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格差進化論:SIDと霊子が織りなす新階層社会への道標 ――我々はいつから「分かたれる」ことを運命づけられていたのか?――  作者: 岡崎清輔
第2章:接続される魂、選別される意識――SIDCOMネットワークという名の選別装置
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SID開発史(2026年~):大脳新皮質へのアクセスから、新型SIDによる辺縁系・脳幹への侵襲へ。

SID(Society-Integrated Device)、あるいはその初期の呼称であったBMIブレイン・マシン・インターフェースの研究は、遡れば二〇世紀後半から存在していた。

当初は、重度の身体障碍を持つ患者が、脳波や神経信号を利用して外部機器を操作し、コミュニケーションや運動機能の一部を回復することを目的とした医療技術として、細々と研究が進められていた。

しかし、二一世紀に入り、ナノテクノロジー、材料科学、そしてAIによる信号解析技術が飛躍的に進歩すると、BMIは単なる医療補助器具の域を超え、人間の認知能力そのものを拡張し、脳とコンピューターを直接接続するという、より野心的な可能性を秘めたテクノロジーとして注目を集め始める。


その画期的な転換点となったのが、二〇二六年に発表された、旧ニューラリンク社(後のSIDニューラリンク社、現SIDCOMコーポレーションの中核企業の一つ)を中心とする国際研究コンソーシアムによる、次世代型生体侵襲型BMIのプロトタイプ、コードネーム「アトラス」である。

この「アトラス」は、従来の脳波キャップのような非侵襲型デバイスとは一線を画し、極細の生体適合性ナノ電極アレイを、低侵襲な外科手術によって大脳新皮質の特定領域――主に視覚野、聴覚野、運動野、そして前頭前野の一部――に直接埋め込み、脳神経活動を高密度かつ双方向に読み書きすることを可能にした。


「アトラス」が示した性能は衝撃的だった。

被験者は、思考するだけでコンピューターのカーソルを操作し、文字を入力し、インターネット上の情報にアクセスできた。

また、外部からのデジタル情報を、視覚的あるいは聴覚的なイメージとして脳内に直接投影することも可能となった。

これは、キーボードやマウス、ディスプレイといった物理的なインターフェースを介さずに、人間と情報空間がダイレクトに融合する未来を予感させるものであり、専門家だけでなく、一般社会にも大きな期待と興奮、そして同時に漠然とした不安を呼び起こした。

メディアはこれを「テレパシーの実現」「サイバーブレインの夜明け」などとセンセーショナルに報じ、倫理学者や社会学者は、その潜在的なリスク――プライバシーの侵害、精神操作の可能性、そして人間性の変容――について警鐘を鳴らし始めた。


初期の「アトラス」は、まだ臨床試験段階であり、ごく少数の被験者に限定されたものであったが、その成果は着実に積み重ねられ、デバイスの小型化、生体適合性の向上、そして信号解析アルゴリズムの洗練が進められた。

二〇三〇年代初頭には、改良型である「プロメテウス」シリーズが登場し、限定的ながら一般向けの商用化が開始される。

この頃から、BMIは徐々に「SID」という呼称で統一されるようになり、それは単なる脳と機械のインターフェースではなく、社会全体に統合された情報デバイスとしての性格を強めていく。


初期のSIDがアクセス対象としていたのは、主に大脳新皮質、特に人間の高次の認知機能――論理的思考、言語能力、感覚情報処理、計画立案など――を司る領域であった。

これにより、SIDユーザーは、学習効率の飛躍的向上、複雑なデータの高速処理、多言語間のリアルタイム翻訳、そしてAIアシスタントとの緊密な連携といった恩恵を享受できるようになった。

ビジネス、学術研究、クリエイティブ産業などの分野では、SIDの導入が生産性を劇的に向上させ、「SID格差」とも呼ぶべき新たな能力差が顕在化し始める。

SIDをいち早く導入し、その能力を最大限に活用できた個人や企業は、競争において圧倒的な優位性を確立し、富と影響力を集中させていった。


しかし、この大脳新皮質へのアクセスに限定されたSIDにも、いくつかの限界と問題点が見えてきた。

第一に、人間の思考や行動は、論理的な認知機能だけで完結しているわけではなく、感情、記憶、直感、そして無意識の衝動といった、より深層の精神活動と密接に結びついている。

