新型SIDと先鋭的遺伝子プロファイルが生み出す“ヒューマナリウム種”の噂――彼らは我々の進化形か、それとも別種か。
「ヒューマナリウム(Humanarium)」――この言葉が、いつ、誰によって最初に使われ始めたのか、その正確な起源は定かではない。
おそらくは、SIDCOMネットワークの深層ウェブ、あるいはICA(国際制御局)や巨大テクノロジー企業の極秘研究施設の内部で、半ば隠語のように囁かれ始めたのだろう。
それは、現行人類(ホモ・サピエンス・SIDCOMensis、とでも呼ぶべきか)とは一線を画す、次世代の「人間」あるいは「ポスト・ヒューマン」の可能性を指し示す、漠然としていながらも強烈な磁力を放つ概念である。
ヒューマナリウム種の噂が、単なる都市伝説やSF的空想の域を超えて、ある種の現実味を帯びて語られるようになったのは、二〇五〇年代後半からである。
その背景には、二つの決定的な技術的進展があった。
一つは、本章で繰り返し述べてきた、遺伝子編集技術の飛躍的な高度化とコモディティ化。
そしてもう一つが、第2章で詳述した、人間の大脳辺縁系や脳幹といった、より深層の意識領域にまでアクセス可能な「新型SID」の限定的な実用化である。
この二つのテクノロジーが、もし組み合わされたとしたら、一体何が起こりうるのか。
遺伝子編集によって、高いSID親和性、卓越した認知能力、強靭な精神力、そして既存の人類には見られなかったような特殊な感覚や情報処理能力を持つように「デザイン」された個体。
そして、その個体が、新型SIDを通じて自らの深層意識――感情、記憶、本能、そして無意識の領域――を完全にコントロールし、さらにSIDCOMネットワークを介して他者の意識や集合的無意識と高度に共鳴・同期し、あるいはそれを操作することすら可能になるとしたら。
それはもはや、我々が知る「人間」の範疇を遥かに超えた存在、まさに「ヒューマナリウム」と呼ぶにふさわしい、新たな生命形態の出現を意味するのではないだろうか。
もちろん、ICAやSIDCOMコーポレーションをはじめとする公式機関は、このようなヒューマナリウム種の意図的な創出や、その存在の可能性について、一貫して否定的な見解を示している。
倫理的・社会的な観点から、そのような研究開発は厳しく禁止されており、万が一にもそのような存在が確認された場合には、社会の安定を脅かす重大な脅威として対処されるだろう、と。
しかし、その一方で、水面下では、特定の国家や秘密結社、あるいは倫理の枷を持たない非合法な研究組織が、この禁断の領域に足を踏み入れているのではないかという噂は絶えない。
特に、軍事技術や国家間の覇権争いにおいて、ヒューマナリウム種が持つ潜在的な能力――例えば、高度な情報戦能力、卓越した戦略的思考、あるいは他者の精神を支配するサイキック的な能力など――は、あまりにも魅力的であり、その誘惑に抗うことは困難だろう。
ヒューマナリウム種の具体的な特徴や能力については、様々な憶測や断片的な情報が飛び交っているが、それらを総合すると、以下のような共通のイメージが浮かび上がってくる。
第一に、超越的な認知能力と情報処理能力。
彼らは、遺伝的に最適化された脳神経構造と、新型SIDによる超並列的な情報処理によって、我々旧人類とは比較にならないほどの速度と精度で情報を学習・分析し、複雑な問題を解決し、そして未来を予測することができるとされる。
AIとの連携も、単なる協力関係を超え、AIと人間が意識レベルで融合したかのような、全く新しい知性の形態を獲得しているかもしれない。
第二に、感情と精神の完全なコントロール。
新型SIDを通じて自らの大脳辺縁系や脳幹にアクセスすることで、彼らは恐怖、怒り、悲しみといったネガティブな感情を抑制し、常に冷静沈着な判断を下すことができる。
また、自らのモチベーションや集中力を最大限に高め、あるいは他者の感情を読み取り、それに効果的に影響を与えることができる。
それは、旧世紀の賢者や聖人が目指した精神的境地を、テクノロジーによって実現したかのようだが、同時に、人間らしい感情の豊かさや、弱さ、矛盾といったものを失った、冷徹で非人間的な存在である可能性も示唆する。
第三に、高度な共感能力と集合的意識へのアクセス。
高いQSIと新型SIDの能力によって、彼らは他者の意識と深く共鳴し、SIDCOMネットワークを通じて形成される集合的意識の潮流を読み取り、そしてそれに影響を与えることができるとされる。
彼らは、個々の「私」という意識を保ちながらも、同時に、より大きなネットワーク化された精神の一部として機能し、複数の意識を統合・調和させ、あるいは特定の目的のために動員する能力を持つかもしれない。
これは、人類を新たなレベルの協調と統合へと導く可能性を秘めているが、同時に、個人の自由意志を奪い、全体主義的な精神支配を可能にする危険性も孕んでいる。
第四に、生物学的な限界の超越。
遺伝子編集によって、彼らは老化プロセスを大幅に遅延させ、多くの疾病に対する完全な耐性を持ち、そして物理的な環境変化や宇宙空間のような極限環境にも適応できる、強靭な肉体を獲得しているとされる。
