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紛れもなくクズ

笹島正人は、紛れもなくクズだった。

一見すると誠実で真面目な雰囲気をまとった、どこにでもいる地味なサラリーマン。

結婚すれば家庭を大事にし、堅実な人生を送る男に見えた。

だが、その実態は社内でも取引先でも、果ては街ですれ違っただけの女性でさえ、誰でも口説いては手を出す、欲望の塊のような人間だった。

とにかく手当たり次第に口説き落とし、抱き、そしてまた次を求める。

二股どころか、増え続ける女たちをもはや自分では処理しきれなくなっていた——それが笹島正人という男の本性だった。

誰もが「いい人」と言う男だった。

上司には腰が低く、部下には面倒見がよく、飲み会では率先して場を盛り上げる。

家庭的で、両親にも優しい。

──だからこそ、女たちは疑わなかった。

「……ねえ、正人さん、本当に奥さんはいないんだよね?」

ベッドの中、頬に乱れた髪を貼り付かせたまま、祐子が不安そうに訊いた。

正人はおかしそうに笑い、指先で彼女の頬を撫でる。

「はは、またそれか。いないよ、いたら君とこんなことしないだろ?」

祐子は安堵したように目を閉じ、胸に顔を埋める。

正人の視線は彼女の後ろ、暗い天井の一点を見つめていた。

その夜、スマホには別の女からの未読が五件。

明日は取引先の秘書とランチの約束、夜には同僚の新人と飲みに行く予定だ。

──欲望の歯止めはどこにもなかった。

だが、正人の頭の片隅にはいつも薄い恐怖があった。

増え続ける女。バレたとき、すべてが崩れる音を、夢の中で何度も聞いていた。

それでも、やめられない。

明日も、あさっても、正人は女を求めるだろう。

どこかで破滅の種を抱えたまま──。


春、新入社員の配属が発表された日、笹島正人の目は一人の若い女性に止まった。

名前は、佐藤美咲。二十二歳、大学を出たばかりの、どこにでもいる素朴な雰囲気の新人だった。

人事の自己紹介で赤くなる頬を見て、正人は確信した。

――これは、落とせる。

最初は仕事を教えるだけ。

コピーの取り方、メールの書き方、取引先への電話対応。

「ここはこうすると上手くいくんだよ」

「何かあったら俺に相談して」

優しい先輩を演じるのは、正人にとって呼吸のように自然だった。

「笹島さん、いつもありがとうございます」

休憩室で缶コーヒーを渡してきた美咲の指先が、小さく震えているのに気づいて、正人は微笑んだ。

「こんなことでお礼なんて、気にしなくていいんだよ」

軽く肩に触れる。その一瞬の距離の近さを、美咲は意識しないわけがない。

誰も見ていない、二人だけの空気。

正人は、この「小さな秘密」を積み重ねていくのが得意だった。

数週間後。

「美咲ちゃん、たまには息抜きしようか。先輩からの歓迎会ってことで」

彼女が少し迷ったふりをしたのを見て、心の中で笑った。

断るわけがない。新人にとって、先輩からの誘いは命令と同じだ。

そして夜、人気の少ない駅前の居酒屋の個室で、美咲はもう一度、正人のやさしい声に体を預けることになる――。




最初の飲み会の夜、終電の時間をぎりぎりまで引き延ばして、正人は美咲の弱い部分を探った。

「最近、慣れない仕事で疲れてるだろ?」

「一人暮らしって大変だよな、ちゃんと食べてる?」

問いかける声は、まるで家族のようで、時に恋人のように優しかった。

駅までの暗い道、足元を気遣ってくれるその手に、美咲は胸の奥が温かくなるのを感じていた。

電車に揺られて帰るときには、すでに正人のことばかり考えていた。

こんなふうに自分を大事にしてくれる人がいるなんて――。

次の日から、美咲は自分でも驚くほど、正人の言葉に影響されていた。

「笹島さんにほめてもらいたい」

「笹島さんに頼りにされたい」

もっと役に立ちたい、もっと話したい。

些細なLINEのやりとりさえ、宝物のようにスクリーンショットしては寝る前に読み返した。

「美咲ちゃん、困ったことない?」

「なんでも話していいんだよ?」

仕事の後、駅まで送ってくれるのは当たり前になり、時にはファミレスで軽く夕飯を食べ、彼の手がふいに触れるだけで心臓が跳ねた。

美咲の方から誘うことも増えた。

「もし迷惑じゃなかったら……またご飯行きたいです」

その声に、正人はいつも優しく頷く。

気がつけば、休みの日も彼と会いたいと思うようになっていた。

まだ正式な恋人ではない。

でも、美咲にとってはもう、ほとんど恋そのものだった。

正人のためなら何でもしたい、と思っていた。

――その頃には、美咲の知らないところで、同じように彼に溺れた女が何人もいることなど、夢にも思わなかった。




六月の終わり、湿った夜風がビルの谷間を吹き抜けていた。

その日も残業を手伝ってくれた美咲を、正人は当然のようにエレベーターまで送り、そのまま駅とは逆の方向へと足を向けた。

「今日はもう遅いし、タクシーで送っていくよ。」

「でも……お金、もったいないです……。」

「いいから、心配するな。」

美咲は従順に頷くしかなかった。

正人の手が、そっと背中に触れる。それだけで、鼓動が苦しいほど早くなる。

タクシーの中、美咲は外の夜景に目を向けながら、唇を噛んだ。

(今日は帰りたくない……ずっと一緒にいたい……。)

