高嶺の花の早瀬さん
俺、【羽多 夏輝】は、かなりの口下手である。
中学校における休み時間の教室、見渡してみれば、多くの人が互いに会話を交えている。俺は、自分の考えを言葉で発して伝えることが昔から苦手だったので、友達と呼べる人はいなかった。
しかし、俺は目の前の机上――ノートに描き出した世界に夢中だったから、それは大して気にならなかった。
「何書いてるの?復習?」
俺と同じクラスの【早瀬冬紀】さんが、唐突に俺の席の近くに寄ってきた。
「……す、数学の復習をしてました。」
俺は咄嗟に、数学の参考書をノートの隣に広げた。しかし、もはや遅かったし、数学という科目を選んだことが間違いであった。ノートには、カギかっこの会話文が縦にずらりと並んでいた。
「ん?これ、小説じゃない?」
「あ……はい」
喉の奥から漏れ出たような掠れた声で返事をしていた。
早瀬さんは、ノートを覗き込んだ。頭の短めの黒髪と、それを留める空色のヘアピンが眼前に迫る。――ちょっと柑橘系の香りがした。
俺は、首を捻って、そっぽを向いた。
数学の復習をしていたというのは嘘で、本当は小説を書いていたのだ。
「へぇ、すごい文字の量じゃん。後で読ませてよ。気になるからさ」
「は、はい。いいですよ……」
俺は、二つ返事で答えてしまった。心臓が、バクバクとうるさい拍動を奏でて、額と背に冷たい汗が伝った。早瀬さんは、黒板の前で談笑していた女子グループの方に去って、そこへ混ざっていった。
「あ、冬紀ちゃーん」
「何話してたの?」
「現代文のこと~あと、最近買ったお洋服の話~」
――はぁ、疲れた。ただあの刹那で、かなりのエネルギーを奪われた気がする。
俺は、老若男女問わず、人に突然に話しかけられると、背中が汗でびっしょりになってしまう。なぜなら、「話す準備」ができていない状態だから。
授業の内容について、人前で発表したりとか、一人で教科書を音読するとか、そういうことは「話す準備」ができるから、特段の緊張を要さない。だけれど、先ほどの早瀬さんが話しかけてきたような状況では、「話す準備」ができていないから言葉に詰まって、自分の内なる思いを伝えられずに終わってしまうのだ。
――本当なら、自分が書いた小説なんて読まれたくはなかった。しかし、俺はあの状況を切り抜けるための刹那的な回答しかできなかった。こんな拙い文章は、人に見せられたものではない。
(落ち着け。緊張してるヒマがあるなら、授業の予習でもしたほうが有意義じゃないか)
俺は、携帯しているタオルで背中の汗を拭った。それから首元と、額を拭った。
心が落ち着いた俺は、次の理科の授業を受ける準備をするため、教科書とノートを机の奥から引っ張り出して、それを何となく読み込んだ。
なるほど。次は、化学反応式を学ぶのか。化学式の書き方を覚えているか、確認しておくと良さそうだ。
俺は、教科書の一部を消しゴムで隠しながら、習った化学式を一つ一つ、テストするようにノートへと書き出した。それが済んだら、授業まであと5分のところ。先ほどの小説の書かれたノートを取り出して、続きを執筆し始めた。
小説ならば、文章ならば、この不出来な口を介さずに、心が直接に叫ぶことができるのである。
文字を使って、叫べ。この信念が、俺の小説へのモチベーションを高く保ってくれるのである。
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