漆ノ六
蒼国の西にそびえたつ碧巌竜脈の山脈の向こう側にある、溶炎・朱明国。この国は長きにわたり内粉が続きていた。
蒼国と朱明国の間には、碧巌竜脈とその碧巌竜脈から続く竜尾半島が隔たっていた。雲より天高くそびえ、切り立った崖の山脈を陸路で超えるのはほぼ不可能であった。
唯一、両国の入国方法は海路のみだった。
数十年前までは、複雑な海流のため、入国には難しかったが、ここ最近は蒼国の側の海流がピタリを大人しくなり、そのため朱明国からの亡命が後をたたなかった。
特に裕福な商家や貴族などが、蒼国に次々と亡命し、そして彼らは、蒼語と朱明語を話す下男や下女を要望していた。
「なんだかキッセって、不思議な子だね。売るのがほしいな」
「おいおい! もう少しで契約書を書き終えるから、気を変えるのはやめておくれ」
宙定の突拍子もない言葉にアーマが慌てた。
「売る売るって、私をどこに売る気だ!」
「どこにしようか? ――花街って言ったらどうする?」
バカかと、ふんっとキッセは鼻をならすと、ははーんと、宙定は何かをさして目を細めた。
「君、自分がガロだから妓楼には売れないって思っているでしょ? ――でもね。世の中には色んな嗜好の持ち主がいるんだよ」
一瞬ギョッとしたキッセを宙定はニコニコしながら
「でも安心して。君はもっと高く売れるところがあるから」
宙定の冷やかしにキッセは無言になった。
キッセは少しの間しばらく黙り、ポツリと言った。
「――私は高く売れるのか?」
『まあね。本当に二ヶ国語を話せる還獣は貴重なんだよ。それに……』
宙定はキッセの目の前でしゃがみ、自分の目に触れてからキッセの左目を指さした。
『その青い眼。薄いけど君、片目が青いだろ。青珠は幸運をもたらすって言われているから、華族や商家に大人気なんだ』
『だったらその分け前を私はもらえる権利がある』
突然のキッセの言い分に、宙定は思わす地面に尻もちをついた。
「驚いたー。貧しいガロの娘から、権利なんてお言葉が出てくるなんて」
そんな宙定を無視し、キッセはよく分からない契約書を書き終え、金の勘定をしているアーマに向かって言った。
「この男より安い値段でいいから私にその金を払ってくれ!」
これにも驚いている宙定を無視し、キッセは続けた。
「私が私を売るんだ。この男が提示している半値でいい」
キッセの提案にアーマの手が止まった。
「――面白い子だね」
そう言って、アーマは宙定をチラリと見た。
「……それは困るな」
宙定は慌てた。というよりも慌てることを装うように見える。ふざけている宙定をキッセは睨みつけた。
「アンタが困ることなど一切ない。アンタは私をさらっただけで、そもそも私はお前の所有物でもなんでもない。だからといって、ここから逃がせと言っても無理なのはわかった。だから私は私を売る」
「――面白い提案だね。オマエさんは自分を売ったお金をどうする気だい?」アーマが訊いた。
「ある場所に届けてほしい。それさえ守ってくれれば私は黙ってどこへでも行く」
しばし三人は無言になった。その中で口火を切ったのはアーマだ。
縄で縛られているキッセに近づくと、その場にしゃがみ、キッセの顎をぐいっと上げた。
(ハッタリじゃ無さそうだね。ガキだと思ったが腹がすわった眼だ)
「どうするんだい? 私は買値が安い方がいいんだが……」
アーマは背中越しで、ひっくり返っている宙定に訊いた。
「それは駄目、だって僕が大損だよ……。僕だって、暮らしていくはお金が必要だもん」
そう言って宙定は、起き上がり腕を組むと「うーーーん」と、悩んでみせた。そしていかにもいい案が思いついたかのようにいった。
「ボクが買い取った金額の半分をキッセ、君に渡すっていうのはどうだい?」
その提案に目を見張ったのはアーマだった。