何も言えないまま、車は正人のマンションの前で止まった。

「……少しだけ、お茶でも飲んでいく?」

静かにそう言った声に、断れるわけがなかった。

部屋に入った瞬間、わずかに漂う男性の香水と生活の匂いに、心がふわりとほどけていく。

カップを持つ手が小さく震えた。

正人はそんな美咲の髪を、優しく撫でた。

「大丈夫だよ。美咲ちゃんは、俺が守るから。」

その言葉がすべてを決壊させた。

唇が触れた瞬間、もう止められなかった。

服が滑り落ち、熱を帯びた肌が重なる。

どこかで「これで恋人になれる」と思っていた。

これで、ようやく自分だけの正人さんになるのだと。

美咲は何度も名前を呼んだ。

正人は何度も「かわいいよ」と囁いた。

ひどく甘くて、ひどく優しい一夜だった。

──そして夜が明けるころ、正人はいつものように微笑んだ。

「これからも、俺だけを頼っていいからな。」

美咲はその言葉を信じきっていた。

けれど彼のスマホには、すでに別の女からの「会いたい」という通知が光っていた。




一線を越えてからの美咲は、明らかに変わった。

同僚たちの前でも、隠しきれないほど表情が柔らかくなり、ふとした拍子にスマホを眺めて微笑む姿を誰もが目にした。

「最近、佐藤さん、なんか可愛くなったよな」

「メイク変えた? なんか色っぽくない?」

休憩室で交わされる小さな噂話も、本人の耳には届かない。

美咲はただ、正人からの未読のLINEをじっと見つめ、返信を待っていた。

正人も、仕事中は変わらず「頼れる先輩」で通している。

それがまた、美咲の心を満たした。

――私だけが知っている、優しい正人さん。

誰も知らない彼の素顔を、自分だけが知っているという優越感が、胸を甘く満たす。

ある昼休み、美咲は先輩女子に何気なく言った。

「笹島さんって、すごく優しいですよね……ほんと、すごく……」

わざとらしくはない。でも、どこかに特別な響きを含ませた声だった。

「え? まあ、そうね……頼りになるし、いい人だよね」

先輩たちは苦笑しつつも、その「含み」に気づいた者もいた。

目を合わせてヒソヒソと視線を交わす。

週明けには、美咲の爪はほんのりと色づき、前より華やかな香水をまとっていた。

エレベーターで正人と二人きりになると、恥ずかしそうに視線を絡め、頬を赤らめる。

それを後ろの女子社員が見ているのを、彼女は知っていてやっている。

「……私の人なんだよ」

言葉にはしなくても、その空気を、周囲に少しずつ滲ませていった。

ただ、彼女が夢中で自分だけの幸福を噛み締めている裏で、正人のスマホには別の名前が次々と浮かんでは消えていった。

美咲はまだ、何も気づかない。

――今のところは。




金曜の夜、美咲は仕事を終えると、意を決したように正人のデスクに近づいた。

「笹島さん……今夜、少しだけお時間もらえませんか?」

声は小さく、けれど瞳は期待で輝いていた。

先週の夜の続きを、心の奥で願っているのは誰の目にも明らかだった。

正人は一瞬だけ視線を合わせ、すぐに優しい笑みを作った。

「ごめんな、美咲ちゃん。今夜はちょっと予定があって……」

「……予定?」

「取引先の人と、ね。大事な話だから。」

嘘ではなかった。ただし「大事な話」の中身は、仕事の報告よりもずっと生々しい別の意味を含んでいる。

美咲は唇を噛んで俯いた。

「……そうなんですね。仕方ないですよね。」

「また今度な。埋め合わせするから。」

そう言って肩を軽く叩くと、正人は書類を鞄に詰め、さっさと背を向けた。

振り返らずにエレベーターに乗るその背中を、美咲は潤んだ目で見つめるしかなかった。

会社を出た正人は、夜の街を足早に抜けていく。

スマホを開くと、画面には取引先の女性――商社の担当者、川島奈緒からのメッセージが並んでいた。

《今日楽しみにしてます!》

《お店、個室にしときました♡》

彼女は仕事上の付き合いでは少し厄介な相手だが、口説くにはちょうどいい。

断れない立場の女は、正人にとって最も都合がいい獲物だった。

居酒屋の奥の個室。

正人の隣で、奈緒は赤い唇を近づけてくる。

「笹島さん、本当に頼りになるんだから……」

「お世辞はいいって」

指先がテーブルの下で絡む。

美咲の小さな期待を踏みにじった直後でも、正人の心には一切の呵責はなかった。

この女も、所詮は同じ。

誰でもいい。ただ欲を満たすための夜。

ただ一つ違うのは、美咲だけがまだ、その現実を知らないということだった。


個室のドアが閉まった瞬間、奈緒はどこか緊張したようにグラスを両手で持っていた。

まだ二杯目だというのに、頬はほんのり赤く、視線が正人のネクタイの結び目を何度も追っている。

正人はそれを楽しそうに眺めながら、ビールを一口飲んだ。

「奈緒さん、最近忙しいでしょ。無理してない?」

優しい声で、名前を呼ぶ。それだけで女は少しずつ心の防波堤を下げていく。

「笹島さんがいるから、頑張れてますよ……ほんとに。」

「そんなの、俺がつらくなるじゃないか。」

正人はわざと冗談めかして笑い、奈緒の手首をそっと取る。

「……え、ちょ……」

「ごめん、こういうの嫌だった?」

奈緒の肩が小さく震えた。グラスの中の氷が、カラン、と音を立てて溶ける。

「やだ……じゃない、です……。」

彼女の吐息は熱くて甘い酒の匂いがした。

正人はテーブル越しに、指先で奈緒の髪を一房だけすくい取る。

「ほんとに頑張りすぎなんだよ。奈緒さんは。」

「……笹島さんにそんな風に言われたら、力抜けちゃいます……。」

「なら、俺にだけは甘えてもいいんだよ。」

「……でも……取引先の人に……」

言葉の端が震える。迷いを残しているのはわかっている。

だから正人はさらに近づき、耳元に囁いた。

「仕事は仕事。俺は、男として奈緒さんに会ってるんだよ。」

奈緒の目が一瞬、大きく開いた。

それから諦めたように、ゆっくりと伏せられた。

グラスをテーブルに戻した指先を、正人の手が絡め取る。

女はもう抵抗しない。

「……ずるい人……」

奈緒がかすれた声でそう呟いた時、正人は心の中で勝利を確信した。

また一人、欲望の渦の中に沈んでいく。

あの新人の美咲と同じように。



店を出たころには、湿った夏の夜風が、二人の熱を冷ますどころか、逆に身体の奥を疼かせていた。

正人の手は、もう離さない。

奈緒は周囲の視線を気にして、小さく肩をすくめたが、手を振り払うことはしなかった。

「……ほんとに、いいんですか……? こんなこと……」

小さな声が、夜の大通りにかき消される。

取引先の担当者として、立場をわきまえなければならない。

それは奈緒自身が一番わかっていた。

こんなこと、許されるわけがない。

だが、正人の視線が、指が、耳に落とす低い囁きが、

理性という薄い壁を簡単に崩してしまう。

(私だけは特別だって……言ってくれた……。)