大脳新皮質へのアクセスだけでは、これらの深層領域を十分に捉えることができず、SIDを通じたコミュニケーションや能力拡張には、ある種の「人間味の欠如」あるいは「表層的な理解」が伴いがちであった。

第二に、SIDの性能を最大限に引き出すためには、ユーザー自身が高度な集中力と論理的思考力を維持する必要があり、精神的な疲労やストレスが蓄積しやすいという問題があった。

そして第三に、より根源的な問題として、大脳新皮質へのアクセスだけでは、SIDが人間の「魂」の奥深く――自己意識の根源や、存在の最も深い欲求――に触れることができないのではないか、という哲学的・倫理的な疑念が常に存在していた。


このような背景の中で、SIDの開発目標は、より野心的で、より危険な領域へと踏み込んでいく。

すなわち、大脳辺縁系(扁桃体、海馬、帯状回など)や脳幹といった、人間の情動、記憶形成、本能的欲求、そして生命維持機能そのものを司る脳の深層領域へのアクセスである。

これらの領域にSIDが侵襲し、情報を読み書きできるようになれば、人間の精神と身体を、かつてないレベルでコントロールし、最適化し、そして「再設計」することすら可能になるかもしれない。

それは、まさに神の領域への挑戦であり、同時に、人間性の最も根源的な部分をテクノロジーの手に委ねるという、計り知れないリスクを伴う試みであった。


二〇三〇年代後半から二〇四〇年代初頭にかけて、SIDニューラリンク社を中心とする研究チームは、この「新型SID」あるいは「深層侵襲型SID」の開発に極秘裏に着手していた。

それは、旧世紀の精神外科手術やディープ・ブレイン・スティミュレーション(DBS)の技術を遥かに凌駕する、ナノマシン技術とAI制御を駆使した、極めて高度な生体工学の結晶であった。

この新型SIDは、超微細なニューラル・ダスト(神経網塵)を脳内に散布し、それが自己組織的にネットワークを形成して、大脳辺縁系や脳幹の神経細胞とシナプスレベルで接続するという、SF的な構想に基づいていた。

そして、二〇三八年に発見された霊子クアノンが、精神エネルギーの媒体として機能し、これらの深層領域との情報伝達効率を飛躍的に高める可能性が示唆されると、新型SIDの開発は一気に加速する。


この新型SIDがもたらす潜在的な能力は、まさに驚異的であった。


まず、情動制御の強化。

大脳辺縁系、特に扁桃体へのアクセスは、恐怖、怒り、喜び、悲しみといった基本的な感情の強度や方向性を、ある程度意図的に調整することを可能にする。

これにより、精神的な安定性を高め、ストレス耐性を向上させ、あるいは特定の目的に向けてモチベーションを最大化するといった応用が期待された。


次に、記憶と学習の超強化。

海馬へのアクセスは、記憶の符号化、貯蔵、想起のプロセスを最適化し、驚異的な記憶力と学習効率を実現する。

特定の情報を瞬時に記憶し、必要な時に正確に引き出すだけでなく、不要な記憶やトラウマティックな記憶を選択的に消去したり、修正したりすることすら理論的には可能となる。


さらに、身体的反応の最適化。

脳幹へのアクセスは、心拍数、呼吸、血圧、ホルモンバランスといった自律神経系の機能を精密にコントロールし、身体能力を最大限に引き出し、疲労を軽減し、さらには老化プロセスを遅延させる可能性さえ示唆された。


そして、最も根源的な変化として、自己認識と意識状態の調整。

大脳辺縁系が関与する自己意識や、脳幹が制御する覚醒・睡眠サイクルに介入することで、ユーザーは自らの意識状態をより深く理解し、変容させることができる。

瞑想状態やフロー状態を意図的に誘導したり、夢の内容をコントロールしたり、あるいは複数の人格や意識状態を切り替えて使い分けるといった、旧世紀の人間には想像もつかなかったような精神のフロンティアが拓かれる可能性があった。


