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初恋

作者:

嘘は叶うだけ詳細に

「少しだけ、僕の話を聞いてはいただけませんか」

 店に入ってくるなり、そのお客様は私の前のカウンター席に着き、こうおっしゃられました。勿論私はしがないバーテンダーですので、お客様のお話を拝聴するのも仕事の一つと思い、ええと、答えたのちに静かに耳を傾けておりました。

 身なり……ですか、そうですね。取り立てて何か驚くようなものはなかったと申しましょうか、街頭ですれ違う人々の中にいらっしゃったら全く気が付かないでしょうね。ええ、全く。それはもう普通の格好をされていたものですから。確かあの日は、黒のスラックス、白シャツに紺のネクタイをしっかりと締めたままご来店されました。

 ですが、一つだけ人目を引くものがございました。目です。あの目。平常を保とうと必死になりながらも、頭の奥から湧き上がる興奮を瞳に写し、溢れさせているあの目。特徴がないあの人のことを覚えていられたのはあれのおかげでしょう。あまりに必死でしたから。

 閑話休題、話を本筋に戻しましょうか。彼は興奮冷めやらぬ様子で、努めて冷静に話を初めました。

「お恥ずかしい話なんですけど、この歳まで恋というものを知らずに生きてきたんです。僕」

「マスターには変なことのように思われるかもしれませんが、僕にはそれが当たり前で。それがどんな感情かもわからなくて。そういう話題になると何となく周りに同調して、のらりくらりと生きてきたんですよ。――ああ、お冷。ありがとうございます」

 彼はカウンターの上で腕を組み、顔を顰めながら一息で言ってのけました。これは落ち着かせる必要があると思い、私はお冷を提供しました。熱暴走している頭をこれでクールダウンしてくれないかと考えたためです。実際効果はてき面で、彼は、ふうと、息をついたのちにゆっくりと続けました。

「それでもその気持ちを理解したいなあと思って、恋愛小説とか青春小説とか、学生をテーマにした映画だとか、きらきらしたSNSだとか。色々見てみたんですね」

「でも、何をしても理解することはできなかったんです。本を積み重ねても愛情を表す言葉は出てこないし、DVDのケースを並べてみても涙は流れなくて。何かおかしいのは分かってはいたんですけど、自分でもどこがどうおかしいのかは皆目見当がつきませんでした」

 じくじくと自分を苛め続けていた傷を切開して、膿で満ちた内側を見せるように、彼は私に言いました。顔は組んだ腕の上に伏せていたため伺うことが叶いませんでしたが私には分かりましたとも。

 …………いえ、やはり何でもありません。ただ、彼は苦しみに喘いでいたのだと思います。


 続けましょう、彼はここにきて気恥ずかしく思ったのか、カクテルを頼みました。曰く、お酒が入ったほうが話しやすいから、だそうです。確かに素面では話し難いこともあるだろうと、私は彼に、注文されたニコラシカをお作りしました。

 すると彼は、グラスを呷って一息に飲んでしまわれて。それはそれは驚きましたとも、初めていらっしゃる方だったので、通常のものよりは度数を低めにお作りしたのですが、あのように飲まれてしまわれてはその意味もありませんでした。さらに言えばあのカクテルはそのままでは未完成です。よく飲まれているようなのでそのままお出ししたのですが、あれでは――――失礼いたしました。そうですね、今は彼の話をいたしましょう。

 彼は、自我と超自我に振り回されているように、動と静が入り混じった表情を浮かべて言葉を継ぎました。

「……今日は残業で帰りが遅くなっちゃって。いつもは一駅分歩いて帰るんですけど、疲れてるので電車を使っちゃおうかなって、思ったんです」

 彼は秘めている何かを不快に思おうとしているようでしたが、右端の口角は上がってしまっていました。私は見て見ぬふりをしようと、電車について何か話題はないか探していると、先程ラジオで電車が()()()()()()、遅延していると聞いたことを思い出しました。失礼なことですが、私はどうにもこの方のことがいたたまれなくなり、話題を変えるためにもこう切り出しました。

