其の一
屋敷のある雪深い山から納品のために市街に下りてきた稔は、天高く昇る日の暖かさに目を細めた。季節は初夏。重い荷物を抱えての移動に、背中にじんわりと汗が滲む。
普段は滅多に人前に出ない稔であったが、こうして年に数回、街に下りるのを己に課すことで、人としての生活を忘れないようにしていた。
道を歩けば普段は聞き慣れない喧騒に包まれる。稔は騒がしいのが別段得意なわけではないが、この街の賑やかさは嫌いではなかった。取り分け紅子がろくに口を利いてくれない今は、心地よくさえある。
しばらく行くと依頼主の邸宅に辿りついた。すると、稔の到着を待っていたのかぴょこぴょこと跳ねて手を振る男の姿が見える。
「稔さん、久しぶり」
男――兵平はにこやかにそう声をかけて駆け寄ってきた。
「兵平さん。ご無沙汰していました」
「ここしばらく姿を見なかったから、死んだかと思ったよ」
兵平は快活な笑顔で物騒なことを言いながら稔から荷物を預かると、早速検品をはじめる。そして万事問題ないことを確認するや否や、世間話に移った。
「死んだか、ってのはあながち冗談でもないんだよな。知ってるか? 随分前にお取り潰しになった隠密一家の残党が今更お尋ね者になってるって話」
山籠りが常であるせいで世事には疎い稔は首を横に振った。否、元よりそういった話にあまり興味が無いので、聞いても忘れているだけということもあるが。
関心の無さが災いして能面のような顔になっている稔に構わず、兵平は、ここだけの話だぞ、と余計な前置きをして続ける。
「なんでも数人取り逃がしたんだってよ。そのうちの一人はその隠密の家の姫さんらしい」
男は稔の耳に口許を寄せると、こそこそと小声でその先を話す。
「その姫さんてのは、背中に梅の花と髑髏の刺青の入った女らしいが、他人さまの背中なんざそうそう拝めるもんじゃないってんで、なかなか見つからないんだと。あんた色男だから一応注意しておきな。万が一引っかけた女がそいつでも絶対関わり合いになっちゃならねえ。隠密の家の出だからか相当腕が立つらしいからな、殺されちまう」
へえ、と呟くと、それまでの無関心ぶりとは打って変わり、稔はこの上なく不気味な微笑みを浮かべた。
「――なるほど。覚えておきましょう」
***
紅子は今日もぼんやりと常雪の庭を眺めていた。
この屋敷に住まうようになってからしばらく経つが、相変わらずこの場所には生命の気配はない。紅子は白く長い指で地面に積もった雪を触ってみるが、何も感じるところはなかった。――虚しさが胸に広がる。
椿が発って以降、ここしばらくは人間も人形も訪れることはなく、稔とたった二人、静かに過ごす日が続いていた。
静かというより、稔とは一切口を利いていないというのが本当のところだ。元々会話が多かったわけではないが、それでも他愛ない世間話くらいはあった。しかし先だっての出来事以来、紅子は稔にどう相対してよいか、よくわからなくなってしまったのである。
人形師と人形。それまでは、それだけだった。だが今ではお互いの命を握り合う関係になってしまった。元よりそうだったのを紅子が知らなかっただけなのだが、それを知る前と後では、心持ちが全く違ってしまっているのは紛れもない事実だ。
紅子はふと物思いから覚めると、庭の奥から何かを引き摺るような音が近づいてきていることに気づいた。彼女は身構えた。稔は留守にしていて今は自分一人しかいない。紅子は人形なので命を奪われる心配はないが、怖いものは怖い。青ざめながら様子を伺うも、音は止むことなく、むしろどんどん大きくなってきている。彼女は慌てて硝子の嵌まった重い格子窓を閉めて部屋の中から外を伺った。すると程なくして音の正体が姿を現す。
それを見るや否や紅子は悲鳴をあげて、そのまま気を失った。
――それは血塗れの男を引き摺って進み来る、同じく血塗れの女だった。




