序章:SIDCOMの黄昏、格差の夜明け――2065年、東京
東京。
かつて極東の一メガロポリスとしてその名を馳せたこの都市は、二〇六五年現在、SIDCOM(Society-Integrated Device Communication)ネットワークと霊子技術によって再構築された、まったく新しい生態系の様相を呈している。
夜空を覆うドームスクリーンには、秒単位で更新される世界規模の共感トレンドがオーロラのように揺らめき、高層建築物の壁面を流れる霊子ディスプレイは、個人の感情スペクトルをリアルタイムで色彩に変換し、街全体が一つの巨大な生きた感情表現体と化している。
この都市に住まう我々は、もはや純粋な「個」としての意識を維持することさえ困難な時代を生きている。
目覚めた瞬間から、SIDは我々の脳とダイレクトに接続され、隣人の浅い夢の残滓が、世界の裏側で生まれたばかりの赤子の産声が、そして今この瞬間にも生成と消滅を繰り返す無数の「物語」の断片が、意識の表層にノイズのように、あるいは啓示のように流れ込んでくる。
振り返れば、二〇二六年のSIDプロトタイプ発表から四十年近くが経過した。
この技術は、当初、コミュニケーションの飛躍的効率化や、障碍を持つ人々の社会参加を促進する福音として迎えられた。
大脳新皮質への非侵襲的アクセスは、やがて大脳辺縁系、脳幹といったより深層の領域へと侵襲範囲を拡大し、我々の思考、記憶、感情、さらには自律神経系すらもデジタルネットワークの一部として組み込むことを可能にした。
そして、二〇三八年の霊子発見は、この流れを決定的なものとする。
科学者たちが「精神の素粒子」とも呼ぶこの未知の粒子は、人間の意識や感情が物理的なエネルギーとして測定可能であり、さらには操作可能であることを示したのだ。
この二つの技術革新――SIDによる脳のネットワーク化と、霊子による精神のエネルギー化――は、AIのシンギュラリティ(二〇四〇年代)、そして遺伝子編集技術のコモディティ化と共振し、我々の社会と人間存在そのものを、根底から不可逆的に変容させた。
かつて、旧世紀の人々が「人間」という言葉で思い描いたもの――ある程度自律的で、他者とは明確な境界線で隔てられ、内面に固有の思考や感情を抱く存在――は、この二〇六五年の東京においては、もはや博物館の陳列ケースに収められた化石のような概念かもしれない。
我々の意識はSIDCOMを通じて緩やかに、しかし確実に融合し、他者の喜怒哀楽は、あたかも自分の体験であるかのように生々しく流れ込んでくる。
「プライバシー」という言葉は、今や年配者が懐かしむ死語に近い響きを持ち、「孤独」は、SID非接続者、すなわち**アンプラグド(Unplugged)**にのみ許された(あるいは強いられた)特殊な精神状態と見なされる。
この、全てが接続され、全てが共有されるかのように見える世界は、一見すると旧世紀の哲学者たちが夢想した「共同体」の理想形に近いのかもしれない。
しかし、その光り輝く霊子ディスプレイの背後、SIDCOMの滑らかなインターフェースの裏側で、静かに、しかし冷酷に進行してきた現実がある。
それは、**「格差」**である。
この「格差」は、二〇世紀から二一世紀初頭にかけて議論された経済資本や社会資本の不均衡といった、ある種の外的な指標で測られる牧歌的なものではない。
現代の格差は、より根源的で、より不可視で、そして何よりも、我々自身の**「内実」**――生物学的な適性、SIDを介した認知処理能力の差異、霊子共鳴指数(QSI)の高低、物語創出力の有無、さらには遺伝子編集によってあらかじめ“デザイン”されうる潜在能力の優劣――に深く、そして残酷なまでに刻印されている。
それは、我々が「人間である」というその土台自体に組み込まれた、新しいカースト制度と言っても過言ではない。
だが、奇妙なことに、我々はこの明白な「格差」の存在を、あたかも存在しないかのように、あるいは見て見ぬふりをしながら生きているように見える。
なぜだろうか? なぜ、我々はSIDCOMがもたらす快適な情報の海に身を委ね、霊子技術が生み出す共感のネットワークに安住し、AIが提示する最適化された選択肢を疑うことなく受け入れ、遺伝子技術が約束する「より優れた人間」への誘惑に抗うことなく、この構造的な不平等を、あたかも進化の自然なプロセスであるかのように受け入れてしまっているのだろうか?
