第四話
「マグ=ケノス」が討伐されてより丸一日が経過した。
既に日は暮れ、夜も更けていた。
今宵は月も出ておらず、辺りはいつも以上に濃い夜の帷に包まれていた。
大聖堂の敷地内にイェヌス司教の館は建てられている。
彼はその三階の、自身の寝室で体を休めていた。
夏の今、司教は窓を開け放し、心地よい夜風が流れる中で眠る事が好きであった。
その時、突如彼の耳に「ぐわん、ぐわん、どおん」と銅鑼と太鼓の鳴り響く音がした気がした。
不審に思い目を開けるが、あたりは真っ暗で何も見えない。
否。
一つだけ見える物があった。
ひび割れた泥のような茶褐色の鱗で覆われた妙に細長い頭。
そのくぼんだ額には二本の短い角が生えている。
一見間抜けであるようにも見える顔には生気がなく、どろりと濁った目は虚無を睨み、大きく裂けた口からは先ほども聞こえた「ぐわん、ぐわん、どおん」の音が低く唸り、そしてドス黒い血が滴り落ちている。
そう、あの「マグ=ケノス」の頭部が彼の視線の先にあった。
「…!……っぁ!!」
あまりの恐怖に司教は言葉を失った。
そして心の中で純粋に神に助けを求めた。
彼は、長年の聖職生活で神の名を唱えることが形式的な義務と化していたことを、今になって思い知った。
だが、その祈りが今夜だけは神に届いてくれることを、ただただ願うばかりだった。
竜の口が開く。
「我を見よ…。我を見よ…」
「っははいい!見えてます!よおく、拝見させてもらっています!」
「我が九つに連なる輝ける鱗を見よ…」
「左様な物をお持ちだとはつゆとも知りませんだが見させていただきますぅ!」
司教はその「竜」の言葉に従う以外の選択肢はなかった。
「我が名は、「マグ=ケノス」…」
「よおく存じております!」
「我は、昨夜命を落とした…」
「そうと伺っております!はっ!復讐ですか?復讐なんですか?それならば私ではなく、王都の方にいる近衛騎士の小娘と学院の導師の子僧が下手人ですぅ!必要とあらば破門でも仇討ちでもなんなりと!失脚でも暗殺でもさせて頂きます!慣れておりますが故に!」
「…違う…、左様な事は我は望まぬ…」
「ははぁ!差し出がましい真似をいたしました!」
「我が魂…、未だ此岸を彷徨いたり…。我が怒り…、未だ収まるところを知らず…」
「やっぱり復讐ではないのですか?!」
「我が魂を鎮めよ…。我が魂を清めよ…。さもなくば我が黒き焔が、汝らがその真を知るまでこの地に影を落とし続けるであろう…」
「了解しました了解いたしました!手抜かりなく、滞りなく、しっかりと、確実に竜葬の列は執り行わさせて頂きます!故に、平に、平にご容赦をぉ!!」
「儀式を忘れるなかれ…。金が足りなくばその下手人の女がいるという王都の近衛騎士団にも請求するのだ…」
「しかと請け回りてございます!!ご丁寧に気も回して頂きましてありがとうございます!!」
よくよく聞けば悪霊らしからぬ言が幾つか含まれており、そもそもなんで言葉通じるのかという問題もあるはずなのだが、司教がそれに気づく事はなかった。
そして再度「ぐわん、ぐわん、どおん」の音が鳴り響き、竜の姿はまるで水に溶けるかのように闇の中へ沈んでいった。
ここでようやく不審な銅鑼と太鼓の音と司教の悲鳴に驚いた衛兵達が部屋の中に飛び込んできた。
彼らの持つランプの明かりが宵闇を塗り替える。
しかし、既にここに竜の首の姿はなく、だがそれでいて頭より流れ出たのであろう黒い血は絨毯にべっとりと残っていた。
開け放たれた窓では、未だカーテンが夜風にはたはたとはためいていた。
そして、衛兵たちが部屋を検めるべく入ってきてしまった為に、絨毯の血溜まりのそばに残されていた足跡はかき消されてしまったのであった。