「分かたれること」を前提とした社会契約と、新たな「弱者」の定義。
これまでの議論で明らかにしてきたように、SID、霊子、AI、遺伝子技術といった現代の基盤テクノロジーは、人間という種を、能力、意識、物語価値、そして生物学的特性において、かつてないほど多様に、そして深く「分断」し、階層化している。
この「格差進化」の潮流は、もはや後戻りできない不可逆的なものであり、旧世紀的な意味での「万人の平等」という理想は、その現実的な基盤を失いつつある。
もし我々が、この厳しい現実から目を逸らし、存在しない平等を夢想し続けるならば、それは思考の怠慢であり、新たな形で生まれる「弱者」たちの苦境を見過ごすことに繋がるだろう。
では、我々は「平等」という理念を完全に放棄し、ダーウィン的な適者生存の論理、あるいはリサ・セント=クロノスが予見した「格差進化」の冷徹な帰結を、ただ無批判に受け入れるしかないのだろうか。
私は、そうは考えない。
むしろ、「分かたれること(Divergence)」そのものを、現代社会の基本的な「前提条件」として認識した上で、それでもなお、人間の尊厳、相互尊重、そして共生の可能性を追求する、新たな「社会契約(Social Contract)」を構想し直す必要があるのだ。
それは、旧世紀の普遍的人権思想の精神を批判的に継承しつつ、現代のテクノロジー環境と、それが生み出す新たな「人間」のありように対応した、より精緻で、より多層的な倫理の枠組みを求める試みである。
この「分かたれることを前提とした社会契約」を考える上で、まず明確にしなければならないのは、「新たな弱者」とは誰か、そして彼らがどのような権利を必要としているのか、という定義の問題である。
旧世紀における「弱者」とは、主に経済的困窮者、社会的マイノリティ、あるいは身体的・精神的障碍を持つ人々を指していた。
しかし、現代の「格差進化」社会においては、これまでの弱者の定義では捉えきれない、全く新しいタイプの「脆弱性(Vulnerability)」を抱えた人々が登場している。
その代表例が、本書で繰り返し言及してきた**「アンプラグド(SID非接続者)」**である。
彼らは、SIDCOMネットワークという現代社会の必須インフラから隔絶されることで、情報アクセス、教育機会、雇用、そして社会参加のあらゆる面で深刻な不利益を被っている。
彼らは、接続者からは「時代遅れ」「非協力的」と見なされ、社会の周縁へと追いやられがちだ。
しかし、彼らがSIDを装着しない理由は、経済的困窮、健康上の問題、あるいはテクノロジーに対する倫理的・思想的な懸念など様々であり、その選択(あるいは選択の余儀なさ)は尊重されなければならない。
新たな社会契約においては、アンプラグドが社会から完全に孤立することなく、人間としての尊厳を保ちながら生きていくための権利――例えば、基本的な生活保障、アナログな情報アクセス手段の確保、SID非使用を理由とした差別の禁止、そして彼らの価値観やライフスタイルを尊重する文化的多様性の保障――を明確に位置づける必要がある。
次に、接続者内部においても、**「無物語層」あるいは「低QSI者」**といった、物語資本主義のシステムの中で評価されにくい人々が存在する。
彼らは、魅力的な物語を創造し、多くの共感を得るための「ナラティブ・スキル」や「感情資本」に乏しく、物語スコアは低迷し、経済的・社会的に不利な立場に置かれやすい。
彼らがどれほど誠実に働き、社会に貢献していたとしても、その価値が「物語」として可視化されなければ、この社会では正当に評価されない。
新たな社会契約においては、このような「物語の貧困」に苦しむ人々に対し、自らの体験や感情を表現し、他者と繋がるための教育的・技術的支援を提供すると同時に、「物語スコア」だけが人間の価値を決定する唯一の尺度ではないという、多角的な価値評価システムを導入する必要がある。
そして、すべての個人が、たとえ「語るべき物語」を持たなかったとしても、社会の一員として尊重され、基本的な生活と尊厳が保障される権利を再確認しなければならない。
さらに、AIの進化と遺伝子編集技術のコモディティ化は、**「AI非適応者」や「ナチュラルズ(遺伝子編集を受けていない人々)」**といった、新たなタイプの「構造的弱者」を生み出している。
AIの能力が人間を凌駕し、多くの知的労働がAIとの協調を前提とする中で、AIリテラシーの低い人々や、AIの思考様式に適応できない人々は、労働市場から排除され、社会的な存在感を失っていく。
また、遺伝的に「デザイン」されたエンハンスドが社会の主流となる中で、ナチュラルズは、生まれながらにして能力的なハンディキャップを負い、あらゆる面で不利な競争を強いられる。
新たな社会契約においては、このようなテクノロジーによって生み出される「能力格差」が、個人の尊厳や基本的な権利を侵害するほどの不平等に繋がらないようにするための、積極的な介入と再分配のメカニズムが不可欠となる。
それは、AI非適応者に対する再教育や新たな役割の創出、あるいはナチュラルズの権利を擁護し、彼らがエンハンスドと共存できる社会環境の整備といった形をとるだろう。
そして、究極的には、「人間であること」の価値を、特定の能力や効率性だけで測るのではなく、より多様で包括的な視点から捉え直すことが求められる。
そして、おそらく最も困難で、かつ最も根源的な課題は、「ポスト・ヒューマン」あるいは「ヒューマナリウム種」のような、我々とは異なる知性や存在様態を持つかもしれない未来の生命体との関係性である。