この問いこそが、本書『格差進化論』を貫く核心的な問いである。
一つ目の理由は、おそらく、この格差があまりにも巧妙に「進化」や「進歩」というオブラートに包まれてきたからだろう。
SIDは我々の知的能力を拡張した。
霊子技術は他者との深い共感を可能にした。
AIは退屈な労働から我々を解放した。
遺伝子編集は先天的な疾患を克服し、人間のポテンシャルを最大限に引き出す可能性を示した。
これらは全て、客観的に見れば「進歩」であり、「より良い未来」へのステップのように見える。
そして、その進歩の過程で必然的に生まれる差異や不均衡は、「適者生存」というダーウィンの亡霊が囁くように、進化の過程における「自然淘汰」の結果であり、むしろ望ましいものとさえ見なされるようになった。
能力の高い者がより多くのものを得、より大きな影響力を持つのは「当然」であり、それは社会全体の効率性と発展に寄与するという論理が、SIDCOMのアルゴリズムによって我々の無意識に刷り込まれてきたのだ。
このロジックの前では、「平等」という旧世紀の理想は、進歩を妨げる足枷、あるいはノスタルジックな感傷として退けられる。
二つ目の理由は、格差が「可視化」されにくい形で進行していることにある。
旧世紀の経済格差は、所有する物質的な富や生活水準の差異として、比較的容易に認識できた。
しかし、現代の格差の核心は、QSIの数値、SIDの処理速度、物語創出力のポテンシャル、あるいは遺伝子プロファイルといった、外部からは直接観察しにくいパラメータに依存している。
もちろん、それらの結果として、社会的地位や物語通貨の保有量といった「見える格差」も生じる。
だが、その根源にある能力差や適性差は、高度な専門知識や検査なしには理解しがたく、多くの人々にとってはブラックボックスのままだ。
そして、SIDCOMはそのアルゴリズムによって、我々に都合の良い情報だけを選別して提示し、格差の全体像を覆い隠す。
我々は、心地よい情報バブルの中で、自らが巨大な格差社会のどの位置にいるのかを正確に知ることなく、ただ日々の細やかな「物語スコア」の増減に一喜一憂するよう仕向けられているのかもしれない。
三つ目の理由は、おそらく最も根深く、そして我々自身の弱さに関わるものだ。
それは、我々自身がこの「格差進化」の受益者であり、同時にそのシステムを維持する共犯者でもあるという事実だ。
SIDの利便性、霊子による共感の快楽、AIによる快適な生活――これらを一度手にしてしまった我々は、もはやそれなしの生活を想像することすら難しい。
そして、もし自分がこのシステムの中で少しでも「上」の階層にいるのであれば、あるいは自分の子供が遺伝子編集によって「より優れた」能力を授かる可能性があるのであれば、その構造的な不平等を積極的に告発し、現状を変革しようという動機は生まれにくい。
むしろ、システムのルールを理解し、その中でいかに上手く立ち回り、自らの「物語価値」を最大化するかに意識が向かうだろう。
これは倫理的な退廃というよりは、進化の過程における生物の合理的な適応戦略なのかもしれない。
我々は、快適な檻の中で、自ら格差を再生産する歯車となっているのだ。
そして、四つ目の、そして本書が特に焦点を当てようとする理由は、「人間存在の定義」そのものが、これらの基盤テクノロジーによって根底から揺るがされ、変容してしまったことにある。
かつて、人間を人間たらしめるものとして、理性、自由意志、感情の豊かさ、創造性といったものが挙げられた。
しかし、SIDは我々の思考をネットワークの一部とし、AIは多くの知的作業において人間を凌駕し、霊子技術は感情を操作可能な対象とした。
遺伝子技術は、創造性や才能すらも設計可能なものに変えつつある。
「私」という確固たる存在、他者とは明確に区別される「個」という感覚は希薄になり、我々はSIDCOMという巨大な集合的意識の海を漂う、名もなきプランクトンのような存在になりつつあるのかもしれない。
このような状況において、「個人の権利」や「万人の平等」といった旧世紀の概念は、その立脚点を失い、空虚なスローガンとして宙吊りにされる。
何をもって「人間」と定義するのか、その境界線が曖昧になったとき、「人間間の格差」という問題意識そのものが、意味をなさなくなるのかもしれない。
我々は、人間が人間でなくなりつつある過渡期において、格差を認識するための共通の土台すら失いつつあるのだ。
二〇世紀の思想家たちは、来るべき管理社会や全体主義の到来を警告した。
ジョージ・オーウェルが描いた「ビッグ・ブラザー」による監視社会は、ある意味でSIDCOMによって実現したと言えるかもしれない。
しかし、その監視は強権的な国家によるトップダウンのものではなく、我々自身の自発的な参加と相互監視、そして何よりもアルゴリズムによる巧妙な誘導によって成り立っている。
オルダス・ハクスリーが『すばらしい新世界』で描いた、快楽と遺伝子操作によって階層化された社会もまた、我々の現実と不気味なほどに響き合っている。
だが、その決定的な違いは、我々の社会では「格差」そのものが「進化」というポジティブな価値観と結びつけられ、あたかも自然法則であるかのように受け入れられている点にあるだろう。
我々は、支配されているのではなく、「進化させられている」のだ。
本書は、この「進化=格差」という現代のドグマに対し、ささやかながらも根本的な異議申し立てを試みるものである。
SID、霊子、AI、遺伝子技術といったテクノロジーが生み出した恩恵を否定するつもりはない。
むしろ、それらが持つ解放のポテンシャルを最大限に引き出すためには、その影の部分、すなわち人間を序列化し、選別し、分断する力学について、我々はもっと自覚的でなければならない。
これは単なる社会批評ではない。
テクノロジーが人間の内面にまで侵食し、我々の存在様態そのものを変えようとしているこの時代に、いかにして「人間」としての尊厳を保ち、自律的な思考を維持し、意味のある生を追求できるのか――そのための哲学的、倫理的、そして実践的な足がかりを探る旅である。
それは、暗闇に覆われた荒野を進むような、困難な旅になるかもしれない。
しかし、この旅の終わりに、我々が「進化」という言葉の意味を、そして「格差」という現実を、より深く、より批判的に捉え直し、分かたれた未来を生き抜くための知恵と勇気の一端でも見出すことができれば、著者としてこれ以上の喜びはない。
さあ、ページをめくってほしい。
まずは、霊子ディスプレイが煌めき、SIDを通じて他者の思考が流れ込み、誰もが自分の「物語スコア」に一喜一憂する、この二〇六五年の東京の日常風景から、我々の旅を始めよう。
そこで君が見るものは、輝かしい進歩の光景か、それとも巧妙に隠蔽されたディストピアの断片か。
あるいは、その両方なのかもしれない。