「がめついアンタがどういう風の吹き回しだい?」
「がめついとは人聞き悪いな。優秀な商売人だよ、僕は……。――キッセ、僕は普段こんな提案には乗らないのだけど、キミとは何だか不思議な縁を感じるんだ」
薬を飲ましてさらってきた分際でよくしゃあしゃあという。
「どの口が言うんだい……」アーマは口を曲げた。
「だからどうだい? ボクの提案に乗るかい? あの女主人はがめついから、きっと僕の言った値の半額の半額以下で君を買うよ」
それを聞いたアーマは知らぬ存ぜぬと、そっぽを向いた。
キッセはしばらく考えて、宙定を見上げ
「……それでいい」と答えた。
宙定は嬉しそうに「商談成立だね」といった。
♢♢♢
翌日、まだ陽が昇らない早朝キッセは薄暗い中、潮門の前にいた。北江街道から江汐の入り口、潮門の開門まで少し時間がある。
昨日、宙定はキッセの縄を解くと、自分の分け前の半分をキッセに渡した。
「明日の早朝、潮門の開門時間前に、門の前に来てくれさえすれば、それまでの時間は自由にしていいよ」
キッセは黙って金を数え、金額を確かめ受けとると、最後に宙定はこういった。
「もし君がそのお金を持って逃げたら、君の大切な家族はどこかに失踪してしまうから、気を付けるんだよ」
宙定の読めない眼の奥に不気味さを思えた。キッセ何も言わず、その場を後にした。
キッセは何事なかったかのように家に帰宅し、いつも通りに晩飯をみんなと食べた。
そしていつもより少し早く起きると、置き手紙と金を置いて家を出た。
潮門に行く前に仕事場に寄り、誰よりも朝いちばんに仕事の段取りをしていたソキじいに「これを大旦那様に渡してほしい」と手紙を渡した。
ソキじいは、これと言ってキッセから理由を聞くこともなく、黙って手紙を受け取った。
キッセが裏口から出ると、背中越しに「達者でな」と一言いった。
粗末ながらのキッセ旅支度を見て、どこかに行くと感じとったのだろう。
多少、内容が違うが、二枚の手紙には[賃金好い奉公先を見つけたから、しばらくの間そこで働くことにした]という趣旨だった。
(まさか、自ら身売りなんてするなんて……)
事情がどうあれ、誰かのために何かをするなんてキッセは思ってもいなかった。だけど自分にできることは、こんなことしかないと思った。
あそこに住んでいる、みんなはそれぞれ辛い過去を持ち、お互いに支えながら懸命に毎日を生きている。
キッセが横李にいたころは、信じられるのは自分だけだった。誰ともかかわらずに、自分だけ生き残ることしか考えていなかった。それ以外、考えることができなかった。
お互いを思い支え合う、貧しくても楽しく生きることをここで教えてもらった。キッセは少しでもいいからその恩返しをしたかった。
皆のことを思うと温かい気持ちで胸がいっぱいなる。これはいくら食べ物を食べても満たされなかった。
――この気持ちは何なのだろう。
生まれて初めて感じた感情だった。それがキッセにとってこのうえなく嬉しかった。
それと同時にずっとこの場所に留まるのが、嫌だった。
みんなと暮らすのが嫌ではなく、どこかわからないけど、どこかに行かなくてはいけない気がした。
キッセ自身もよくわからないが、この場所ずっといてはいけない。心の奥底で何かつぶやき、蠢いていた。そしてその何かにキッセは抗えなかった。
そのつぶやきに、キッセは耳を傾けたくなかった。だけどそれは止むことなかった。
キッセは行かなくてはいけなかった。そんな気がしたのだ。
潮門の門番が、開門すると同時にカロックの男がキッセの前に現れた。
男はキッセに「宙定から話は聞いているな」と訊いた。
キッセがうなずくと男は
「ついてこい」と言い、キッセと一緒に門を出た。
ここまでが前半です。
後半も宜しくお願いします。