言い訳が欲しかった。

「私は他の人とは違う」――

そう思わせてくれる人に、すがりたかった。

いつの間にか、タクシーのドアが開いていて、正人が奈緒の背をそっと押した。

「大丈夫。俺に任せて。」

運転手に告げる行き先は、当たり前のように駅前のビジネスホテルだった。

車内で、奈緒は正人の肩に頭を預けた。

心のどこかが痛んだが、もう戻れないと分かっていた。

ホテルのカードキーを手渡されたとき、奈緒は最後に小さく呟いた。

「……笹島さん、本当に私だけ……?」

「もちろんだよ。」

正人は躊躇なく嘘をついた。

そしてその夜、また一つ、秘密の温度が積み重なる。

美咲にも、他の誰にも知られないはずの、二人だけの時間。

だが奈緒はまだ知らなかった。

この“特別”が、どれだけ安くて残酷なものかを――。




朝、薄いカーテンの隙間から差し込む光が、奈緒の瞼をくすぐった。

ホテルのシーツの中、隣にはまだ寝息を立てる正人の姿。

見慣れたはずのスーツとは違う、素顔の彼の寝顔に指を伸ばしてみる。

でも、触れる寸前で手を引っ込めた。

(……私、何してるんだろう。)

ベッドの端に座り直すと、昨夜の記憶が熱を帯びて蘇る。

仕事の話なんて途中で消え失せた。

自分から誘ったような言い訳を、心のどこかで捏造している自分が嫌だった。

取引先の人間として守るべき距離。

社会人としての自尊心。

全部投げ出して、女として抱かれた。

「……最低だ、私……。」

奈緒は小さく声に出してみた。

それでも罪悪感は薄れなかった。

――だけど、抱かれている間だけは、苦しかった仕事のストレスも、寂しさも、全部忘れられた。

正人の低い声が、柔らかく囁いてくれた言葉を思い出す。

「奈緒さんは頑張りすぎなんだよ。」

その一言だけで、どれだけ救われたか。

わかっているのに、都合のいい優しさだとわかっているのに、離れられない。

ベッドの上で寝返りを打った正人が、うっすら目を開けて奈緒を見た。

「おはよう。起きたの?」

その何でもない一言に、心臓がまた高鳴ってしまう自分が悔しい。

「……おはようございます……。」

声が震えないように必死だった。

すぐに服を整えて、この部屋から出なくちゃ。

取引先の人間としての顔を取り戻さなくちゃ。

けれど、正人が寝起きのまま腕を伸ばして、奈緒をまたシーツの中に引き戻した。

「もうちょっとだけ、いいだろ……?」

首筋に唇が触れた瞬間、奈緒の小さな理性はまた、音を立てて崩れていった。



タクシーの窓に映る自分の顔を、奈緒はまともに見られなかった。

朝のラッシュより一足早い時間、ホテルから出て、駅までの道を一人で戻る。

さっきまで隣にいた男は、もう次の取引の電話をかけているだろう。

夜のあの人と、仕事中のあの人――

同じはずなのに、どうしても繋がらない。

(……もうやめよう。次はない。)

唇を噛んで、心の中で必死にそう繰り返す。

この関係が続けば、いずれ会社にも噂は漏れる。

社内で笑いものになり、取引先からも信用を失う。

そんなことは分かり切っているのに、またあの腕に捕まれば抗えない。

「……弱いな、私。」

小さく自嘲の息をこぼした。

スマホを開けば、正人からのメッセージは一行だけ。

《無事着いたら教えてな。》

それだけで心がまた温かくなる。

まるで恋人のような、嘘の優しさ。

(……好きなわけじゃない。ただ、必要だっただけ。)

必死に言い聞かせても、昨夜の柔らかい声や、耳元に落ちた囁きが何度も蘇る。

自分だけが特別なんだと、信じさせるあの笑顔。

あれが欲しくて、何もかも見ないふりをしてしまう。

電車が揺れるたびに、心も揺れて落ち着かない。

『二度とこんなことはしない』

朝、誓ったはずの言葉が、昼にはもう脆く溶けるとわかっている。

(やめたいのに……やめられない……。)

思わず、ハンドバッグを抱きしめるように握りしめた。

誰にも見せられない、恋にもなりきれない愛情が、また彼女をずるずると夜へ引き戻していく。



翌週の水曜日の午後。

美咲は社内の打ち合わせで、取引先の川島奈緒と同席した。

以前から顔を合わせたことは何度もあったが、今日はどこか様子が違う。

奈緒は書類を読み上げる声が小さく、時折ぼんやりと遠くを見ている。

少し痩せたようにも見えた。

(……なんだろう、この人……いつもはもっとピシッとしてるのに……。)

美咲は自分でも気づかないうちに、奈緒の手元や表情を何度も盗み見ていた。

淡いピンクのネイルに、小さな欠けを見つけて妙に胸がざわついた。

(寝不足……? それとも……。)

打ち合わせが終わり、資料をまとめるとき、美咲は思い切って声をかけた。

「川島さん……最近お疲れじゃないですか? 大丈夫ですか?」

奈緒は一瞬びくりと肩を震わせ、すぐに微笑んだ。

「えっ、あ……ごめんね。ちょっと寝不足なだけだから。」

笑顔は作り物のように張り付いていて、すぐに視線をそらした。

(……なにか隠してる……?)

普段の奈緒なら、こんな曖昧な返事をする人ではない。

正人と話しているときだけは、妙に柔らかい笑顔を見せるのも、最近気になっていた。

美咲は胸の奥に、小さな針を刺されたような違和感を覚えた。

(……まさか、そんな……。)

あの優しい正人さんが、取引先の川島さんと……?

