第1章:進化は「分断」する――ダーウィンからセント=クロノス、そして「格差進化論」へ
我々はなぜ、自らが作り上げたテクノロジーによって加速される「格差」という現実から、そしてそれがもたらす人間性の根源的な変容から、これほどまでに目を逸らし続けてきたのだろうか。
序章で概観した、進歩史観の麻薬、格差の不可視性、人間存在の変化への認知的不協和、市場原理のイデオロギー、そして過去のトラウマといった要因は、確かに我々の視野を曇らせ、思考を鈍らせてきた。
しかし、それら全てを貫く、より深層にある問いが残されている。
すなわち、「進化」とは、そもそも何を意味するのか? そして、その本質的な力学は、我々の社会と個人のありように、どのような必然的な帰結をもたらすのだろうか。
この問いに答えることなくして、現代の「格差進化」の構造を真に理解することはできない。
なぜなら、SID、霊子、AI、遺伝子技術といった二〇六〇年代の基盤テクノロジー群は、単に新しい道具として我々の生活を便利にしただけではなく、生命の進化という数十億年の歴史を持つ根源的なプロセスそのものに、かつてない規模と速度で介入し、その方向性を捻じ曲げ、あるいは加速させているからだ。
これらのテクノロジーが、我々の社会に「格差」という名の深い亀裂を刻み込んでいるのだとすれば、それは、進化の持つ本源的な性質と、テクノロジーによるその増幅作用との間に、何か構造的な共振関係が存在するからに他ならない。
本章では、この「進化と格差」というテーマを、思想史的なパースペクティブから紐解いていく。
出発点は、言うまでもなく、一九世紀の巨人、チャールズ・ダーウィンである。
彼が提唱した自然淘汰による進化の理論は、生命観・世界観にコペルニクス的転回をもたらしたが、その含意は、しばしば誤解され、あるいは意図的に歪曲されてきた。
「適者生存」というキャッチフレーズは、時に社会ダーウィニズムのような優生思想や、弱肉強食を正当化する市場原理主義のイデオロギーに利用され、本来ダーウィンが意図したニュアンスとは異なる形で社会に浸透した。
我々はまず、ダーウィンの進化論に立ち返り、その核心にある「差異の発生」と「選択の圧力」というメカニズムが、必然的に種内に「格差」とも呼ぶべき序列や分化を生み出すプロセスであることを再確認する。
次に、二〇世紀を通じて、生物学、遺伝学、生態学、そして社会生物学といった諸分野が、ダーウィンの洞察をいかに精緻化し、拡張してきたかを概観する。
遺伝子の発見、DNA構造の解明、そしてゲノム解析技術の進展は、進化のミクロなメカニズムを明らかにし、生命の設計図が持つ可塑性と、そこにランダムな変異が絶えず生じている現実を白日の下に晒した。
また、ゲーム理論や複雑系の科学は、個体間の相互作用や環境とのフィードバックが、いかにして予測不可能な進化の軌跡を生み出し、多様な生態学的ニッチと、それに適応した特殊化された生命形態を創り上げてきたかを示した。
これらの知見は、進化が単線的な「進歩」ではなく、むしろ絶え間ない「試行錯誤」と「分化」のプロセスであり、そこでは常に「勝者」と「敗者」、あるいは「主流」と「傍流」が生まれ続けることを示唆している。
そして、二一世紀初頭、人類が自らの進化に積極的に介入する手段――遺伝子編集、脳拡張、人工知能――を手に入れ始めた時代に、一人の先駆的な思想家が登場する。
それが、本書でも繰り返し言及してきた、リサ・セント=クロノスである。
彼女は、古典的な生物学的進化論の射程を大胆に拡張し、テクノロジーによって加速される人間社会の変容を「格差進化(Inevolution)」という挑発的な概念で捉えようとした。
セント=クロノスによれば、情報技術、バイオテクノロジー、ナノテクノロジー、そして認知科学の融合(しばしば旧世紀にはNBICコングローバリゼーションと呼ばれた)は、人間の能力や意識、そして社会構造そのものを根底から作り変え、そこでは「適応」のスピードと方向性が、かつてないほど多様かつ不均等になる。
その結果、人類という単一の種は、能力や意識のレベルにおいて急速に分化し、ある者は超人的な能力を獲得して新たな進化の階層へと駆け上がる一方で、ある者はその変化に取り残され、旧来の「人間」の枠組みの中に留まるか、あるいはそれ以下の存在へと追いやられる。
彼女は、このプロセスが、個人の選択や努力といった要素だけでは覆しがたい、システム的な構造として進行すると予見した。
