其の六
ある日、権野は部下数人を連れて帰宅した。外では込み入った話もできないので、自宅で酒を酌み交わすことにしたのだ。とはいえ、もちろん酒肴は馴染みの店で作らせたものを持ち帰ってきた。
妻は何も言わずに酒の仕度を済ませると、やはり早々に自室に下がろうとした。
「透子、どこへ行くんだ。ここに居なさい」
権野はあわてて妻を呼び止める。
彼は怒っていた。ここは家内として主人とその客人をもてなすべきではないのか。客の前だから控えているが、本当は叱りつけたいところだ。
だが妻は彼の意思に反して、笑顔で戸口まで下がる。
「私がいては皆様お話ししづらいこともございましょう。どうぞ私のことはお気になさらずおくつろぎください」
そう言って礼をすると、戸を閉めて出て行ってしまった。
権野は絶句した。夫の制止も聞かずに出ていくとは何事か。しかもよりにもよって部下達の前で、このような所業に出るとは。彼はまたもや内心舌打ちする。
ここ最近というもの、妻は以前とはまるで違ってしまっている。かつての透子は、朗らかで、穏やかで、従順な女だった。それが今は冷たく反抗的だ。
(――こんなことなら、生き返らせなければよかったか)
いや、と彼は脳裏を過った意識を振り払った。――何を馬鹿なことを。
(私は妻を愛している。この選択は間違ってなどいない)
***
「そういえば少将、うちの子、この間一歳になったんです」
酒も進み酣になった頃、ほろ酔いになった部下の一人がそう言うと、懐から一枚写真を取り出して見せてきた。そこには満面の笑みで手を上げてこちらに歩み寄らんとする幼児が写っていた。
「――かわいいな」
そうは返したものの、権野の表情は曇っていた。
権野とその妻には子がない。結婚してからしばらく経つがその縁が巡ってくることはなく、そうこうするうちに、妻は生き人形になってしまった。もう望むことができないそれを思うと、権野の胸のうちは重く沈むようだった。
権野の様子に気づかないまま部下は続ける。
「妻も、結婚した当初はおどおどして危うい感じだったんですがね、この子が産まれてからは急にしゃきっとしましてね。やはり女子は子を生んで一人前になるんでしょうか」
「――そうだな」
そう応えると、権野は酒盃をあおって中身を一気に飲み干した。
彼は思った。そうだ、この部下の言うとおり、女は子を生んでこそ一人前というものだ。だが透子はどうだろう。彼女はもう子をなすことができない。
――そんな女に、価値などあるのだろうか。
そのとき、権野はふと何か恐ろしいものを見た気がして身震いした。きょろきょろとあたりを見回したが、周りに酔っぱらった部下達がいるばかりで、特に変わった様子はない。
(少し飲みすぎたか)
彼は水をあおると、頭を振った。――きっと気のせいだ。
――戸口の隙間から、恨めしげな目がこちらを覗いていたなど。
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