頭を振って打ち消す。

自分だけが知っている“特別な正人さん”が、他の誰かとそんなことをするはずがない。

――でも、心の奥で、柔らかな嘘が薄くほころび始めていた。



美咲が小さな不安を抱えたまま、デスクに戻って資料を整理しているころ。

そのすぐ横の会議室では、正人が別の“獲物”に目を向けていた。

彼女の名前は村井沙織。

正人の同期で、入社当時から地味で真面目、どちらかといえば仕事一筋で恋愛ごとには縁遠いと言われてきた女性だ。

けれど、最近は後輩の教育係を任され、少しずつ化粧を覚え、髪を伸ばし、ふとした瞬間に女の顔を覗かせるようになっていた。

正人は、そんな小さな変化を見逃さない。

「沙織、最近ずっと残業続きだろ? 大丈夫か?」

会議室で二人きりになると、声をかけるタイミングを決して逃さない。

「え……? あ、うん……まあ、なんとか……。」

疲れた声と、目の下のうっすらとした隈。

しかしそれすら、正人には無防備で隙だらけに見えた。

「ちゃんと飯食ってるか? 倒れたら大変だぞ。」

「……そんなに心配しなくても……子どもじゃないんだから。」

苦笑しながらも、沙織はどこか嬉しそうに視線を伏せた。

同期とはいえ、今では部署も違い、こんな風に気にかけてくれるのは正人だけだ。

その孤独を、正人は知っていた。

「じゃあ、たまには同期会ってことで飯でも行くか。」

「え? ……同期会って……二人で?」

「いいじゃないか、俺とお前、もう長い付き合いだろ。」

優しい笑顔で肩に触れる。

ただの友達だからと、沙織の警戒心はあっさり緩む。

もう何度も繰り返してきた誘い方。

美咲にも、奈緒にも効いた手口。

「……じゃあ、一回だけ……。」

沙織が小さく笑った瞬間、正人は心の中でまた一つ、欲望に印をつけた。

“同期”という絶対的な信頼を、崩す快感を想像するだけで喉が乾いた。



金曜の夜、まだ人もまばらな路地裏の居酒屋。

正人と沙織は、並んでカウンター席に座っていた。

にぎやかな声が響くテーブル席から少し離れているだけで、ふたりの世界はずっと近く感じられる。

「久しぶりだな、こうして沙織と飲むの。」

正人がグラスを掲げると、沙織も小さく笑ってグラスを合わせた。

「ほんと、何年ぶりだろうね……入社したころは、毎日のように一緒に残業してたのに。」

思い出話に頬を緩める沙織の横顔を、正人はさりげなく観察している。

薄く化粧をした瞼、艶を増した髪、耳たぶに小さく揺れるピアス――

数年前の「同期の村井沙織」にはなかった女の匂いが、今はそこにあった。

「沙織、変わったな。」

ふと漏らすように言うと、沙織は驚いたように目を見開いた。

「えっ……どこが……?」

「昔は仕事ばっかりで、自分のことなんて二の次だったろ?

今はすごく……綺麗になった。」

言い終わる頃には、沙織の耳まで赤く染まっていた。

笑ってごまかそうとするが、指先は落ち着かずに箸を弄ぶ。

その小さな動揺に、正人は内心でほくそ笑んだ。

「……そんなこと言われたの、初めてかも。」

「同期だからこそ気づくんだよ。沙織の頑張ってるところ。」

目をそらさずに言葉を重ねると、沙織の視線が正人の唇に一瞬だけ落ちる。

その視線を正人は見逃さない。

二軒目に行く頃には、沙織の酔いはほどよくまわっていた。

隣に座った正人の肩に、身体を少し預けるようになっている。

「……ねぇ、正人……」

呼び捨てに戻った名前が、もう理性の緩みを物語っていた。

「ん?」

「私さ……正人がいてくれてよかった……。なんか、すごく……安心する。」

甘い息が耳にかかる。

まるで美咲や奈緒のときと同じように、正人の腕の中に、また一人溺れていく。

それを知りながら、正人はそっと沙織の手を握った。

「……俺もだよ、沙織。」

低く優しい声が、沙織の不安を溶かしていく。




二軒目の小さなバー。

淡い間接照明の下で、正人の隣に座る沙織は、すっかり肩の力が抜けていた。

グラスの中のカクテルを指でなぞりながら、伏せたまつげの奥に、どこか幼い影を残している。

「……正人ってさ、昔から変わんないよね。」

「そうか?」

「うん……誰にでも優しくて、でも時々すごくズルい。」

冗談めかした言葉に、正人は口元だけで笑った。

「ズルいって?」

「……そういうとこ。」

沙織は小さく息をつき、ゆっくりと正人に視線を向けた。

店内のざわめきが遠くなる。

酔いのせいか、胸の奥に長い間しまっていた感情が、するりと口をついて出てくる。

「……ずっとね、羨ましかったの。

正人は、どこにいても周りに人がいて……みんな正人に頼って……。

私なんて、誰にも必要とされてないんじゃないかって思ってた。」

その声には、あの真面目で固い沙織を知る人なら信じられないほどの弱さが滲んでいた。

正人は黙って沙織の肩に腕を回す。

軽く触れただけなのに、沙織の身体が小さく震えた。

「そんなことない。」

低く、迷いのない声が沙織の耳に落ちる。

「俺はずっと見てた。お前がどれだけ頑張ってるか。

誰よりも支えてあげたいって……ずっと思ってたよ。」

優しい嘘が、沙織の心の隙間に染み込んでいく。

「……正人……」

沙織の瞳に、ほんのり涙がにじむ。

頼りたくても誰にも頼れなかった寂しさを、今だけは彼に全部預けてしまいたいと思った。

その夜の空気は、もはや同期同士の空気ではなかった。

沙織はもう知っている。

この腕の中でなら、弱い自分を隠さなくてもいいのだと――。




バーを出たころには、沙織の頬は赤く、正人の腕に絡めた指先はかすかに震えていた。

「送っていくよ。」

当たり前のように言われて、沙織は小さく頷く。

まるで会社の飲み会帰りに同期の家に立ち寄るだけ――

そう自分に言い訳をしながら、タクシーに乗り込んだ。

車内の灯りが沙織の横顔を照らす。

正人は静かにその手を握り、親指で甲をなぞった。

沙織はもう、何も言わなかった。

ただ少しだけ指をきつく絡め直し、窓の外に視線をそらす。

(……こんなの、いけないのに……。)

