みずあそび
壊れたのは自分か……それともナニか……
「お兄ちゃん、また水遊びしようよ」――
夕焼けが差す夏の庭。妹の声だけが、いまも耳にこびりついている。
妹がいなくなったあの日から、家の中は冷えきっている。母は食事を作るたびに涙を流し、父の酒の瓶が日に日に増えていった。食卓では誰も目を合わせず、妹の席だけがぽっかりと空いている。
警察は何度も家にやってきた。母は「うちの子は、その日はずっと家の中にいたんです」と涙で声を震わせて答える。その横で、ぼくはずっと俯き、爪をいじっていた。
記憶が、ところどころ抜け落ちている。妹と何をして、どこで別れたのか――何度思い出そうとしても、どうしても、その部分だけが濁った水の中あって触れられない。
でも、ひとつだけはっきりと覚えている。「どっちが長く潜れるか、勝負だよ」誰が最初に言ったのか……
そう言って無理やり引きずり込み、逃げようとする何かを強く握った感触。
あの時、アレはどんな表情をしていたんだろう。
水面に浮かぶ空っぽの視線だけが、夢に出てきて、ぼくを見つめ返す。
夜になると、家じゅうが異様に寒い。浴室から水音がする。
ふと見ると、鏡の隅にアレの後ろ姿が映る。
「お兄ちゃん、待ってるよ」
あぁ……アレは妹だ。
寝ている間、耳元を濡れた小さな手が撫でていく。何度も、何度も。
日を追うごとに家族は壊れていった。
母は何かに取り憑かれたように、毎晩プールの水を確認しに行く。「まだ消えないのね」とつぶやき、何もない水面に向かって話しかける。
父は母を責め、母は父を睨みつける。「あの子はもういない」「全部終わったはずなのに……」喧嘩が絶えなくなった。
――妹が消えた夏、母が一度だけ、真夜中にぼくの布団へきて震える声で言った。
「大丈夫よ、ぜったい大丈夫。お母さんが全部、隠してあげたんだから……」
その手は冷たく、どこか濡れている気がした。
秋になると、父は家に寄りつかなくなった。母は部屋でじっと壁を見つめている。
気がつくと、庭のプールには必ず水が溜まっている。誰も使っていないはずなのに――
朝方、ぼくは夢の中で何度も溺れる。水の中、妹の手が足首に絡みつき、笑っている。「お兄ちゃん、おぼえてる?」「早く、こっちにきてまた水遊びしよ」
ある日、家の壁に爪痕のようなものが現れた。夜になるとその爪痕からは水滴がぽつぽつ滴り落ちてくる。
母がぼくに怯えた目を向ける。「ごめんね……ごめんなさい……もう許して、許して……」
母は、その夜を最後に家を出て行った。
家は無人になった。
でも、夜になるとびしょ濡れの小さな足跡が玄関から奥、浴室まで伸びている。
鏡を見ると、背後に妹が立っている。膨れた顔、無表情の目、濡れそぼった髪にピンクの髪飾り。
「お兄ちゃん。あのとき、ずっと手を離さなかったよね?」
ーーあぁ、思い出した。
妹の小さな体を、勝負だと力いっぱい沈め、苦しむ顔を笑いながら見ていた幼い自分。
母の叫び声、抜かれていくプールの水、青白い妹の顔、消えたピンクの髪飾り。
どれだけ目を背けても、妹の声が家中に響く――
「お兄ちゃん、まだ終わってないよ。ずっと一緒だよ」
翌朝、近所の人が見つけたのは、水が溜まりすぎて壊れたビニールプールだけだった。