其の五
あれから数ヵ月が過ぎ、遂にその日を迎えた。
稔から報せを受けた権野はすぐにやってきた。挨拶もろくにせず勢いよく駆け込んでくると、部屋という部屋を無造作に開けて妻の姿を探す。すると一番奥の間を開けたとき、布団の上に上体を起こして座しているその人を見つけた。
「透子」
権野は妻に駆け寄ると、その身体を強く抱き締めた。しかしすぐにびくっと身を強張らせて抱擁を解いてしまった。
(――冷たい)
妻には体温がなかった。当たり前だ。彼女は人形なのだ。血の通った人間とは違う。そんなことは初めから理解していたし覚悟していたはずなのに、いざその事実を目の当たりにすると、彼の軍人たる冷静さをもってしても動揺を隠せないのであった。
彼は不安げに妻を見た。彼女はまだ意識がはっきりしていないのかぼんやりと夫を見つめているばかりである。
どうしてよいかわからず、権野はきつく目を閉じて妻の手を握った。
「――あなた」
ふと、聞き馴染みのある声で、か細く呟かれるのが聞こえた。権野は、はっと顔を上げる。
そこには不思議そうな顔で彼を覗き込む妻の顔があった。その瞳は先ほどとは違って微かにだが、確かに光を宿していた。それを見ると権野は思わず涙をこぼす。そして改めて妻を強く抱き寄せた。
「透子、よく戻ってきてくれた。もうどこにも行かないでくれ。――愛している」
紅子と稔はその様子を戸口からそっと眺めていた。
一見すると感動の再会なのだが、紅子は先だっての稔と権野のやりとりを聞いていただけに、引っ掛かりを感じずにはいられなかった。
稔は権野を相当に恨んでいたはずだ。それがあっさりと妻の蘇生を引き受けた。
しかし、あれだけ手痛く批判していた相手の要求を掛け値なしに呑むことがあるだろうか。何か裏があるに違いないと、紅子には思えてならない。
何より、あのとき稔が呟いた、「権野は何もわかっていない」という言葉の意味が彼女の疑念を強めている。
紅子は視線を横に佇む男に向けた。
彼は、ぞっとするほど不気味に微笑んでいた。
***
権野と妻は家に戻ると、以前のように暮らしはじめた。
しかし異変はすぐに起きた。
「おい、なんだか味がおかしいぞ」
出された食事を少し口にすると、権野は語気荒くそう言った。夫の不満げな様子を見ると妻は困ったように微笑む。
「ごめんなさい。味がよくわからなかったものですから」
「味がわからない?」
権野は眉を潜めた。すると妻はやはり困ったように微笑んで、私が人形になってしまったせいかもしれませんね、と言う。
妻の言葉に権野は一瞬、はっと顔を強張らせたが、すぐに笑顔を取り繕った。
「――そうだったのか。余計なことを言ってすまなかった。気にしないでくれ」
妻は、はい、とひとつ返事をすると居間から出て行ってしまった。――家に戻ってからというもの、彼女は夫が食事している場に同席しようとはしなかった。権野はてっきり彼女が食事を必要としない身体になってしまったが故に、誰かが食事している様子を見るのが苦痛なのかとばかり思っていたが、なるほど、味がわからなくなっていたとまでは考えが及ばなかった。
しかしそうなると今後、彼女に食事を作らせるわけにもいかない。いくら妻の手料理とはいえ、口に合わないものを食べ続けるのは苦痛だ。権野は小さく舌打ちをする。
(透子の取り柄は料理上手なところだったのだが――)
彼は料理に手をつけず立ち上がると外へ出た。馴染みの店にでも顔を出して何か食わせてもらおう。権野はそう思った。
夫が外出した気配を察した妻は居間に戻ってきた。やはり手をつけられずに残った料理をじっと見つめていたが、やがて、ゆっくりとした挙動でそれを片付けはじめた。
その表情が冷たく凍りついていたことを、夫は知らない。
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