頭ではわかっている。

けれど、胸の奥は正人の体温を待ち望んでいる。

タクシーが止まったのは、小さなビジネスホテルだった。

「……ここ……」

「今日はもう帰るの大変だろ? 少し休んでいけよ。」

優しく、でも拒めない声。

沙織はふっと笑って、観念したように正人の腕に寄り添った。

エレベーターの扉が閉まる頃には、もう彼女の理性は遠い場所に置き去りだった。

部屋のドアが閉まる音と同時に、正人の指が沙織の頬を撫でる。

一度触れたら、後戻りなんてできない。

けれど沙織は、怖さよりも救われるような安心を選んでしまった。

「……正人……お願い……今だけ……」

その囁きに、正人はためらわずに唇を重ねた。

同期として築いた時間は、今夜だけの甘い背徳に溶けていく――。


翌朝。

正人はすでにスーツを整え、沙織の髪を優しく撫でていた。

「……俺だけに頼ればいいから。」

信じさせる言葉をひとつ置いて、沙織をベッドに残して部屋を出る。

携帯には、美咲からの小さなメッセージが届いていた。

《昨日、連絡取れなくて心配しました。今日は会えますか?》

正人は口元を綻ばせて、そっと返信を打つ。

《ごめん。今日埋め合わせするから。》

沙織のまだ温もりの残る部屋を背に、

奈緒の罪悪感、美咲の純粋な期待、

そして沙織の新しい恋心――

それらすべてを巧みに操りながら、正人の嘘はさらに深く積み重なっていく。




週明けの月曜日。

沙織はいつもより早く出社した。

眠れない夜を越えてなお、瞳の奥には微かに光が宿っている。

鏡に映る自分の髪を整え、ピアスを小さなものに付け替えると、

(……正人にだけ、ちゃんと見てほしいな……)

そんな想いが自然に胸を満たしていた。

社内で正人とすれ違うたびに、心臓が跳ねる。

二人だけが共有する“秘密”が、沙織の孤独を満たしていた。

たとえ誰にも言えなくても、正人だけは自分を見てくれる――

それが、沙織にとっては初めての救いであり、恋だった。

昼休み、人気の少ない給湯室。

偶然を装って正人と鉢合わせる。

「……お疲れさま。」

小さく挨拶をすると、正人はにこりと笑って自分のカップにお茶を注いだ。

「お前も、無理してないか?」

その言葉だけで、胸の奥がきゅっと熱くなる。

「……昨日は……ありがとう。」

消え入りそうな声で沙織が言うと、正人は誰もいないのを確かめて、そっと沙織の髪を撫でた。

短いその仕草に、沙織は体が溶けてしまいそうになる。

「また……会いたいな。」

言葉が漏れたのは無意識だった。

正人はその耳元で低く笑うと、唇を近づけてささやいた。

「俺もだよ、沙織。」

たったそれだけで、沙織の理性はまた少し遠のいた。

もう普通の“同期”には戻れない。

それでもいい。

他の誰が何を言っても、正人だけは自分を求めてくれる――

そんな甘い錯覚が、沙織を深い恋へと突き落としていくのだった。




それから数日。

沙織は気がつけば、いつも正人の姿を目で追っていた。

休憩室で後輩と談笑する姿、会議室で後輩の美咲に優しく資料を教えている姿――

どれも以前なら何とも思わなかったはずなのに、

今は胸の奥がじくじくと痛む。

(……なんであの子にあんな顔するの……)

頭では理解している。

正人は誰にでも優しい人だと。

だからこそ、あの夜、自分だけに向けてくれた言葉とぬくもりが特別だと信じているのに。

それでも、視界に映る美咲の笑顔が無性に憎らしい。

同じ“後輩”として可愛がられているとわかっていても――許せない。

昼休み、廊下の自販機の前。

沙織は思わず美咲を呼び止めた。

「あ……村井先輩、こんにちは!」

にこっと無邪気に笑う美咲に、沙織の心の奥で黒い感情が渦巻く。

「……最近、笹島さんと仲良いの?」

自分でも驚くほど低い声が出た。

美咲は一瞬、目を丸くしたあと小さく笑って首を振った。

「えっ、仲良いっていうか……お世話になってるだけです。私、まだ仕事覚えられなくて……。」

その無防備な笑顔が、余計に苛立たしい。

(……私だけの人なのに……。)

唇を噛んで、沙織は言葉を飲み込んだ。

ここで何を言っても、正人はきっと美咲を庇うだろう。

それがわかっているからこそ、胸の奥の嫉妬はやり場をなくして渦を巻いた。

夜、沙織はまた自分から正人にメッセージを送っていた。

《今夜……少しだけ、会えませんか?》

会わないと、不安で眠れない。

自分の特別を確かめないと、誰かに奪われてしまいそうで――。

正人からの返信はいつも通り、優しく甘かった。

《いいよ。沙織だけだから、大丈夫だよ。》

その言葉だけを拠り所にして、沙織は再び正人の嘘に溺れていった。




ある日の昼休み。

美咲は自席でお弁当を広げながら、ふと斜め前の沙織の様子を見た。

沙織は書類をまとめる手を止めて、美咲をじっと見ていた。

すぐに目を逸らしたけれど、その視線には明らかに柔らかさはなかった。

(……最近、村井先輩の雰囲気……なんだか怖い。)

ここ最近、何度か似た視線を感じていた。

他愛ない雑談をしているとき、

コピー室ですれ違うとき、

給湯室でお茶を淹れているとき――

いつの間にか沙織の目は、美咲を通り越して何かを探るように光っている。

そんなことがあった日の午後、正人が美咲の席に立ち寄った。

「美咲、ここの資料だけど、あとで少し説明してやるよ。」

優しい声に思わず安心して、「ありがとうございます」と微笑む。

それを、数席後ろから沙織が見ていることに、美咲は気づいていた。

声はかけないが、その視線は確かに刺さる。

(私……何かしたのかな……?)