それは、もはや自然淘汰ではなく、「設計された淘汰」あるいは「自己進化的淘汰」とでも呼ぶべき、新しい進化のフェーズの到来を意味していた。
セント=クロノスの「格差進化論」は、発表当時(二〇三〇年代後半)、多くの倫理的・哲学的論争を引き起こしたが、当時はまだSF的な未来予測の域を出ないという見方も強かった。
しかし、その後のSIDの開発と普及(二〇二六年のプロトタイプ発表以降)、霊子の発見と応用(二〇三八年以降)、AIのシンギュラリティ達成(二〇四〇年代)、そして遺伝子編集技術のコモディティ化という、我々が序章で概観した技術的ブレークスルーの連鎖は、彼女の予見が驚くべきリアリティを持っていたことを証明しつつある。
我々は、まさにセント=クロノスが描いた「格差進化」の時代を生きているのだ。
この現代において、セント=クロノスの射程をさらに一歩進め、二〇六五年の社会状況を踏まえて「格差進化論」をアップデートすることこそ、本書の主要な目的の一つである。
我々は、単に生物学的な能力や知能だけでなく、SIDを介した情報処理能力、QSI(霊子共鳴指数)に代表される共感力や物語創出力、そしてAIとの協調能力や、遺伝子編集によって獲得されうる新たな適応性といった、多次元的な「能力」のベクトルにおいて、人間が急速に分化し、階層化していく様を目の当たりにしている。
そして、この新しい「能力」の尺度は、教育、雇用、経済活動、さらには人間関係や自己認識といった、我々の生のあらゆる側面に影響を及ぼし、見えざるカーストを形成している。
特に重要なのは、進化の舞台が、もはや純粋な生物学的肉体や物理的環境だけではなく、SIDCOMネットワークという情報空間、そして霊子を介した意識の次元にまで拡大しているという点だ。
これは、セント=クロノスが予見したよりもさらに複雑で、捉えどころのない進化の様相を呈している。
我々は、生物学的な進化と並行して、あるいはそれを凌駕する速度で、「意識の進化」とでも呼ぶべきプロセスを経験しているのかもしれない。
他者の思考や感情がダイレクトに流れ込み、自己と他者の境界が曖昧になる中で、どのような意識のあり方が「適応的」とされるのか。
そして、その「適応」は、我々をより豊かで自由な存在へと導くのか、それとも、より巧妙に管理され、均質化された存在へと変えるのか。
さらに、物語資本主義の到来は、「物語進化」とでも呼ぶべき新たな進化のベクトルを生み出した。
どのような物語がより多くの「共感」を集め、社会的な影響力を持ち、物語通貨を獲得できるのか。
そして、その「物語創造能力」は、個人の才能や努力だけでなく、QSIや遺伝的素養、あるいはSIDCOMのアルゴリズムによって、どのように左右されるのか。
この「物語」をめぐる競争と淘汰は、我々の価値観や文化、そして社会の記憶そのものを形成し、進化させていく。
それは、旧世紀のミーム(文化的遺伝子)の概念を、よりダイナミックで、市場原理と結びついた形で拡張したものと言えるだろう。
本章の目的は、これらの複雑な問いに対する性急な答えを提示することではない。
むしろ、ダーウィンからセント=クロノス、そして現代の「格差進化」に至る思想の系譜を丁寧に辿ることで、我々が今立っている場所の歴史的・思想的背景を明らかにし、続く各章で展開される具体的な議論――SID、霊子、AI、遺伝子技術が、それぞれどのように人間の能力を分化させ、格差を拡大・固定化しているのか――のための共通の土台を築くことにある。
進化は、生命の本質的なダイナミズムであり、変化と創造の源泉だ。
しかし、その力は、常に「分断」と「選別」という影の側面を伴う。
我々がこの影から目を逸らし続ける限り、我々はテクノロジーによって加速される進化の奔流にただ翻弄され、自らの未来を主体的に選択する機会を失ってしまうだろう。
この旅は、知的に困難で、時に倫理的に痛みを伴うものかもしれない。
しかし、目を凝らせば、進化の非情なメカニズムの中にも、あるいはテクノロジーが作り出す新たな格差の裂け目にも、生命のしたたかさ、創造性、そして連帯の可能性が、かすかな光として見出せるかもしれない。
さあ、ダーウィンの「種の起源」のページをめくるように、我々自身の「進化の起源」と、それが現代において何を意味するのかを、改めて問い直すことから始めよう。
そこには、我々が「進化」という言葉に抱いてきた素朴なイメージを覆す、驚くべき洞察が隠されているはずだ。