「もしかして、電車の遅延で帰れなくなってしまったのですか」

 すると彼は隠し事が見つかってしまったようなばつの悪い顔をして、続けました。

「それもあります。ここに来た理由はそれですね、時間ができたのもあって、ちょっと…………気持ちの整理をしたくて」

 

 自らの臆病に打ち勝つべく呼吸を整えている彼の背中を、押してあげたかったのです。私は、お客様の個人情報を絶対に話さないこと、人の悩みを絶対に笑わないこと、職業柄ほかの方の相談もよくお聞きしていることをできるだけ丁寧にお伝えしました。すると彼は、先ほどとは別の内の傷に悶える様子を見せつつも、私を信用して語り始めてくれたのです。

「ありがとうございます。あなたはとても優しい人ですね」

「続けましょうか、僕は例の遅れた電車に乗ろうと駅に向かいました。残業の日はよく電車に乗るので、いつも通り改札にカードをタッチして、いつも通り一番線の六番乗り場に並んで。いつもと違うのは遅い時間なのに横に人が居たぐらいでした」

 ここまで引張って、彼はスコーピオンをオーダーしました。弾みをつけたかったようです。プロフェッショナルとして本当に失格なのですが、私はもう彼に何が起きたのか気になって仕方なくなっていました。集中するべき、シェイカーを振るときでさえ、彼に起きたことを想像してしまっていたのです。

 電車と初恋の話が全く繋がっていないのはなぜだろう、電車で初恋の相手と運命的な出会いでもしたのだろうか。でも彼がそれを喉に引っかかったようにしている理由はあるのだろうか、もしかしたら思った以上に初心なのかもしれない。

 そう考えている内に、少しだけ振りすぎてしまったカクテルを、太陽に輝く南国の果物のように飾り付けて、彼の前に差し出しました。先ほどとは違って、今度は少しずつ味わうようにして飲まれていましたね。

 彼は一つずつ言葉を噛み締めるようにして言葉を紡ぎました。

「遅い時間でいつもはあまり人もいないので、余計隣の人が気になってしまって。スマートフォンを見る振りをしながら、横目でどんな人なのか見てみました」

「――――普通の女性でした。綺麗ではありますが僕の凍り付いた心を溶かすには、()()()()()()()()()

「第六感と言いますか、言ってしまえばただの勘なのですが。彼女は何かがほかの人と違う気がしたのです。しかしながら僕の勘違いだったのでしょう、目線をスマートフォンに戻しました」

「そのまま時間は過ぎて、電光掲示板には電車が近づいている旨のメッセージが現れました。僕はスマートフォンを背中のバッグにしまいながら、次に来る電車が記されている掲示板を見ていました。すると急に周りが騒がしくなったんです。数えるほどしかいないホーム上の人たちが口々に何か叫んでいました。僕は――――――線路上に落ちかけている隣の女性を見ました」

 私は彼が何か言い淀んだことを感じましたが、彼の語りの虜になってしまってそれどころではありませんでした。彼は続けました。

「ふらふらと縁に近づいていたのでしょう。周りの人はそれを心配し、咎めているようで、僕はそれに寸前まで気が付いていませんでした。もしかしたら、眠気と疲れで意識が朦朧としていたのかもしれません。しかしそんな霧中の意識は晴天に引き摺り出され、気が付けば丁度手に持っていたバッグを放り出し、走り出していました」

「どんどんと傾いていく彼女の体に比例するようにして強くなる彼女の背後からの光、二つの目が狙いを定めるように輝いていて、彼女のシルエットを一瞬ずつはっきりとさせていきました。パーッと鳴る汽笛に運転手の怒号。何を言っているのかは聞き取れませんでしたが、大方、離れろ、危ないぞと叫んでいたのでしょう。その言葉は僕にも投げかけられていたのでしょうが、必死になっていた僕には何も届きませんでした」

「視界がホワイトアウトしていく中ではっきりとしているシルエットだけを目指して、モノクロになっていく目の前に決死の判断で手を伸ばすと、やっと黒の縁に触れることができたんです」

