見えざるカースト:「接続者(プラグド)」と「アンプラグド」、「高QSI者」と「無物語層」。
二〇六五年の東京、いや、世界の主要なメガシティにおいて、かつての社会階層を規定した指標――例えば、旧世紀における純粋な経済資本の多寡、あるいは学歴や家柄といったものは、その意味を大きく変容させたか、あるいはほとんど無効化したと言っていい。
SIDCOMネットワークと霊子技術が社会の隅々にまで浸透し、AIが多くの知的・肉体的労働を肩代わりするようになった結果、富の源泉は物質的な生産手段の所有から、より非物質的で、流動的で、そして何よりも個人の「内実」に深く関わる要素へと移行した。
そして、その新たな富の形態をめぐって、我々の社会には、かつてないほど精妙で、しかし確実な、見えざるカースト制度が形成されている。
その最も基本的な分水嶺は、言うまでもなく、**「接続者」と「アンプラグド(非接続者)」**の間に引かれている。
SIDを脳に装着し、SIDCOMネットワークに常時接続している「**接続者」**は、この社会の圧倒的多数派であり、そのインフラが提供する恩恵――情報への即時アクセス、他者とのシームレスな思考共有、AIによる生活支援、そして物語スコアを通じた社会的評価――を享受している。
彼らにとって、SIDCOMは空気や水のような存在であり、それなしの生活はもはや想像すらできない。
教育、就労、医療、エンターテイメント、そして人間関係の構築に至るまで、あらゆる社会活動がSIDCOMを前提として設計されているため、**接続者**であることは、社会参加の最低条件と言っても過言ではない。
一方で、**「アンプラグド」**の人々は、SIDの装着を自ら拒否するか、あるいは何らかの理由(経済的理由、健康上の理由、あるいは思想的信条)によって装着できない少数派である。
彼らは、**接続者**が享受する利便性や情報アクセスから隔絶され、旧世紀的な手段――物理的な書物、口頭でのコミュニケーション、そして自らの五感と知性のみを頼りに世界と対峙する。
この高度情報化社会において、彼らの生活は著しく不便であり、多くの場合、社会の周縁へと追いやられている。
彼らは、**接続者**からは「時代遅れ」「非協力的」「情報のブラックホール」などと揶揄され、あるいは憐れみの対象として見られることもある。
雇用機会は極端に限定され、最新の医療技術や社会保障サービスの恩恵も受けにくい。
そして何よりも、SIDCOMネットワークを介した「共感の輪」から外れているため、彼らの苦境や声は、**接続者**の意識には届きにくい。
彼らは、まるで幽霊のように、この光り輝く都市の影を生きることを強いられているのだ。
政府や国際機関は、表向きには「接続の自由」を保障し、アンプラグドに対する差別を禁じている。
しかし、現実には、SIDCOMへの接続がデファクトスタンダードとなっている社会において、アンプラグドであることは圧倒的なハンディキャップを意味する。
教育機関ではSIDを用いた学習プログラムが主流であり、企業はSIDによる思考共有を前提とした業務効率を追求する。
このような環境で、アンプラグドが**接続者**と同等の機会を得ることは極めて困難だ。
彼らは、しばしば旧世代の技術やアナログな手仕事に特化したニッチなコミュニティを形成し、細々と生計を立てているか、あるいは社会のセーフティネットからこぼれ落ち、都市の最下層で見えざる存在となっている。
彼らの存在は、この「接続されたユートピア」の実現が、全ての人々にとっての福音ではなかったという、不都合な真実を静かに告げている。
だが、この「接続者/アンプラグド」という分断は、現代の格差構造の序の口に過ぎない。
より深刻で、より不可視な階層は、「**接続者」の内部にこそ、複雑な網の目のように張り巡らされているのだ。
その中でも特に決定的な意味を持つのが、「QSI(霊子共鳴指数:Quanon Resonance Index)」と、それに裏打ちされた「物語価値」**の格差である。
QSIとは、個人の霊子(精神エネルギー)が、他者の霊子とどれだけ効率的に共鳴し、影響を与え合うことができるかを示す指標だ。
これは、SIDを介して脳波や生体信号、微細な表情や声のトーンなど、無数のパラメータをAIが解析することで算出される。
高いQSIを持つ人間は、自らの思考や感情、そして「物語」を、より多くの人々に、より深く、より効果的に伝えることができる。
彼らの言葉はSIDCOMネットワーク上で瞬く間に拡散し、多くの「共感」を集め、高い「物語スコア」を獲得する。
そして、その物語スコアは、新たな富の形態である「物語通貨」へと変換され、社会的地位や影響力、さらには物質的な豊かさをもたらす。
これが、「物語資本主義」と呼ばれる現代の経済システムの核心だ。
高いQSIを持つ人々――しばしば「**高QSI者」**あるいは「ナラティブ・エリート」と呼ばれる――は、芸術家、思想家、科学者、起業家、あるいはカリスマ的なインフルエンサーとして、社会のオピニオンリーダーとなり、文化や価値観の形成に絶大な影響力を持つ。
彼らが発信する「物語」は、時に社会現象を巻き起こし、新たなトレンドを生み出し、人々の生き方や世界観すらも変えてしまう。
彼らは、SIDCOMのアルゴリズムによっても優遇され、その声はより多くの人々に届けられる。
そして、彼らが獲得した物語通貨は、高度な教育、最先端の医療、希少な体験へのアクセス権、そして何よりも、自らの子孫に対する遺伝的投資へと再投資される。
