「接続」が生む新たな能力格差と、非接続者=「アンプラグド」の社会的烙印。
彼らは進化の傍流か、それとも抵抗者か?
SIDCOMネットワークへの「接続」は、二〇六五年の現在、もはや単なるコミュニケーション手段の一つや、特定の業務を効率化するためのツールという域を遥かに超え、個人の認知能力、社会参加のあり方、そして人間としての存在様態そのものを規定する、最も根源的な条件となっている。
SIDを介して脳が常時ネットワークに接続されている「接続者」と、そうでない「アンプラグド」との間には、旧世紀のいかなる社会経済的格差よりも深く、そして克服しがたい「能力格差」と、それに伴う社会的な「断絶」が生じている。
まず、情報アクセスと学習能力における圧倒的な格差である。
接続者は、SIDを通じて地球規模の知識データベースに瞬時にアクセスし、AIアシスタントのサポートを受けながら必要な情報を抽出し、理解し、そして自らの知識として統合することができる。
学習プロセスそのものも、個人の認知特性や理解度に合わせて最適化されたSID対応の教育プログラムによって飛躍的に効率化されており、新しいスキルや知識の習得速度は、アンプラグドの比ではない。
例えば、新しい専門分野の基礎知識を体系的に習得するのに、アンプラグドが数ヶ月から数年を要するところを、接続者は数日から数週間で達成できるケースも珍しくない。
この学習効率の差は、教育年限の短縮化や生涯学習の一般化といったポジティブな側面をもたらしたが、同時に、高度な専門知識や最新技術を習得する機会が接続者に集中し、アンプラグドが知的労働市場から排除されていく構造を加速させた。
次に、コミュニケーション能力と共感形成における質的な差異である。
接続者は、SIDを介して他者と思考や感情をダイレクトに共有し、言語の壁を超えたシームレスな意思疎通を行う。
彼らは、相手の微細な感情の起伏や、言葉にならないニュアンスを直感的に読み取り、深いレベルでの共感を形成することができる。
これは、チームワークや共同作業の効率を劇的に向上させ、複雑な問題を解決するための集合知の形成を促進する。
また、SIDCOM上での「物語スコア」の獲得競争は、接続者に対し、他者の感情に訴えかけ、共感を呼ぶための表現力やコミュニケーション戦略を常に磨くことを要求する。
一方、アンプラグドは、旧世紀的な言語(音声、文字)や非言語的サイン(表情、身振り)に頼ったコミュニケーションしか行うことができず、その情報伝達の速度や精度、そして感情共有の深度において、接続者に大きく劣る。
彼らが接続者と意思疎通を図ろうとしても、SIDを介した思考伝送の「帯域幅」と「解像度」に慣れ親しんだ接続者にとっては、それはあまりにも遅く、曖昧で、そして感情の機微が欠落した「ノイズの多い」コミュニケーションとしか感じられないことが多い。
その結果、アンプラグドは接続者の社会から孤立しやすく、彼らの意見や感情は理解されにくい。
彼らがどれほど豊かな内面や深い洞察を持っていたとしても、それをSIDCOMのプロトコルに適合した形で発信し、共感を獲得する術を持たない限り、その価値は「接続された」社会には届かない。
さらに、AIとの協調能力と問題解決能力における格差も深刻だ。
現代社会のあらゆる場面でAIが活用され、人間の知的作業の多くがAIとの共同作業となっている中で、接続者はSIDを介してAIアシスタントと緊密に連携し、その能力を最大限に引き出すことができる。
AIが提示する膨大な情報や複雑な分析結果を瞬時に理解し、自らの思考と統合し、新たな洞察や解決策を生み出す。
あるいは、自らの専門知識や創造性をAIにインプットすることで、AIと共に人間単独では到達しえなかったような革新的な成果を上げる。
これに対し、アンプラグドは、AIの恩恵を享受する機会が著しく限定される。
彼らは、旧式のインターフェースを通じてAIと間接的にやり取りするか、あるいはAIの支援なしに自らの知力だけで問題解決に取り組むしかない。
その結果、知的生産性や問題解決能力において、接続者との差は開く一方である。
かつては人間の知性の証とされた論理的思考力や記憶力といった能力も、AIの圧倒的な性能の前ではその価値を相対的に低下させ、むしろAIをいかに効果的に「使いこなす」かという「AIリテラシー」の方が重要となる。
そして、そのAIリテラシーの獲得において、SIDというダイレクトなインターフェースを持つ接続者が圧倒的に有利なのは言うまでもない。
これらの能力格差は、単に個人のスキルセットの違いに留まらず、社会参加のあり方、経済的機会、そして人間としての尊厳にまで深く影響を及ぼす。
接続者は、SIDCOMが提供する教育、雇用、医療、社会保障といった様々な社会的リソースへのアクセスにおいて優先され、高い「物語スコア」を獲得することで、さらなる富と影響力を手にする。
彼らは、この「接続された」社会のメインストリームを形成し、その価値観やルールを規定する。
一方で、アンプラグドは、これらの社会的リソースから排除され、経済的にも困窮しやすく、社会的に孤立するリスクが高い。