心当たりはなかった。

先輩として憧れていた村井沙織。

いつも厳しいけれど、面倒見の良い人だと信じていたのに――

最近は、笑顔を見せてくれなくなった。

その夜、美咲はベッドに寝転びながらスマホを握りしめた。

LINEの画面には、何度も打っては消した文字。

《笹島さん、最近……村井先輩と何か……》

でも、送れなかった。

こんなことを聞けば、自分が変に疑っているみたいだ。

それに、正人さんは何も悪くない。

(私が気にしすぎだよね……。)

小さく自分に言い聞かせて、スマホを伏せた。

けれど心の奥で、じわりと生まれた不安は、もう消えてくれそうになかった。




春先の繁忙期を越え、会社には数人の新しい顔が加わった。

フロアの空気は慣れない若手たちの緊張で張り詰めている。

そんな中、正人はさりげなく新人の一人――佐々木春菜に目を留めた。

大人しそうで、どこか頼りない笑顔。

小動物のようにおどおどした目が、正人にはたまらなく新鮮だった。

「佐々木さん、大丈夫か?」

人目につかない倉庫室で、正人が背後から声をかける。

「えっ……あっ、笹島さん……す、すみません、探し物が見つからなくて……」

焦って俯く春菜の肩を、正人はそっと抱えるように支えた。

「いいって、俺が一緒に探してやるから。」

耳元で低く囁かれた声に、春菜の肩がびくりと震える。

――怖い。

でも、どこか安心する。

そんな混ざり合った感情が、春菜の頬を赤くした。

結局、探し物はすぐに見つかり、春菜は深々と頭を下げた。

「笹島さん、ありがとうございます……!」

正人は優しく笑い、ポケットから缶コーヒーを取り出して渡した。

「頑張ってるな、佐々木さん。

……今度、時間あるときにでも、悩みとか聞いてやるよ。」

自分だけに向けられたように感じるその言葉が、春菜の胸にじんわりと広がった。

(笹島さん……やっぱり、優しい人だ……)

新人歓迎会の幹事として忙しく走り回る彼女の姿を、正人はどこか愉しげに目で追っていた。

美咲の不安も、沙織の嫉妬も、奈緒の罪悪感も――

そんなものは関係ない。

新しい欲望が正人の中で、またひとつ芽を出していた。




新人歓迎会の翌週。

会議が終わった後のフロアで、沙織は何気なく正人の席の方を見た。

ちょうど、新人の佐々木春菜が正人に資料の束を手渡している。

顔を赤くして、何かをぽつぽつと説明する春菜に、

正人はいつものあの柔らかな笑顔を向けていた。

軽く頭を撫でる仕草さえ――当たり前のように。

(……また、始まったの……?)

心臓がひりつくように痛んだ。

沙織は席を立つと、無意識に春菜の方へ歩み寄った。

「佐々木さん、ちょっといい?」

春菜は小さく肩を震わせて振り返る。

「は、はいっ……村井先輩……」

「このデータ、修正が必要なの。私がやっておくから、次からは確認してから出してね。」

声は冷たくなかったが、その瞳は冷えていた。

春菜はすぐに小さく縮こまり、「すみません……」と何度も頭を下げた。

沙織の耳には、正人の小さな溜息と苦笑が届いた。

「沙織、そんなに厳しくしなくていいだろ。」

その一言が、胸をずたずたに裂く。

(……私だけだって、言ったのに……)

沙織の唇が震えた。

その日の帰り道。

沙織は正人を呼び出した。

駅近くの人通りの少ない路地裏。

「……また、新しい子、口説いてるの?」

抑えた声が、自分でも驚くほど低い。

正人は少し目を伏せ、そしておどけたように肩をすくめた。

「何言ってるんだよ。沙織だけだって。」

「嘘……また、嘘ついてる……。」

正人が伸ばした手を、沙織は振り払えなかった。

触れられた瞬間に、まだ好きだと知ってしまう自分が悔しくて――。

「……私だけでいてよ……お願いだから……。」

小さく絞り出した声は、夜風にすぐにさらわれていった。

正人は優しく沙織の頬を撫で、そしてすべてを誤魔化すように口づけた。

その一瞬だけ、沙織はまた騙される。

自分が選ばれた女だと信じて――。




歓迎会の夜から数週間。

春菜は気がつけば、いつも心の中で正人を探していた。

資料の作り方がわからないとき、電話応対で失敗したとき――

必ず誰よりも先に正人がそっと声をかけてくれる。

叱るのではなく、責めるのではなく、ただ優しく笑って「大丈夫だ」と言ってくれる。

それだけで、涙が出そうなほど救われた。

ある雨の日の残業後。

「佐々木さん、送ってくよ。」

傘を差し出されただけで胸が熱くなる。

春菜は小さく首を振ったが、正人は構わず傘を差し掛け、自分の肩を抱き寄せた。

「風邪ひくと困るだろ?」

耳元でそう囁かれて、頭の奥がじんわり痺れた。

――こんな人、他にいない。

優しくて、大人で、すべてわかってくれる人。

タクシーの中、窓を叩く雨の音だけが響く。

正人の横顔が近すぎて、春菜は無意識に唇を噛んだ。

気づかれたくないほどに、胸が苦しい。

「……私、もっと仕事できるようになりたいです。」

「そうだな。お前ならできるよ。」

頭を撫でられ、自然と体が正人の肩にもたれた。

拒めなかった。

拒む理由なんて、もうどこにもなかった。

その夜、春菜は正人と同じホテルの部屋にいた。

頬を赤らめ、何度も「すみません」と繰り返す春菜に、正人は優しく笑って何も言わせなかった。

声も、震えも、全部包み込んでくれる温もりに、春菜は完全に抗えなかった。

「……佐々木さん、可愛いな。」

その言葉だけで、春菜の世界は決まった。

(私……この人のためなら、何だって……)

翌朝、白いシーツの中で微かに残る正人の香りを抱きしめながら、

春菜は小さく笑った。

自分だけが知る秘密が、これからの自信だった。

まだ誰にも負けていない――

そう信じ込むことでしか、この恋を手放せなかった。




春菜を完全に手に入れた夜。

正人はシャワーを浴びた後、ホテルの小さなソファに腰を下ろし、スマホを弄っていた。

春菜はまだベッドの中で夢のような寝息を立てている。

目を閉じた横顔を一瞥すると、正人の表情に薄く退屈の色が滲んだ。

(次は……誰にするか。)