もし、彼らが我々旧人類を凌駕する能力を持ち、新たな進化の担い手となるのだとすれば、我々は彼らに対しどのような権利を主張し、どのような倫理的関係を築くべきなのか。
あるいは、逆に、我々自身が、彼らにとっての「弱者」あるいは「保護されるべき過去の遺物」となるのだろうか。
この問いは、もはや人間中心主義的な倫理の枠組みを超え、種を超えた「共生の倫理」あるいは「進化の倫理」とでも呼ぶべき、全く新しい思考の地平を必要とする。
我々は、自らが創造したテクノロジーによって生み出されるかもしれない「他者」に対し、恐怖や敵意ではなく、むしろ畏敬と好奇心を持って向き合い、彼らとの対話を通じて、生命全体の未来について考えるという、壮大な責任を負っているのかもしれない。
これらの「新たな弱者」の権利を保障し、彼らが尊厳を持って生きていける社会を構想するためには、旧世紀の「機会の平等」という理念を、より実質的で、結果の格差にも配慮した**「実質的な機会の保障」**へと発展させる必要がある。
それは、単にSIDCOMへのアクセス権を形式的に保障するだけでなく、その利用能力やリテラシーにおける格差を是正するための教育的支援、あるいは物語スコアの多寡に関わらず基本的な生活を保障するベーシックインカム(あるいはベーシック・ナラティブ・アクセス権)、そしてAIや遺伝子編集技術の恩恵が一部の特権階級に独占されることなく、より広く社会全体に分配されるための富の再分配システム(例えば、AIやロボットが生成する富に対する普遍的配当や、遺伝子エンハンスメントに対する課税など)といった、具体的な制度設計を伴う。
また、「分かたれること」を前提とした社会契約は、**「差異の尊重」と「多様性の擁護」**を、その核心的な価値として位置づけなければならない。
SIDCOMのアルゴリズムや物語資本主義の市場原理は、しばしば社会を均質化し、異質なものを排除する傾向を持つ。
これに対し、我々は、アンプラグドの生き方、無物語層の沈黙、ナチュラルズの「不完全さ」といった、主流から外れた多様な価値観や存在様式の中にこそ、社会のレジリエンス(強靭性)や創造性の源泉があると認識し、それらを積極的に保護し、育むための空間と制度を確保する必要がある。
それは、効率性や生産性だけではない、より豊かで、予測不可能で、そして人間的な複雑さを許容する社会への希求である。
そして、このような新たな社会契約を支える倫理の基盤となるのは、**「共感の射程の拡大」と「責任の範囲の再定義」**である。
SIDCOMは、我々に遠く離れた他者の感情を瞬時に「体感」させることを可能にしたが、その「共感」はしばしば表層的で、自分と似た者への偏愛に陥りやすい。
我々は、QSIの高さや物語スコアの魅力といった基準を超え、アンプラグドの孤独、無物語層の疎外感、AI非適応者の不安、そして未来のポスト・ヒューマンの未知の苦悩といった、より「見えにくい」「共感しにくい」他者の存在にまで想像力を広げ、彼らの視点に立って世界を捉え直す努力をしなければならない。
そして、我々が生み出したテクノロジーがもたらす広範かつ長期的な影響に対し、個人として、そして社会全体として、どのような責任を負うのかを自覚し、その責任を果たすための具体的な行動を起こしていく必要がある。
「分かたれること」を前提とした社会契約は、決して完成された青写真ではない。
それは、絶え間ない対話と試行錯誤を通じて、我々自身が築き上げていくべき、動的なプロセスである。
そして、そのプロセスにおいて最も重要なのは、テクノロジーの進化の速度に翻弄されることなく、常に「人間とは何か」「良き社会とは何か」という根源的な問いを我々自身に問い続け、その答えを、多様な人々の声に耳を傾けながら、共に探求していくという、謙虚で誠実な姿勢である。
旧世紀の「平等」の夢は、その素朴な形では失われたのかもしれない。
しかし、その夢が内包していた「すべての存在が尊重され、その可能性を最大限に開花できる社会」への希求は、形を変えながらも、我々の心の奥深くに生き続けているはずだ。
その希求の灯火を絶やすことなく、この「格差進化」の厳しい現実の中で、それでもなお、より公正で、より人間的な未来を信じ、その実現に向けて努力を続けること。
それこそが、二〇六五年の我々に課せられた、最も困難で、しかし最も希望に満ちた倫理的課題なのである。
この課題は、社会システムや法制度の改革だけで達成されるものではない。
それは、我々一人ひとりの意識の変革、価値観の転換、そして日々の具体的な実践にかかっている。
その実践の最前線に立つのは、しばしば、社会の主流から外れた、あるいはシステムに疑問を抱く「異能者」たちである。
彼らは、心霊ハッカーとしてSIDCOMの深層に潜り込み、シャドウSIDとしてアンプラグドの知恵を継承し、あるいは非合法なテクノロジーによって自らを進化させようとする。
彼らの存在は、この「格差進化」のシステムに対する、もう一つの、そしておそらくは最も予測不可能な応答の形を示している。
次の最終章――あるいは、この書物がもし一冊の「物語」であるならば、そのエピローグとも呼ぶべき第6章――では、これらの「進化の特異点」とも言える異能者たちの姿を通じて、我々が生きるこの時代の最先端と、その先に広がる未知のフロンティアを垣間見ることにしよう。
彼らが示すのは、希望か、絶望か、それとも、我々の想像を超えた、全く新しい進化の可能性なのか。




