アメリカ内戦(2037-2048年)とネオ・フェデラリストの亡霊:彼らの過激思想は、何を問いかけていたのか(皮肉と教訓)。
二〇三〇年代後半、当時、急速なテクノロジーの進展――特にSIDの初期導入、AIによる労働市場の変革、そして遺伝子編集技術の倫理的議論の高まり――と、それに伴う社会構造の劇的な変化に直面していたアメリカ合衆国において、一つの特異な政治・思想運動が、まるで時代に逆行するかのように台頭してきた。
それが、「ネオ・フェデラリスト(Neo-Federalists)」と自称する勢力である。
彼らの名称は、アメリカ建国期に強力な中央政府の確立を主張したフェデラリスト党に由来するが、その思想内容は、むしろ建国当時の社会通念、特にアメリカ合衆国憲法が制定された一七八七年頃の価値観を至上のものとして絶対視し、その後のあらゆる社会的・技術的変化を「堕落」あるいは「憲法の精神からの逸脱」として否定するという、極めて過激な原理主義的特徴を持っていた。
ネオ・フェデラリストの信奉者たちは、主に旧来型の産業に従事し、急速なテクノロジー化の波に取り残されたと感じていた中西部の農村地帯や、伝統的な宗教的価値観が強く残る南部のいわゆる「バイブルベルト」と呼ばれる地域に支持基盤を拡大していった。
彼らは、SIDCOMネットワークに代表される情報化社会を「人間の精神を堕落させ、プライバシーを侵害する悪魔の所業」とみなし、AIによる労働の自動化を「人間の尊厳を奪い、大規模な失業を生み出す陰謀」と断じ、そして遺伝子編集技術を「神の領域を侵す冒涜であり、自然の秩序を破壊する行為」として激しく攻撃した。
彼らの理想は、一八世紀末のアメリカ建国当時の、自給自足的な農業を基盤とし、キリスト教的道徳に厳格に従い、銃による自衛権が絶対視され、そして何よりも個人の自由(ただし、それは白人男性プロテスタントの自由が中心であったが)が最大限に尊重される(と彼らが信じる)社会への回帰であった。
このような、現代から見ればあまりにもアナクロニスティックで、多くの矛盾を孕んだ思想が、なぜ一定の支持を集めるに至ったのか。
それは、彼らが、急速な社会変容の中で多くの人々が感じていた漠然とした不安、疎外感、そしてアイデンティティの喪失感に対し、ある種の「分かりやすい敵」と「回帰すべき理想郷」という、単純明快な物語を提供したからに他ならない。
彼らは、テクノロジーエリートやグローバル企業、そしてリベラルな都市部の知識人たちを「アメリカの伝統的価値観を破壊する堕落した勢力」として攻撃し、自らを「真のアメリカ精神を守る最後の砦」として位置づけた。
その主張は、しばしば陰謀論や歴史修正主義と結びつき、SIDCOMネットワーク上で(皮肉にも、彼らが否定するテクノロジーを利用して)急速に拡散し、社会の分断を煽っていった。
二〇三七年、ネオ・フェデラリスト系の政治家がいくつかの州で影響力を増し、連邦政府との対立が先鋭化する中で、いわゆる「ネオ・フェデラリストの陰謀」と呼ばれる、政府機関やテクノロジー企業に対する一連のサイバー攻撃や情報暴露事件が発生する。
これをきっかけに、アメリカ合衆国は急速に内戦状態へと突入していく。
二〇三八年には、南部の諸州が「アメリカ南部連邦(Re-Federalist States of America)」として独立を宣言し、これに対し、テクノロジー先進地域である東海岸と西海岸の諸州が「アメリカ北部連合(Northern Union of America)」を形成、さらに中西部のいくつかの州が中立を宣言し「アメリカ中央共和国(Central Republic of America)」を樹立するという、国家分裂の事態へと発展した。
このアメリカ内戦は、約十年にわたり泥沼化し、旧世紀の内戦とは比較にならないほどの破壊と混乱をもたらした。
SID、AI、そして初期の自律型兵器といった最新テクノロジーを駆使する北部連合に対し、南部連邦は主にローテクなゲリラ戦術や、市民を巻き込んだ爆弾テロといった非対称な手段で抵抗を試みた。
しかし、テクノロジー格差はあまりにも大きく、また、時代錯誤なネオ・フェデラリストの思想は国際的な支持を得られず、南部連邦は次第に内部崩壊していく。
そして二〇四八年、本書で既に触れた「大消去(The Great Erasure)」と呼ばれる、北部連合およびICAを中心とする勢力による、ネオ・フェデラリスト急進派とその残党に対する徹底的な掃討作戦(それは物理的な殲滅だけでなく、情報的・社会的な抹殺をも含んでいた)によって、内戦は終結へと向かう。
このアメリカ内戦とネオ・フェデラリストの悲劇的な末路は、現代の我々にとって、いくつかの重要な教訓と、そして皮肉な問いを投げかけている。
第一の教訓は、テクノロジーの急速な進展が、社会に深刻な亀裂と疎外感を生み出し、それが過激思想の温床となりうるという、ある種自明の理である。
SID、AI、遺伝子技術といった変革的なテクノロジーは、一部の人々には恩恵と機会をもたらすが、同時に、その変化に適応できない、あるいはその恩恵から排除される人々を生み出す。
彼らが抱える不安、不満、そして尊厳の喪失感は、もし適切に対処されなければ、社会に対する憎悪や、現実逃避的な過激思想へと容易に転化しうる。
ネオ・フェデラリストの台頭は、その典型的な例であった。
この教訓は、現代の「格差進化」社会においても、極めて重要である。