欲望に終わりはなかった。

春菜のように素直なタイプは簡単だ。

少し難しい獲物の方が、むしろ燃える。

頭の中に思い浮かぶのは、同じフロアの経理部の若手――

人事異動で配属されたばかりの、藤井麻衣。

落ち着いていて、一見無表情。

人懐っこい春菜や、美咲とはまるで違う。

だからこそ、微かに揺れる彼女の頬を赤らめさせる瞬間を想像すると、正人の喉奥が熱を帯びる。

翌日。

朝の社内、給湯室で。

麻衣が一人でコーヒーを淹れているのを、正人はさりげなく背後から覗き込んだ。

「藤井さん、コーヒーの好みは?」

「えっ……あ、笹島さん……私はブラックが……」

振り向いた麻衣の瞳が、一瞬だけ泳ぐ。

だがすぐに、感情を隠すように視線を落とした。

その小さな仕草が、正人の心を確信で満たす。

(……やっぱり可愛いじゃないか。)

「俺、ちょっと疲れた時は甘めにするんだよ。ほら、藤井さんも疲れてるだろ?」

そう言って、砂糖を足したマグを彼女の前に置いた。

麻衣は小さく「……ありがとうございます」と呟き、俯いたまま両手でマグを包み込んだ。

その細い指先に触れそうな距離で、正人は柔らかく笑った。

――狙いは決まった。

すでに心は別の誰かで埋め尽くされている女たちを横目に、

正人はまた新しい快楽の匂いを追い始めていた。




月末の金曜。

フロアにはささやかな達成感と、週末を前にした浮ついた空気が漂っていた。

けれど、美咲だけはモニターを見つめるふりをして、心の奥に渦巻く疑念を押し殺していた。

――最近、村井先輩と話すときの空気が怖い。

――奈緒先輩も、前より目を合わせてくれない。

――新人の佐々木さんは、笹島さんとよく一緒にいる。

そして今度は、経理の藤井麻衣さん。

給湯室で二人の姿を見かけた瞬間、胸の奥が冷たい水を注がれたみたいだった。

微かに笑って、楽しそうに言葉を交わす正人。

麻衣の頬がほんのり赤いのを、見逃せるわけがなかった。

(笹島さん……どうして……)

問い詰めたい。

でも、問い詰めたら何かが終わってしまいそうで、怖くて声が出なかった。

恋人なんだと信じていたのは、もしかして自分だけなのかもしれない。

そんな不安が、喉の奥に棘のように刺さっていた。

「……大丈夫?」

声をかけてきたのは藤井麻衣だった。

思わず顔を上げた美咲に、麻衣はそっと微笑んだ。

「顔色、ちょっと悪いですよ。」

優しい声。けれど、美咲の目には彼女の指先にまだ残る、正人の温もりが見えてしまった。

「ありがとう……大丈夫……」

言葉にしてしまえば、自分の惨めさがこぼれ落ちる気がして、美咲はすぐに笑顔を作った。


一方で、麻衣の胸の奥にも微かな変化が芽生えていた。

誰にでも丁寧で感情を見せないと同僚に思われてきた麻衣。

そんな彼女に正人は自然に踏み込んでくる。

残業をしているときも、ちょっとした資料の間違いを指摘してくれたときも、

ほんの一言の「頑張ってるな」の優しさが心をほぐしていった。

先週、社食で何気なく「甘いもの、好きだろ?」と小さなプリンを渡されたとき、

麻衣の胸の奥で何かが音を立てて崩れた気がした。

(この人は……みんなが言うみたいに、ずるい人なんだろうか……)

そんな噂を知りつつも、もう止められない。

一度知ってしまった温度に、どうしても背を向けられなかった。


美咲は、不穏な空気を感じながらも、

ただただ自分が信じた恋を、まだ信じていたかった。

麻衣は、噂を心の端で知りながらも、

少しずつ、その優しさに縋るように心を許していった。

誰もが黙って、誰もが縛られていく。

笹島正人の嘘だけが、静かに確実に積み重なっていった。




金曜の夜、月明かりがビルの窓に滲んでいた。

残業続きでくたびれた麻衣は、帰り支度をして給湯室に立ち寄った。

背後で聞き慣れた低い声が響いたとき、心臓が小さく跳ねた。

「藤井さん、今日も頑張ってたな。」

振り返れば、いつもの穏やかな笑顔を浮かべた正人が立っていた。

「……そんなこと、ないです。」

自然に視線を伏せてしまう自分に気づき、麻衣は唇をかんだ。

こんな自分は、自分じゃない。

でも、この人の前では――自分でいられなくなる。

「ちょっと、一杯付き合わないか。」

唐突で、でも自然で。

麻衣はわずかに躊躇ったが、結局「はい」と頷いてしまっていた。


静かなバーの奥の席。

正人と向かい合って、グラスを指で弄ぶ。

話題は仕事のこと、家族のこと、他愛ないことばかり。

なのに、正人の声が耳に心地よくて、何度も頷いてしまう。

グラスを空けるたび、心の鎧がほどけていった。

「……藤井さんさ。」

ふいに、正人が声を低くして囁く。

「本当はもっと甘えていいんだぞ。」

掠れた声が、麻衣の胸の奥を撫でた。

「……私、甘え方なんて、わかりません……。」

呟いた瞬間、正人の指が麻衣の手に触れた。

思わず身を硬くするも、拒めなかった。

彼の瞳が、すべてを許してくれそうで――怖いほどに優しかった。


ホテルの部屋。

ドアを閉めた途端、正人の腕が麻衣の腰を抱き寄せる。

細い背中を撫でる指に、抵抗する気持ちはとうに消えていた。

「……ずっと、我慢してたんだ。」

耳元で囁かれた声が、麻衣の理性を溶かした。

「……笹島さん……。」

小さく縋るように名前を呼んだとき、

初めて自分の心が、すっかりこの人に奪われてしまったのだと知った。

それがどれほど危ういことか。

もう、考える余地などなかった。




薄いカーテン越しに、朝の日差しが差し込んでいた。

白いシーツに埋もれていると、現実なのか夢なのか、まだ曖昧だった。

麻衣はゆっくりと目を開けると、隣の空いた枕を見つめた。

まだ微かに残る正人の体温と、彼の柔らかな香りが、胸をじんわりと満たす。

(……昨日のこと、全部……夢じゃないんだ……)

