ルイーゼは小部屋にいる
分厚い天鵞絨の上衣をぴたりと着込み、手燭を掲げて青年貴族が先に立つ。古い家柄のアルテリア伯爵家を若くして継いだオスカーだ。魔法使いに特有の銀と紫が混ざり合った髪を綺麗に撫で付けて、首の後ろで束ねている。
「初めに申し上げておきますが、これからご覧になることは全て伯爵夫人のご希望により自らなされた事です」
後に従う同じ年頃のハンスは、磨き上げた焦茶色の革靴をコツリと鳴らして石段を昇る。蝋燭のわずかな灯りに、宝石付きのバックルが光った。バックルには皇太子を示すアヤメと剣の組み合わせ紋が刻まれている。
一方のオスカーもバックル付きの靴を履いている。バックルの形は少し変わっていた。よく見ると文字のようだ。薄暗くて、それ以上は分からない。
「なんだね?この薄暗い階段は?使用人通路ですらなさそうだが」
「ですから、我々が強いているわけではないのです」
オスカーは淡々と繰り返す。
不満顔のまま案内された先には、粗末な木の扉があった。ギィと軋んで扉が開く。伯爵より先にも皇太子より後にも、お付きの者や護衛が見えない。必然的に伯爵手ずから開けることになった。
「この空っぽの小部屋を、ルイーゼが望んだと?」
皇太子はスラリと剣を抜く。あわや刃傷沙汰とならん先に、小柄な乙女が躍り出た。
「その通りなのです、お兄様!」
適当に束ねた銀髪は艶もなく、身につけた騎士服は着古したものだ。
「何?伯爵貴様、何か支配魔法でも使いおったか?」
いきりたつ皇太子ハンスに、ルイーゼは反論する。
「いいえ、お兄様!広く物の多いお部屋には、賊が潜む陰やあらぬ嫌疑を裏付ける捏造証拠を隠す隙間が多いではありませんか」
「それだと言って、ルイーゼ」
皇太子は呆れて言葉に詰まる。
「私も説得は試みたのですが」
オスカーの声には疲れすら見えない。ハンスは気づいた。彼の無表情は冷淡ではないのだ。
「伯爵、愚妹が苦労をかけるな」
「苦労だなんて、勿体ない」
平坦な声を出す割には、頬の筋肉が必要以上に強張っている。
ガランとした部屋の中央には簡素な寝台がひとつ。天蓋もカーテンもない。壁際には衣裳櫃があるが、薄いものが重なっていた。人が隠れる余地はない。
鏡の下に机がある。椅子が一脚、引き出しはない。椅子の座面は剥き出しだ。クッションすらない。物を仕込まれる隙を与えない為だ。
「ルイーゼよ、せめて寝台に布団くらい敷いてはどうだ?」
「なにをおっしゃる、お兄様。毒や不義の捏造書簡などを忍ばされたら終わりですよ?」
「はあ。火急の用だと呼ばれて来てみれば。何をやっておるのだ。人騒がせな」
皇太子ハンスは疲れたように伯爵オスカーを見た。ピクリ、とオスカーの頬が引き攣る。
「オスカーさま?」
ルイーゼが咎めるように片眉を上げた。オスカーは、とうとう堪え切れずに笑い出す。手燭を持つ手が下がり、蝋燭の光が足元を照らした。靴の右足を飾るバックルはL、左足はOだった。
「酷い方」
拗ねたルイーゼに駆け寄ると、オスカーはぎゅーっと新妻を抱きしめた。
「私の勇ましいルイーゼ、何度言ったら解るんだい?我が城を狙う物どもには相応の報いがあるから、安心していいんだよ」
「そうだぞ、ルイーゼ。自分勝手な防衛策に固執して、伯爵を困らせるでない」
「お兄様まで。もういいわ。元のお部屋に戻ります」
「おお、偉いぞ。過ちを認める勇気を褒めてやろう」
皇太子にも小言を言われて、ルイーゼはとうとう観念した。それでも不満は口にする。
「最近の襲撃やら捏造証拠やら、目にあまりましたもの」
「それはそうだけれども。そんなの信じるやつはただではおかないと日頃から言っているではないか」
「オスカー様、あたくし、守られるばかりではないって知って欲しかったんですのよ」
少し頬を膨らませた妻に、オスカーは目尻をすっかり下げている。
「ああ、役に立つよ。凄いよ、ルイーゼ。私のルイーゼは賢く勇敢で、武芸にも秀でているね!」
青年伯爵オスカー・アルテリアは抱きしめる腕に力を込める。後ろでは皇太子ハンスがさっさと部屋を出ようとしていた。
「ほら早く。こんなとこにいたら風邪引くぞ」
オスカーはルイーゼに優しくひとつ口付けを落とし、扉の方へと導いた。手燭の灯りが階段を降り始め、粗末な扉はパタンと閉じる。後には真っ暗で何もない部屋が寒々と残された。
「ひぃー、なんだあいつら。3人してすげぇ殺気だったぜ。殺気で死ぬかと思った。やめやめ、こりゃ主よりおっかねぇ連中だ。今夜のうちに国境の山を越えるとするか」
剥き出しの梁に張り付いていた黒ずくめの人物が、愚痴を溢しながら冷や汗を拭う。耳をそばだて、足音が完全に消えたのを確認すると、窓からそっと外を見下ろした。
「どうやら大丈夫そうだな」
でこぼこした外壁をトカゲのように這い下りて、黒ずくめの人物は宵闇の中に溶け去った。
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