伍ノ六
早朝の集合住宅に赤ん坊の泣き声が響いた。
「生まれたか?」
昨晩あまり眠れなかったキッセは、屋上から下を覗くと、爽やかな朝の感じとは裏腹になんだか暗い雰囲気が漂っていた。
「駄目だったか……」
何かを察したのか寝ぼけ眼のアジルがぽつりと言った。
「……何が、駄目なんだ?」
憂鬱そうに、ぐーっと大きく伸びをしているアジルにキッセが訊いた。
「あの様子じゃ、今ににサージ・ボックがくるな」
「サージ・ボック?」
「ほら、どっから嗅ぎ付けたのか、言った矢先にもう来てら……」
アジルが顎をしゃくった方に目をやると、タルオさんが木戸の扉を開いている。その奥から深い黒緑色のフードを深く被っている者たちが二人入ってきた。
「あいつらがサージ・ボック、引き取り手だ。朝っぱらから嫌だな……」
「なんなんだよ、サージ・ボックって」
アジルは腹辺りをポリポリと掻きながら
「産まれた子が獣心だからさ」
はぁーと、深くため息をついてアジルは話し始めた。
「……獣心は還獣から産まれた毛の物のことだ。獣心として生まれた子はもうガロでも何でもない、毛の物のそのものなんだ」
キッセは眉間にしわをよせた。
「どうしてそんな獣心なんかが生まれるんだ?」
「そんなこと俺に聞いてもわかる訳ないだろ。病の一種なのか、はたまた何かに憑りつかれたのか、原因なんか誰にもわからない。——で、サージ・ボックは獣心の引き取り屋さ」
「なんだ、その引き取り屋って……」
キッセは胃の辺りが絞めつけられる感じがした。
アジルは苦い汁を飲み込むように話を続けた。
「……獣心として生まれた子を殺すか生かすかは親が決めるんだ」
還獣と獣心は、なぜか互いに一緒に暮らすことはできなかった。
獣心は絶対に還獣に懐くことがない。たとえ檻に入れて一緒に暮らそうとしても、食事を食べす餓死しするか、体を檻にぶつけて死んでしまう。そして時には還獣を襲うこともあるからだ。
キッセは言葉を失った。理由はともあれ、生まれた日に産まれたばかりのわが子を、生かすか殺すかを親が決めなくてはならないとは。
「とは言っても殺すことを選ぶ親はそうそういないさ。かわいそうだが大体が山奥に捨てるのさ……」
運が良ければ山で生き残ってくれ。親たちはそう思うしかなかった。けれど山に捨てられた赤子の獣心など大半は山に棲む毛の物〈獣〉たちに喰われてしまう。
朝っぱらからアジルは、キッセにそのことを言う気はなれなかった。
「俺がガキの頃は、ガロが産まれることで悩んでいたが、今はガロでさえ生まれないありさまさ……。
皆、言わないだけで獣心が産まれるのが増えているのは確かさ。今年になってからはこの臭いをあちらこちらで嗅ぐから……」
サーシャの家では香が焚かれ、なんだかよくわからん祈りのお経が聴こえてきた。
ただよってくる臭いはアジルの言った通り、気持ちの良い香りではない。どことなく辛気臭いニオいだった。
サージ・ボックがサーシャの家に入ってからは赤ん坊の声はしなくなっていた。
毛の物〈獣〉と何ら変わらない獣心だが、生まれたばかりの鳴き声が赤ん坊と同じ泣き声で泣くから、アジルは気持ち悪がっていた。
「俺、ミシャのとこへ行くわ」
そう言って、アジルは下へと降りていった。
♢♢♢
アジルは朝飯を食べる気にはならないと言って、朝早く仕事へ出かけていき、ヴェルクとペル、ミシャは香を香炉にいれ、祈りを捧げてから仕事に向かった。
ルーシは今日は一日サーシャの側についていると言ってたので、キッセとスリクで家の家事をした。
江汐にはいたる所に小さな祠がある。
蒼国の水神・蒼龍と神獣ワッカ・セイユウを祭っていた。
いつも誰かがきれい掃除し、お花やお供えものがおいてあり、何もなくても水だけは毎日替えてあった。
キッセは真剣に祈っている還獣たちを見かけるたびにバカバカしく思えた。
そんな祈り、蒼龍どころか誰も聞いてくれはずかない。大体見たこともない蒼龍を敬い、尊ぶなんて気がしれなかった。
毛の物〈獣〉を産んだ親は死ぬまで、決して肉を口にしない。もしかしたらわが子の肉かもしれないからだ。
もしこの世に蒼龍なんかが、存在するなら、キッセはこんな国にしてしまった、何もしない蒼龍が憎かった。




