其の六
――あれから幾年経っただろうか。
布団に横たわり、手鏡に映る自分の姿をじっと見つめながら、紫は思った。
緩く纏めた長い白髪に、全身に皺が刻まれ、やつれた身体。それが今の彼女の姿だ。
紫は年老いた。そして病を患っている。年相応。そう言えばそれまでだが、彼女にとってそれは、ただ漫然と受け入れられる事実ではなかった。
ふと夫が隣に座る。鏡に映し出された彼はあの日と少しも変わらず、艶やかな黒髪の溌剌とした青年のままだ。
(私だけが、老いていく)
老女はいつまでも若い夫の頬に触れた。すると彼はやはりいままでと何一つ変わらない優しい笑顔で彼女を見つめ返す。
(私はこの人を置いて死んでいくのね)
――彼は、いくら時が過ぎても死ねないというのに。
彼女はふと、ずっと聞きたかったことを、尊に尋ねた。
「ねえ、もしあのとき死んだのが私で、生き残ったのが貴方だったら、貴方は私を蘇らせた?」
唐突な質問に不思議そうな顔をするも、尊は笑って答える。
「当たり前じゃないか。君の居ない世界に独り生きていくなんて、俺には無理だもの」
それを聞くと、長らく彷徨っていた心が定まったような気がして、紫は覚悟を決めた。
――遂にそのときが来たのだ。
「ねえ尊、私を殺してちょうだい」
予てよりずっと考えていたことを、けれどずっと言うまいと胸にしまっていた思いを、紫はとうとう口にした。
虚を衝かれた尊は絶句して一瞬動きを止めたが、途端に表情を険しくして首を横に振る。
「何でそんな事言うんだ」
「わかるでしょう。私はもう長くない。――ずっと思っていたわ。私は貴方の時間を、あるべき姿を貴方から奪ってしまった。けれど私を殺せば、貴方を自由にしてあげられる」
紫はすべて知っていた。彼をこの呪縛から解き放つ方法を。
あの日、尊を人形にしたとき、稔から全て聞かされたのだ。
みるみるうちに顔を歪めて涙を流す夫の手を優しく握ると、紫は彼の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「私は独りになるのが怖くて貴方を人形にしてしまった。だけど、このままでは今度は貴方が独りになってしまう」
「――君も生き人形になればいいじゃないか」
紫は面食らって一瞬固まった。そして尊が真面目な顔でそんな突拍子もないことを言うのがなんだか可笑しくて、場違いにも思わず笑ってしまった。
だが不意に哀しげに目を伏せると、彼女は静かに首を横に振る。
「それも素敵だけれど、きっと稔さまは拒まれるはずよ。――私も、それを望まない」
「どうして」
紫は縋るような、責めるような夫の視線を真正面から受け止めて、穏やかな顔で答える。
「命の理は、欲望のままにみだりに書き換えて良いものじゃない。あのときは、稔さまの温情で貴方の蘇生が行われたけれど、私は寿命よ。このまま死んでいくのが、正しい姿なの」
「――そんなのあんまりだ。それなら俺だってあのときが寿命で、あのとき死ぬべきだったんじゃないか」
「そうよ」
紫は静かに、だがはっきりと肯定した。
今までの時間を全て否定された気がした尊は思わず言葉を失う。
呆然とした夫の様子に紫の心は激しく痛んだが、それでも彼女は逃げない。
「貴方はあのとき死ぬべきだったの。けれど私の我儘で、貴方の命を恣にしてしまった。私も、稔さまも、紅子さまも、皆、間違っていた。私はあのとき、貴方の死を受け入れなくてはいけなかった。そうすれば、貴方を不死になんてしなければ、こんな思いをさせずに済んだのに」
ごめんね、と涙を流し、紫は、ぎゅっと顔を歪める夫の額に自らの額を寄せる。
尊はしばらく黙って息を詰めていたが、目を瞑って呼吸を整えた。そしておもむろに口を開く。
「俺は、後悔していない。紫とこうして寄り添う時間を与えてもらえたことに心から感謝している。だからその代償に、君の居ない世界を永遠に生きることになったとしても、それを受け入れるよ」
そのまま妻を抱き寄せると、掠れた声で言った。
「だからどうか、俺のために死ぬなんて言わないで」
彼の言葉に紫はいよいよ堪らず声をあげて泣いた。尊はそんな彼女の背を撫でてやる。
二人はそうして互いの温もりを確かめ合った。
二人の身体を流れる時間は大きく乖離してしまった。だが二人の心は間違いなく同じ時を生きているのだ。
そして数日後、紫は静かに息を引き取った。
――愛する夫が傍で見守るなか、幸せそうな笑みを浮かべて。
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