「タックルをするようになってしまいましたが、彼女を落下から救い、自分も離脱する頃、電車はそこそこの勢いで僕を掠めて進み、少しして止まりました」

「ここまでした後、はっとしたんですよ、なんで僕はこんな見知らぬ人のために命を懸けてるんだろうって。今考えるとそれは――――初恋、だったんだと思います。彼女が落ちていく間、電車のヘッドライトによってハイライトされた横顔が――――いや、()()現実に存在するどんな宝石よりもきれいに見えたものですから」

「正直な話、これは初恋なのか吊り橋効果ってやつなのか、すごく迷いました。でも、今までそういう感情を感じてこれなかった僕が、あの目に惚れ込んでしまったことは嘘だと言いたくないので」

 今思い出すと、彼は目を伏せながらも口の端を釣り上げていたように思いますが、この時の私はそれに気が付いていませんでした。

「まあ、結局僕は自分の命が助かった後放心しちゃって。駅員に彼女を任せたので電話番号すら知らないんです、そこが唯一の心残りですかね」

 

 私はこの嘘のような救出劇にいたく感動してしまって、暫く何も言えませんでした。正直な話、現実のようには思えませんでしたが、そんなことが関係なく感じるほどに彼のかたりは人を引き付けるものでした。描写は細かく、目の前に広がるような臨場感です。彼はこう続けました。

「でも身を投げた女性の目に惚れこむなんて、自分でも変だと思うんですよ。これってやっぱり変なんですかね」

 彼は先ほどよりもよっぽど真面目な顔をしながら、伏せた顔の下からこちらの目を伺い見ていました。バーテンダーの仕事を放棄して感動に浸っていた私ですが、矜持を思い出し、答えを返しました。

「お客様。確かにお客様がその女性に愛慕の情を抱いた状況は、おっしゃる通りに少し変かもしれません。しかしながら、状況がそんなに大切なものでしょうか。結果として、貴方は惚れ込んだ彼女の命を救った。それでいいじゃありませんか。」

「さらに言えば、目が綺麗だという理由で人を好きになる人間がいないわけではありません、あなたもその一人だということでしょう。そんなに不思議に思うものではありませんよ」

 私がここまで言い終わると、彼はいななきをあげて走り出す寸前の馬のように立ち上がり、私の目を正面から見つめて、もともと抑えきれていなかった口の端を更に吊り上げました。それは本当ににこやかで、心から笑えていることを見るものに理解させる笑顔でもあり、対峙した相手に原始的な恐れを抱かせるものでもありました。

「そうですよね。僕は変じゃない。ありがとうございます。これで決心ができました」

 彼はその笑みを浮かべたまま、こう言って当店を去りました。ネクタイを解き、残りのカクテルを一気に飲み干した後、お話を聞いていただいて本当にありがとうございましたと、最後に言い加えて。


 

 バーテンダーの最後の言葉は店内に響き渡り、却って店内の静寂を際立たせ、営業前の薄明るい店に佇んでいる二人に一つの終わりを想起させた。

「こんな感じです、刑事さん。何かお役に立てましたでしょうか」

 バーテンダーはカウンターを挟んで前に座っている彼に向かってそう言った。

「ええ、ええ、十分ですとも。これはかなりの進展ですわ」

 彼はやつれた顔をにんまりと歪ませて言い切る。不思議に思ったバーテンダーはためらいつつも生来の性を抑えきれずに尋ねてしまった。

「ところで、この情報は何の役に立つのでしょうか。私はただの色恋話をしたにすぎませんが……」

 彼の目が一瞬だけ内の逡巡を見せるが、あまり回らない頭に振り回されて直ぐに諦める。そんなに知りたいのならと、手間賃の代わりに彼はこの言葉を残していった。

「いえいえ、これこそがほーんとに欲しい情報だったんですよ。俺が今犯人を捜している、連続女性猟奇殺人事件のね。ホトケさん見るたびにやんなるもんですよ。なんたってみーんな目が抉れてるんだから。ああそうだ、最後に俺から一つ、バーテンダーさんに伝えたい情報があります」

「その日の遅延は、人身事故によるものでした」

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