指先に残る感触を思い出すだけで、頬が熱くなる。

こんなふうに誰かに触れられて、抱き寄せられて、名前を何度も呼ばれた夜なんて、初めてだった。

麻衣はゆっくりと身を起こし、枕元に置かれたメモを見つけた。

《先に出る。昨日はありがとう。無理しないで、ゆっくりしていけよ。――正人》

それだけの簡単な言葉なのに、胸が甘くしびれる。

けれど同時に、喉の奥がきゅっと痛くなる。

(……私だけじゃないんじゃないか……)

誰かの噂も、密かに囁かれている影も知っている。

だけど、あの優しさを信じたかった。

あの声だけは、嘘であってほしくなかった。

「……私、馬鹿だな……。」

小さく笑って自分を叱ったけれど、シーツを握る指は正直だった。

あの夜に戻れるなら、何度だって同じ選択をしてしまう。

たとえそれが、傷つく未来だとしても。


ホテルの窓の外では、都会の朝がもういつもの忙しさを取り戻していた。

麻衣だけが、その窓の内側で、誰にも言えない幸福と不安に揺れていた。




週明けの月曜日、朝のフロアはいつも通りの活気に包まれていた。

コピー機の前で順番待ちをしている麻衣の背後から、鋭い視線が突き刺さる。

振り返らなくても、誰のものかはすぐにわかった。

「……藤井さん。」

低い声に呼ばれて、麻衣はそっと振り向く。

そこには同期の沙織が、わざと笑わずに立っていた。

彼女の目は、麻衣の制服の襟元から足先まで、何かを値踏みするようにゆっくりと動いた。

「はい……何か……」

麻衣が口を開いた瞬間、沙織は足を一歩近づけた。

距離が近い。息がかかるほどの距離。

麻衣の背中に、コピー機の冷たい外壁が触れる。

「最近、楽しそうね。笹島さんと。」

小さな声なのに、麻衣の胸の奥を鋭く抉った。

声を出そうとしたが、喉がからからに乾いて言葉が出ない。

「……別に……」

震える声が、自分でも情けなかった。

沙織の唇が冷たい笑みを形作る。

「いいの? あの人、嘘つくのうまいよ。」

吐き捨てるような声に、麻衣は視線を逸らした。

本当は知っている――その可能性を、麻衣自身が一番知っている。

でも、信じたくなかった。

「……人のこと言えるの……沙織さんこそ……」

思わず出た言葉に、沙織の目が一瞬鋭く光った。

だがすぐに、沙織は鼻で笑って顔を近づける。

「気をつけな。笹島さんの“特別”は、すぐに次の誰かに移るから。」

そう言い残して、沙織はすれ違いざまに麻衣の肩を強くぶつけて去っていった。

麻衣は息を飲み、コピー機に手をついて立つのがやっとだった。

頭の奥で、正人の優しい声が、少しずつ遠ざかっていく気がした。




その日の夕方。

沙織は誰もいない会議室にひとりで座っていた。

資料を机に広げているが、視線は一点を虚ろに見つめているだけだった。

ドアがノックもなく静かに開き、正人が顔を覗かせた。

「……ここにいたのか。」

柔らかい声。

けれど沙織の表情は冷たかった。

「……放っておいてください。」

手元の資料をめくるふりをして、視線を合わせない。

正人はゆっくりと入ってきて、彼女の向かいに腰を下ろした。

机を挟んでも、彼の体温が近いのがわかる。

沙織はわざと椅子の背にもたれ、感情を隠すように顎を上げた。

「……誰に怒ってるんだ、沙織。」

「……別に。」

吐き捨てる声に、正人は小さく笑った。

その笑いが、沙織の胸の奥をかき乱す。

「誤解されるようなこと、するからですよ。」

「誤解じゃないのか?」

低い声が、どこか挑発的だった。

沙織の胸の奥で、言葉にできない苛立ちが爆ぜた。

「……私以外に、どれだけいるんですか。」

ついに吐き出してしまった言葉に、自分で驚いた。

でももう止まらなかった。

「美咲ちゃん、奈緒さん、春菜……今度は藤井さんまで? いつまで続ける気ですか?」

張り詰めた声が、静かな会議室に吸い込まれていく。

正人は一瞬だけ黙った。

だがすぐに、椅子越しに身を乗り出すと、沙織の手をそっと包んだ。

「俺が誰を好きかなんて、沙織が一番わかってるだろ?」

耳元に届くその声に、全ての怒りが無力化されていく。

こんな風に触れられると、自分はいつも駄目になる。

知っているのに、逆らえない。

「……嘘ばっかり……。」

それでも掠れた声で縋るように呟くのが、精一杯だった。

正人の指先が、沙織の頬をそっと撫でた。

そのぬくもりが、怒りと疑念を静かに飲み込んでいく。

「今夜、話そう。……な?」

沙織は何も言えずに、ただ小さく頷いた。




夜の街は梅雨の雨に濡れて、街灯が滲んで見えた。

ホテルのロビーに入るまで、沙織は一言もしゃべらなかった。

濡れた髪を正人がそっと撫でると、抵抗もできず、彼の後ろをついていくしかなかった。

部屋に入ると、正人はすぐにジャケットを脱いだ。

沙織は部屋の隅で立ち尽くし、手の甲をぎゅっと握りしめていた。

言いたいことは山ほどあった。

でも、ここに来た時点で、自分がもう負けていることをわかっていた。

「……沙織。」

背後から名前を呼ばれて、ゆっくりと振り返ると、

正人がすぐ目の前にいて、視線を逃がす隙を与えてくれなかった。

「……もう、やめてください……。」

かすれた声が零れた瞬間、正人の指がそっと沙織の頬に触れた。

熱い。

その熱が、心の奥の冷たい塊を一瞬で溶かしていく。

「やめられないのは、俺だけじゃないだろ?」

低く囁かれた声が耳を打つ。

その通りだった。

もう何度もやめようとした。

やめようとするたびに、求めてしまう自分が情けなかった。

「……ずるい……。」

呟いた言葉は、唇を塞がれて飲み込まれた。

正人の体温と匂いが、すべてを奪っていく。

わかっているのに、逆らえない。

どこかで誰かを裏切っている自分を、もう止められなかった。

やわらかなシーツに背中を沈められながら、

沙織は目を閉じた。

嘘でもいい、愛されていると信じていたかった。

「……沙織だけは、特別だよ。」

耳元で甘く囁かれた言葉に、また一つ、自分を許してしまった。

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