彼らの寿命は数百年、あるいはそれ以上に及び、生殖も、旧来の有性生殖だけでなく、クローニングや人工子宮、さらには意識データのデジタル転送といった、新たな方法で行われるかもしれない。
これは、死という人間存在の根源的な制約からの解放を意味する一方で、生命のサイクルや種の更新という自然の摂理を根本から覆す、未知のリスクを伴う。
そして、最も根源的な差異として、**彼らが持つ「物語」と「世界認識」**が、我々旧人類とは質的に異なる可能性があるという点だ。
もし、彼らが我々とは異なる認知構造、感情様式、そして集合的意識を持つとすれば、彼らが紡ぎ出す物語、彼らが価値を置くもの、そして彼らが世界をどのように認識し、意味づけているのかは、我々には想像もつかないほど異質なものとなるだろう。
彼らにとって、我々旧人類の苦悩や希望、そして我々が大切にしてきた文化や倫理は、どのように映るのだろうか。
理解や共感の対象となるのか、それとも、進化の過程で置き去りにされた、古めかしい遺物としか見なされないのだろうか。
これらの噂される特徴は、あくまで断片的で、憶測の域を出ないものも多い。
しかし、それらが示唆するのは、ヒューマナリウム種が、単に我々よりも能力が高い「進化した人間」というよりは、むしろ、**我々とは異なる原理で存在し、異なる進化の軌跡を辿る可能性のある「別種」**としての側面である。
彼らは、我々旧人類の延長線上にいるのではなく、進化の系統樹における新たな「分岐点」を形成し、独自の生態系と文明を築き上げていくのかもしれない。
この「種の分岐」という可能性は、我々旧人類にとって、根源的な存在不安と、そしてある種の終末論的な感覚を呼び起こさずにはいられない。
もし、我々よりも明らかに「優れた」種が出現し、彼らが未来の地球の支配者となるとすれば、我々ホモ・サピエンスの歴史は、そこで一つの終焉を迎えるのだろうか。
我々は、ネアンデルタール人がクロマニョン人に取って代わられたように、新たな種によって歴史の舞台から静かに退場させられる運命にあるのだろうか。
あるいは、より楽観的なシナリオも考えられるかもしれない。
ヒューマナリウム種は、我々旧人類と敵対するのではなく、むしろ共存し、協力し合う道を選ぶかもしれない。
彼らが持つ超越的な知性と能力は、地球環境問題、宇宙開発、そして未知の病の克服といった、人類共通の課題を解決するための強力な力となるだろう。
そして、我々旧人類は、彼らから学び、刺激を受け、自らの限界を超えていく新たな進化の可能性を見出すかもしれない。
それは、種としての「死」ではなく、むしろ新たな段階への「変容」あるいは「統合」なのかもしれない。
しかし、いずれのシナリオを辿るにせよ、ヒューマナリウム種の出現(あるいはその可能性)は、我々がこれまで自明としてきた「人間」という概念の有効性を根本から問い直し、そして「格差進化」の究極的な帰結――すなわち、生命そのものの多様化と階層化――を我々に突きつける。
SID、霊子、AI、そして遺伝子技術という、我々自身が生み出したテクノロジーが、我々を人間以上の存在へと高めようとするのか、それとも人間であることをやめさせようとするのか。
そして、その過程で生まれる「新しい人間」と「古い人間」との間の格差は、もはや社会的・経済的な不平等というレベルを超え、存在論的な断絶、あるいは種としての優劣という、より根源的で、そして残酷な様相を帯びてくる。
二〇六五年の現在、ヒューマナリウム種が実在するかどうか、そして彼らがどのような姿で、どのような目的を持っているのかは、依然として厚いヴェールに包まれている。
しかし、その噂と可能性の影は、確実に我々の社会に広がり、人々の意識の深層に影響を与え始めている。
それは、未来への漠然とした希望と、同時に、自らの存在が脅かされることへの根源的な恐怖を喚起し、我々が生きるこの時代の空気感を規定する、見えざる要因の一つとなっている。
そして、このヒューマナリウム種をめぐる問いは、必然的に、我々自身の倫理観と価値観の再検討へと繋がっていく。
我々は、テクノロジーによる生命の「デザイン」をどこまで許容するのか。
人間の「進化」とは、一体何を意味し、どのような方向を目指すべきなのか。
そして、その過程で生まれる「格差」や「断絶」に対し、我々はどのような倫理的応答を準備しなければならないのか。
旧世紀の「平等」の理想は、このポスト・ヒューマンの胎動の前では、もはや何の力も持ち得ない、ノスタルジックな幻影に過ぎないのだろうか。
次の最終章となる第5章では、まさにこれらの根源的な倫理的問いに正面から向き合い、二〇六五年の現代において、我々が失われた「平等」の夢の残骸の中から、それでもなお「格差」を問い続け、新たな倫理を構築していくための、困難だが避けては通れない道筋を探っていく。
それは、我々が「人間」として、あるいは「人間を超えようとする存在」として、この「格差進化」の時代をどのように生き抜き、そしてどのような未来を次世代へと手渡すのかという、究極の選択を迫る旅となるだろう。