これらの潜在能力は、人類が自らの生物学的限界を超え、新たな進化の段階へと飛躍するための鍵となるかもしれないと、一部のトランスヒューマニストたちは熱狂的に歓迎した。

しかし、同時に、それは人間性の最も神聖な領域への冒涜であり、個人の自由意志や尊厳を根本から破壊し、精神的な奴隷状態を生み出す危険な技術であるという、強い倫理的批判も巻き起こった。

もし、感情や記憶、自己意識までもが外部から操作可能になるならば、「私」という存在の核はどこにあるのか。

そして、その技術を誰が、どのような目的でコントロールするのか。


初期の新型SIDの臨床試験は、極秘裏に、そして極めて限定的な対象者――重度の精神疾患患者や、特殊な任務に従事する軍人など――に対して行われたと噂されている。

その結果については、公式にはほとんど情報が公開されていないが、断片的に漏れ伝わってくる情報からは、驚くべき効果と同時に、深刻な副作用や倫理的問題が多発したことが窺える。

被験者の中には、感情の平板化、記憶の混乱、人格の解離、あるいは外部からの指示に盲従する「ロボット化」といった症状を呈した者もいたという。

これらの失敗と犠牲の上に、新型SIDの制御技術は徐々に洗練されていったが、その過程で多くの非人道的な実験が行われたのではないかという疑惑は、今なお燻り続けている。


そして、この新型SIDの技術が、ある程度安定化し、その効果とリスクが徐々に明らかになってきた二〇四〇年代半ば、SIDCOMコーポレーションは、ついにその一般向けの限定的な導入へと踏み切る。

それは、大脳新皮質アクセス型の既存SIDの「アドオン・モジュール」あるいは「深層意識拡張キット」といった形で提供され、高額な費用と厳格な倫理審査、そして専門家によるカウンセリングを義務付けるという、極めて慎重な形をとった。

対象者も、当初は特定の専門職(高度な集中力や精神的安定性が求められる宇宙飛行士や外科医など)や、芸術家、思想家といった、自らの精神世界を探求することに強い動機を持つ人々に限定されていた。


しかし、一度パンドラの箱が開かれると、その流れを押し止めることは困難だった。

新型SIDがもたらす圧倒的な能力向上と、深層意識へのアクセスという魅力は、多くの人々を惹きつけ、需要は急速に拡大した。

富裕層や権力者たちは、そのコネクションと財力を行使して新型SIDを手に入れようとし、一般市民の間でも、より高性能なSID、より深い自己変革への渇望が高まっていった。

そして、ICA(国際制御局)を中心とする国際的な規制機関は、この急速な技術進化と社会的需要の増大に対し、常に後手後手に回らざるを得なかった。

倫理的な議論は追いつかず、法整備は遅々として進まず、その間に新型SIDの技術はますます高度化し、その適用範囲もなし崩し的に拡大していった。


二〇六五年の現在、我々が使用している標準的なSIDは、この新型SIDの技術をある程度一般向けにデチューンし、安全性を高めたものということになっている。

しかし、その深層には、依然として人間の感情、記憶、そして自己意識にまでアクセスしうるポテンシャルが秘められている。

そして、その機能の解放レベルは、個人の「物語スコア」や社会的信用度、あるいは支払う対価によって、段階的に異なっているという噂も絶えない。

つまり、我々は皆、同じSIDを使っているように見えて、その実、アクセスできる意識の深度や、コントロールできる精神機能の範囲において、既に「見えざる格差」の中に置かれているのかもしれないのだ。


SIDの開発史は、このように、人間の認知能力と精神世界のフロンティアを拡大しようとする飽くなき探求の歴史であると同時に、その過程で常に倫理的な境界線を踏み越え、人間性の根幹を揺るがす危険性を孕んできた歴史でもあった。

そして、その探求の道のりは、決して平坦なものではなく、数々の悲劇とトラウマ、そして社会的な混乱を経験しながら、我々を現在の「接続された魂、選別される意識」の時代へと導いてきたのである。


次に我々が見つめるべきは、その歴史の暗部――SIPSという名の副作用がもたらした悲劇と、「大消去」という社会的な断絶が、このSID社会にいかなる傷跡を残し、そして我々の「進化」の軌跡をどのように歪めてきたのか、という点である。


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