其の二
息も凍るような寒い冬の日であった。
紅子は受注した普通の人形製作に勤しむ稔の集中を切らさないように音を殺して部屋に入ると、卓に静かに茶を置いた。彼はそれに気付かず尚も黙々と作業を続けている。
かりかりと木を削る音が部屋を満たしている。
紅子は本来ならささやかなその音が大きく聞こえるくらい静かな部屋の隅にそっと腰かけると、ぼうっと庭を見やった。
全てが雪の白に埋め尽くされるなか、濃緑の葉を湛えた小さな椿の木が慎ましやかな赤い花をつけている。
それは、全ての生命が息耐えてしまったかのようなこの地に唯一、紅子が見つけた命の気配である。
雪深い山奥に位置する稔の作業場を兼ねた住まいは、人どころか獣ひとつ通りかからないくらい静かな場所にあった。あまりに生き物がいる痕跡がないので、自分をここに置くまで一体この男はどうやってここで独り暮らしてきたのだろうかと、彼女は疑問に思うのだった。
不意に木を削る音が止んだ。途端に部屋は無音になる。
――まるで時が止まってしまったようだ。紅子はなんとなく嫌な感じがして小さく身じろいだ。
その時、稔が大きく伸びをして身体を捻った。そして卓に置かれた茶の存在に気付くと、部屋の隅を振り返る。
「おや、紅子さん、そこに居たんだね」
にっこりと笑った男は一言礼を述べて茶を啜る。まだ少し熱かったのか、ふうふうと息を吹き掛けている様子に、紅子は不思議と安堵した。
「精が出ますね」
「そうだねえ、得意先からせっつかれているからね、たまには真面目にやらないと」
稔は冗談めかしてそう言うと、作業台を振り返った。先ほどから取り組んでいる素体の他に既に出来上がった人形が数体置かれている。それらはどれも精緻で繊細な作りで、彼の腕のよさを示していた。
優美でどこか憂いを帯びた表情のそれらは生気に満ちていて、素直に美しいと紅子は思った。
だが一方で、無を体現したようなこの空間で、あたかも生命を宿したような無生物が生み出されているという事実を、それを生み出しているこの男を気味悪くも思う。
何より、自分自身がこの人形師の手によってこの世に再び呼び戻されたという事実が、ひんやりと背筋を撫でるのであった。
稔は、紅子のことを「生き人形」と言った。
彼は何故、そんなものを作るのだろうか。
彼は何故、自分を「生き人形」にしたのだろうか――。
「紅子さん、聞いてる?」
突如名を呼ばれ、紅子は我に返った。見れば稔が眉根を寄せてこちらを覗き込んでいる。
「申し訳ありません、ぼんやりしておりました」
「じゃあ改めて。今日、知人が訪ねてくるからちょっとお世話をお願いしたいんだけどいいかな?」
紅子は、はて、と首を傾げた。こんな山奥に客人とは、一体どんな数寄者だろうか。というよりも――
「稔さま、お得意様以外に生きている人間のお知り合いがいらっしゃたのですね」
「紅子さんは僕をなんだと思っているのかな」
稔は眉根を寄せたまま不気味に微笑む。紅子は無表情に「なんでもありません」と返すと、改めて客人の件について疑念を投げ掛けた。
「私は構いませんが、『生き人形』の私がお客様の前に出て差し支えないのでしょうか」
女の心配をよそに、男は破顔する。
「大丈夫、君がまさか死んだ人間だなんてわかりやしないよ。それに――」
ふと声を潜めると、伏し目がちに稔は言った。
「彼の目的は、その『生き人形』だからね」
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