記録を、食い入るように見つめていた。魔力暴走を克服した彼は、今や魔術学院始まって以来の天才と称され、特に魔物の生態研究においては、王国で右に出る者はいない。


「…違う。やはり、単なる凶暴な獣ではない」


 記録映像の中の魔物は、傷ついた仲間を庇い、まるで悲しむかのような鳴き声を上げていた。知性だけではない、明確な感情のきらめき。研究を進めれば進めるほど、ルカは確信を深めていた。彼らは、人間が一方的に断罪していい存在ではない、と。


 だが、彼の研究成果は、軍部から「より効率的な魔物討伐術」への応用を期待されている。自身の探求心が、結果的に彼らを兵器利用へと導いてしまうのではないか――その生命倫理のジレンマが、若き天才の心を重く苛んでいた。


 ◇


 王宮の一室では、リリィが分厚い会計報告書の山に目を通していた。


 エルネストの商会でその才能を完全に開花させた彼女は、今や国王レオナルドの信頼も厚く、国の財政改革にも深く関わっている。


「…リリィ嬢の提案通り、新たな交易路を整備したことで、王都の物流は飛躍的に改善された。感謝する」


 レオナルドからの賛辞にも、彼女の表情は晴れない。


「ですが陛下、その裏で、旧街道沿いの多くの宿場町が寂れ、職を失う者たちも出ております。国全体が豊かになるための改革だと頭では分かっていても…」


 目の前で零れ落ちていく小さな幸せを、どうしても無視することができない。理想と現実の狭間で、彼女は商人として、そして一人の人間としての無力さを感じ始めていた。皆を幸せにするための道が、誰かの不幸の上に成り立っている。その事実が、少女の肩に重くのしかかっていた。


 ◇


 王国騎士団の訓練場には、鋭い剣戟の音と、怒声が響き渡っていた。


「団長! 我々は、そのような曲芸じみた剣技を習いに来たのではありません! 王国騎士団には、伝統と格式ある剣技があるはずです!」


 そう声を荒げるのは、家柄を誇る古参の騎士だった。


 史上最年少で騎士団長に就任したハンスは、実戦を重視した合理的な訓練方法を導入しようとしていたが、それが伝統を重んじる古参騎士たちの猛烈な反発を招いていた。


「俺のやり方が気に入らないなら、力で俺を止めてみせろ!」


 ハンスは実力で彼らをねじ伏せることはできる。だが、それでは組織はまとまらないことを、彼も分かり始めていた。元孤児という出自へのやっかみも根強い。ただ強いだけではない、人心を掌握するリーダーとしての器量が、今の彼には求められていた。


 セレスティーナは、夜になってそれぞれの場所から戻ってきた彼らから、あるいは側近からの報告で、子供たちの葛藤を知った。


 彼らはもう、自分の庇護の下で無邪気に笑う子供ではない。


 それぞれの世界で、責任を背負い、理想と現実の壁にぶつかりながら、必死に戦っている一人の人間なのだ。


「…みんな、大きくなったのね」


 セレスティーナは、頼もしさと、ほんの少しの寂しさを感じながら、夜空を見上げた。


 国を改革すること。隣国を救うこと。それは、自分一人の戦いではない。この愛すべき家族たちと共に乗り越えていくべき、新たな試練なのだと、彼女は静かに覚悟を固めるのだった。

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