片道切符
最期の小説『地獄旅行』の修正をちょっと行って、俺はパソコンを閉じた。でんげんを入れたスマホのホーム画面には、早瀬と行った水族館での記念の写真が設定されている。
「台風27号は、発達しながら南の海をゆっくりと北上中です。猛烈な勢力を維持したまま、関東近辺に上陸する見通しです」
テレビのニュースキャスターが読み上げるは、台風の日本列島接近の情報。季節的には、ちょうど台風シーズンだ。しかし、勢力が桁違いであった。
中心気圧は、920ヘクトパスカル。かの【伊勢湾台風】に近しい猛烈な勢力を保ったまま、日本列島を急襲しようとしている。午後からは、気象庁の会見が始まるらしい。
「お姉ちゃん、金曜日の学校、休みになったよ」
「うちのバイトのところは、通常営業でーす」
夕方、いつものように、弟の壮馬と姉の和葉がソファーを占領してくつろいでいる。俺は、それを横目に準備を進めた。
ファミレス、駅の西口、水族館で撮影された、早瀬と俺、さらに西園寺さんや信濃が映った写真を印刷してきて、ファイルにしまいこんだ。そのファイルを、いつもの黒リュックに入れた。
次いで、小説の全文のデータが入ったUSBメモリをリュックの小物入れへ。さらに、「あの人」の楽曲のアルバムも。仕上げに、『地獄旅行』の最後の一ページの印刷紙と、処方されている睡眠薬の錠剤を入れて、以上、準備は完了された。
まさに、「地獄」へ旅立つ準備であった。
あとは、台風がやってくる週末を待つのみとなった。事前に調べて準備した地図や路線図を再度確認して、そのメモが記された紙を机の奥へと突っ込んだ。決行は、今週末の金曜日。
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金曜日。
午前中は、穏やかな気候の予報だ。しかし、夕方から夜にかけては、台風の影響で急速に天気が悪くなり、記録的な暴風と強雨が予想されていた。気象庁はラジオやテレビ、新聞やネットで、繰り返し外出の自粛要請を伝えている。
母と父は仕事。弟は臨時休校となってソファーの隅にてゲーム中。姉のバイトは早めの切り上げになるとのこと。
「今までありがとな、母さん、父さん」
俺は、茶封筒を母のいつも座っている机の上に置いた。その封筒の表面には「今までありがとう」の文字が油性マジックペンで書いてあって、中には1000円札の束と、小銭がジャラジャラと入っている。
これは、親戚の人から貰ったお年玉や、両親から毎月貰っていたお小遣いをかき集めたお金。これで新しいパソコンやマウスを買おうかと思っていたが、「地獄」に旅立つ俺には必要のないものとなった。だから、この世界を生き抜く二人のためにと、置いていくことにした。
「兄ちゃん、どこ行くの?」
弟の壮馬は、リュックを背負って玄関へ向かった俺の背中に声を飛ばした。
「ちょっと学校行ってくる」
そうやって適当な嘘をついて、俺は玄関から家を出た。
——もう、家に戻ることは無いのだ。駅に向かってちょっと歩いたところで、再度荷物を確認した。
「写真、USB、アルバム、小説の最後、処方された睡眠薬……オッケー、完璧」
俺は、妙に晴れやかな気持ちで駅へと向かった。
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電車で揺られて数十分、俺はとある沢に近しい駅に到着した。周辺は山がちで、遠方にビル群が薄っすらと臨める。川の水量は、台風が未だ上陸していないことから少なく、穏やかな水の流れの奏でを聞いた。
(……空気が澄んでいる)
小鳥がさえずり、虫の音が合唱する。空気は植物の蒼っぽさを含んでいて、鼻腔を渋い香りで突いている。時々通り過ぎる車の音以外、俺の安らぎを邪魔するものは、そこに存在していなかった。
(メール送っておくか)
俺は、お世話になったみんなに、最後のメッセージを残そうと思った。メールのアプリをスマホで開いて、丁寧に言の葉を紡いで打ち込んだ。
——みんな、ありがとう。
家族には、そうやって簡単に送信した。お昼時で、もしかすれば母や父が、昼食時に閲覧してくれるかもしれない。今日は、台風が迫っているようだから、みんな北区の時間が早くなるだろうか。
(綺麗な緑と川の涼しさがいいね)
俺は沢の流れを作る岩の上にあぐらをかいて、考え事にふけった。
夢から目覚めて天井を見る度に、「また死なずに明日を迎えられた」と安堵する。その後は、「果たして明日という日はやってくるのだろうか」という不安に苛まれ続けるのみ。明日も、明後日も、その先も……
みんなと撮影した写真を見る度に不安に駆られる。もし、明日にでも日本を未曽有の惨禍が襲ったらどうなるだろうか。——地震、疫病、嵐、戦争が起こったとすれば、この写真に写っている人たちは、どうなるだろうか。
(考えたくもないな。考えたくないからこそ——)
そういう恐怖を抱える度に思い出すのだ。眠れない夜を、悪夢を、あの人の言の葉を、あの人の旋律を、弟の事故の知らせを、早瀬の美しさと優しさを、繰り返される大地のうごめきを、炎の熱さを、歴史の遺産を、日常の突然の破壊を……
黒い霧に包まれた未来からの警鐘に怯えて、体を震わせる。明日への不安、得たものが失われることに対する恐怖で、毎日腹がキリキリと痛む。腹を下しやすいのは、たぶんコイツらのせいである。
(俺の人生における最もな後悔は、この世に生を受けたことか……)
頬に手を添えて、メデューサに睨まれてしまったかのように硬直していた。
失われるぐらいならば、いっそ自分の中に永遠に閉じ込めてしまおう。今日は、その儀式をするために、こんな人気のない沢に一人、やってきたのだから。嵐が近づいているにも関わらず。
「未曽有の災害の恐れがあります。どうかみなさん、雨風の対策と、避難の準備を!」
スマホの画面に閉じ込められたキャスターは、繰り返し、台風の脅威を伝えている。
それを見ていると、あの人の言葉が思い出される。——「私は、永遠に自由だ」。
そして、過去に聴いたパイプオルガンの音が記憶の底から這いあがってきて、神との交流の白い景色を、俺の眼前に映し出した。なるほど、これが「自由」というやつか。何物にも縛られない、究極の「自由」か。
「……暑い」
昼下がりの沢には、日光が照り付けていて、夏の蒸し暑さを彷彿とさせる。俺は、リュックを林の中の日陰に置いて、沢の水に脚を浸けた。靴を履いたまま、靴下も脱がずに。
「あー気持ちいい……」
山から流れてくる冷涼な水が、足首のあたりを優しく撫でる。これは、母なる地球の慈愛に満ちた手のように思えた。荒んでくすんだ心が、すべて清らかな水によって洗い流されていく。
——水のようになりたい。かつてブルースリーも言っていたか、“Be water”と。俺は、遂に全ての不安の魔の手から逃れ、水と一体となって、永遠に自由になろうとしている。
その感動からか、俺の目尻からは涙の一滴が流れ出て、頬を伝って落ち、沢の水に紛れていった。