一方で、QSIが低い人々、あるいはそもそも魅力的な「物語」を紡ぎ出す能力に欠ける人々は、**「無物語層」あるいは蔑称的に「データ・コモンズ(情報共有地の一般人)」**などと呼ばれる。
彼らは、高QSI者の物語の消費者であり、彼らの共感や労働力は、物語資本主義のピラミッドの底辺を支えるための資源として利用される。
彼らがどれほど誠実に働き、社会に貢献していたとしても、それを人々の心を動かす「物語」として発信し、共感を獲得できなければ、その価値は低く見積もられ、物語スコアも上がらない。
彼らは、絶えず新しい情報を消費し、他者の物語に「共感」ボタンを押すことを強いられるが、自らが主体的に物語を創造し、社会に影響を与える機会は極めて限られている。
彼らの日常は、高QSI者が発信するきらびやかな物語と、自らの平凡な現実との間のギャップを常に意識させられる、静かな絶望感に満ちているかもしれない。
このQSIと物語価値による階層は、旧世紀の知能指数(IQ)や学歴による選別よりも、さらに根源的で、覆しがたい側面を持つ。
なぜなら、QSIは単なる認知能力だけでなく、共感力、表現力、カリスマ性といった、より複合的で、個人のパーソナリティや情動的側面に深く関わる資質を反映しているからだ。
そして、これらの資質は、教育や訓練によってある程度は向上するものの、生まれ持った遺伝的素養や幼少期の環境に大きく左右されることが、近年の脳科学や遺伝学の研究によって明らかになりつつある。
ここに、AIと遺伝子技術が、この格差構造をさらに固定化し、先鋭化させる役割を果たす。
AIは、個人のSIDデータを解析することで、その人物の潜在的なQSIや物語創出力、さらには特定の分野での才能や適性を、驚くべき精度で予測する。
この「AIによるポテンシャル評価」は、教育機関の入学選考、企業の採用、さらには恋愛や結婚のマッチングにおいてすら、重要な判断基準となりつつある。
それは、個人の努力や意志を超えた、ある種の「運命のスコア」として機能し、人々の人生の軌道を早期に決定づけてしまう。
そして、遺伝子編集技術のコモディティ化は、この「運命のスコア」を、親が子に対して意図的に「設計」することを可能にした。
受精卵の段階で、高いQSI、優れた認知能力、特定の芸術的才能、あるいは魅力的な容姿を持つように遺伝子を「最適化」された子供たち――しばしば**「デザイナーベビー」あるいは「ポストジェネティック世代」**と呼ばれる――が、現実の社会に登場し始めている。
彼らは、生まれながらにしてアドバンテージを持ち、高QSI者やナラティブ・エリートの階層を再生産する。
もちろん、このような遺伝的介入には、倫理的な議論や社会的な規制が常に伴う。
しかし、自らの子供により良い未来を望む親の情は普遍的であり、規制の網の目をかいくぐった非合法な遺伝子編集サービスも後を絶たない。
その結果、我々の社会には、「自然な人間」と「遺伝的に強化された人間」との間に、新たな、そしておそらくは最も深刻な分断線が引かれようとしている。
エンハンスドは、あらゆる面でナチュラルズを凌駕する能力を発揮し、社会の指導的地位を独占していく。
彼らは、我々ナチュラルズとは異なる美的感覚、価値観、そして世界認識を持つようになるかもしれない。
そして、その先に待ち受けているのは、リサ・セント=クロノスが「格差進化」の最終段階として予見した、人類の種としての分岐――我々とは異なる知性と意識を持つ「ヒューマナリウム種」の誕生である可能性すら否定できない。
彼らが現れたとき、我々旧人類は、彼らにとってどのような存在となるのだろうか。
保護されるべき希少種か、あるいは単なる過去の遺物か。
このような多層的な「見えざるカースト」は、SIDCOMの滑らかなインターフェースと、霊子技術が生み出す心地よい共感のヴェールによって巧妙に覆い隠されている。
我々は、日々の物語スコアの小さな変動に一喜一憂し、AIがレコメンドするパーソナライズされた情報とエンターテイメントを享受し、遺伝子編集がもたらす「より良い未来」への期待を抱きながら、この巨大な格差社会の現実から目を逸らしている。
なぜなら、その現実を直視することは、あまりにも痛みを伴うからだ。
自らがこのシステムのどの階層に位置づけられているのか、そしてその階層がどれほど固定的なものであるのかを知ることは、我々の自尊心を傷つけ、未来への希望を打ち砕くかもしれない。
また、もし自分が比較的有利な立場にいるのであれば、その特権を維持するために、システムの不都合な真実から目を背け、現状を肯定する方が合理的だからだ。
我々は、快適な情報バブルの中で、緩やかな茹でガエルのように、この「設計された不平等」に慣らされていく。
しかし、本当にそれで良いのだろうか。
この進化の潮流は、本当に我々が望んだ未来へと向かっているのだろうか。
そして何よりも、このシステムが「進化」や「進歩」の名の下に見過ごし、切り捨ててきたものの中に、人間にとって本当に大切な、かけがえのない価値は含まれていなかったのだろうか。
これらの問いこそが、我々が次に向き合わなければならない核心的な課題である。
我々はなぜ、この「進化=格差」という冷厳な現実から、そしてそれがもたらす人間性の変容から、目を逸らし続けてきたのだろうか。
その深層心理と社会的メカニズムを解き明かすことなしに、我々がこの分かたれた未来を生き抜くための真の戦略を見出すことはできないだろう。