我々が、テクノロジーの進歩を追求する一方で、その影で生まれる「新たな弱者」の声に耳を傾け、彼らの尊厳を守るための仕組みを構築することを怠るならば、第二、第三のネオ・フェデラリストを生み出しかねない。
第二の教訓は、物語の持つ力とその危うさである。
ネオ・フェデラリストは、客観的に見れば非合理的で矛盾に満ちた思想を掲げていた。
しかし、彼らは「失われた黄金時代への回帰」「堕落した現代との戦い」「真の自由と伝統の擁護」といった、シンプルで感情に訴えかける強力な物語を紡ぎ出し、多くの人々の心を捉えた。
これは、物語が、時に論理や理性を超えて人々を動員し、集団的な行動へと駆り立てる力を持つことを示している。
そして、SIDCOMネットワークと霊子技術によって「物語」の伝播力と共感増幅効果が飛躍的に高まった現代においては、この物語の持つ力は、さらに巨大で、かつコントロール困難なものとなっている。
誤った物語、憎悪を煽る物語、あるいは特定の集団をスケープゴートにする物語が、もし効果的に拡散されれば、それは容易に社会的な混乱や悲劇を引き起こしうる。
我々は、物語の力を認識し、それを賢明に利用すると同時に、その負の側面に対する批判的なリテラシーを常に持ち続けなければならない。
そして、ネオ・フェデラリストの亡霊が我々に投げかける、より皮肉で、しかし根源的な問いとは、彼らが、その過激で歪んだ形ではあったとしても、結果的に、テクノロジーによる人間性の変容という、現代社会の核心的な問題に、誰よりも早く警鐘を鳴らしていたのではないか、ということである。
もちろん、彼らの主張――SIDの全否定、AI開発の禁止、遺伝子編集の完全な禁止、そして一八世紀の社会への回帰――は、あまりにも極端で、非現実的であり、多くの人々にとっては受け入れがたいものであった。
彼らの暴力的な手段や、排他的な思想は、断じて許容されるものではない。
しかし、その狂信的なまでのテクノロジー拒否の根底には、人間が自ら作り出したテクノロジーによって、自らの「人間らしさ」が失われ、魂が汚染され、そして生命そのものが商品化・操作されることへの、根源的な恐怖と抵抗があったのではないだろうか。
彼らは、SIDCOMが個人のプライバシーを消滅させ、思考を均質化し、人間をネットワークの部品へと変えてしまう未来を予感していたのかもしれない。
彼らは、AIが人間の知性と創造性を凌駕し、我々を無用な存在へと追いやるディストピアを恐れていたのかもしれない。
彼らは、遺伝子編集が生命の尊厳を冒涜し、人間を「デザイン」可能なオブジェクトへと貶め、自然の秩序を破壊する未来を憂慮していたのかもしれない。
これらの懸念は、形を変えながらも、本書で我々が論じてきた「格差進化」の様々な側面――接続される魂の選別、物語資本主義における内面の市場化、AIによる人間価値の問い直し、そしてデザインされる生命とポスト・ヒューマンの胎動――と、不気味なほどに響き合っている。
ネオ・フェデラリストたちは、その答えをあまりにも単純で、あまりにも暴力的な形で求めようとした。
しかし、彼らが投げかけた「問い」そのものは、二〇六五年の我々にとっても、依然として重く、そして有効性を失ってはいない。
我々は、彼らのようにテクノロジーを全面的に否定し、過去へと回帰することはできない。
我々は、SIDも、霊子も、AIも、遺伝子技術も、もはやそれなしでは成り立たない社会に生きている。
しかし、我々は、これらのテクノロジーを無批判に受け入れ、その進化の奔流にただ身を委ねることもできない。
なぜなら、その先にあるのが、ネオ・フェデラリストたちが最も恐れた、人間性の喪失と、魂の隷属である可能性を、我々は否定しきれないからだ。
「大消去」によってネオ・フェデラリストの運動そのものは物理的に消滅させられたかもしれない。
しかし、彼らが体現した、テクノロジーと人間性の間の緊張関係、そして急速な社会変容に対する人々の不安と抵抗の感情は、決して消え去ったわけではない。
それは、現代社会の深層に、アンプラグドの人々の静かな抵抗として、あるいはナラティブ・エリートたちの華やかな物語の影に隠された無物語層の沈黙として、あるいは遺伝的に「デザイン」される子供たちの未来への漠然とした不安として、形を変えながら存在し続けている。
ネオ・フェデラリストの亡霊は、我々にこう問いかけているのかもしれない。
「お前たちは、我々を狂信者と笑うが、お前たちが進んでいるその『進化』の道は、本当に人間を幸福にするのか? お前たちは、そのテクノロジーの代償として、何を失おうとしているのか、本当に理解しているのか?」と。
この問いに対し、我々は誠実に応答する責任がある。
それは、彼らの過ちを繰り返さないためだけでなく、我々自身の未来を、より人間的で、より倫理的なものとして構想するために、不可欠な作業である。
そして、その応答の一つの形が、もし「格差」と「分断」が進化の必然的な帰結であり、テクノロジーがそれを加速させるのだとすれば、その現実を前提とした上で、それでもなお、人間の尊厳と共生の可能性を追求する、新たな「社会契約」を模索することなのかもしれない。
それは、旧世紀の「平等」の理想を完全に放棄するのではなく、むしろそれを現代の状況に合わせて再解釈し、新たな「弱者」の定義と、彼らの権利を保障するための具体的な仕組みを構想するという、困難だが希望に満ちた挑戦となるだろう。
次に我々が踏み込むのは、まさにその「分かたれること」を前提とした、新しい社会のあり方と、そこで求められる倫理のフロンティアである。