彼らは、接続者からは「時代に適応できない人々」「社会の進歩を妨げる存在」といったネガティブな**社会的烙印**を押され、しばしば差別の対象となる。
SIPSの悲劇や「大消去」のトラウマ以降、社会全体の同調圧力が高まり、異質性への不寛容が増大したことも、アンプラグドに対する風当たりを強くしている。
SIDを装着しないという選択は、個人の自由な権利であるはずだが、現実には、それは社会からの逸脱、あるいは反抗と見なされ、様々な不利益を被ることを意味する。
二〇五〇年代には、「アンプラグド保護法」といった法律が制定され、アンプラグドに対する露骨な差別や不利益な取り扱いは禁止された。
しかし、法的な保護だけでは、この構造的な格差と社会的な断絶を解消することはできない。
なぜなら、問題の根源は、個人の意識や社会制度のレベルを超え、SIDCOMというテクノロジー・インフラそのものの設計思想と、それが必然的に生み出す「適応」の論理に深く組み込まれているからだ。
SIDCOMは、接続されることを前提とし、接続された能力を最大化するようにデザインされたシステムであり、そのシステムの外にいる者は、必然的に「非適応的」と見なされ、周縁化される運命にある。
では、この「格差進化」の潮流の中で、アンプラグドの人々は、単なる進化の袋小路に入り込んだ傍流であり、やがて歴史の彼方へと消えゆく運命にあるのだろうか。
あるいは、彼らは、このテクノロジーによって加速される進化のあり方に対し、何らかの形で異議を申し立て、人間性の別の可能性を示そうとする「抵抗者」なのだろうか。
その答えは、一筋縄ではいかない。
アンプラグドと一口に言っても、その背景や動機は様々だ。
経済的な理由や健康上の問題でSIDを装着できない人々もいれば、SIDテクノロジーの倫理的・哲学的な問題点に気づき、自らの意志で接続を拒否する人々もいる。
前者は、システムから見捨てられた「弱者」であり、後者は、システムに対する批判的な「思想家」あるいは「実践家」と言えるかもしれない。
しかし、彼らに共通しているのは、SIDCOMが提供する利便性や共感のネットワーク、そして「物語スコア」による評価システムから距離を置くことで、我々接続者が失いつつあるかもしれない何か――例えば、個としての自律性、内省的な思考の時間、身体感覚に基づいた現実認識、そして他者の評価に左右されない自己肯定感――を、図らずも保持している(あるいは、保持せざるを得ない)という点である。
彼らは、情報の洪水から遮断された静寂の中で、自分自身の内なる声に耳を澄まし、五感を研ぎ澄まし、世界と直接的に対峙する。
彼らの思考は、SIDCOMのアルゴリズムによってフィルタリングされることなく、時には非効率的で、時には孤独かもしれないが、より深く、よりオリジナルなものとなる可能性がある。
彼らの人間関係は、SIDを介した表層的な共感ではなく、言葉と時間をかけた対話と、物理的な触れ合いを通じて築かれる。
彼らの価値観は、社会的な「物語スコア」ではなく、自らの良心や、身近なコミュニティとの絆によって形成される。
もちろん、これはアンプラグドの生き方を理想化しすぎているかもしれない。
彼らの多くは、厳しい現実の中で困難な生活を強いられており、決してロマンティックな反逆者などではない。
しかし、彼らの存在そのものが、我々接続者にとって、自らがどのような世界に生き、何を当たり前と思い、そして何を失いつつあるのかを省みるための、貴重な「鏡」となりうるのではないだろうか。
もし、SIDCOMがもたらす「進化」が、人間性の多様性を狭め、個人の自律性を奪い、我々をアルゴリズムによって管理される均質的な存在へと変えていくものだとすれば、アンプラグドの人々が守ろうとしている(あるいは、守らざるを得ない)価値――個の尊厳、思考の自由、そして身体性の回復――は、人間が人間であり続けるための最後の砦となるのかもしれない。
彼らは、進化の「傍流」ではなく、むしろ、主流が暴走し始めたときのための「オルタナティブな道」あるいは「避難経路」を、その存在様式そのものによって示しているのかもしれない。
この「接続/非接続」という分断は、現代の格差進化における最も基本的な、しかし決して唯一ではない亀裂である。
接続者の内部においても、さらに複雑で、より巧妙な階層化が進行している。
その中心にあるのが、本章の冒頭でも触れた、霊子と、それが媒介する「物語」の力だ。
次の第3章では、この霊子と物語が、いかにして新たな資本の形態――物語資本主義――を生み出し、我々の精神世界と社会構造を再編しているのか、そしてそれが「あなたの物語価値はおいくらですか?」という、現代における最も根源的で、かつ残酷な問いを我々に突きつけているのかを、詳細に検討していく。
SIDCOMが人間の「魂」をネットワークに接続する装置だとすれば、霊子と物語は、その接続された魂に「価値」を付与し、序列化する新たな原理なのである。
そして、その原理を理解することなしに、我々が生きるこの「格差進化」の時代の深層構造を捉えることはできないだろう。