第二夜
「おや?部屋の雰囲気が少し変わっているね。」
宣言通り、その夜も部屋を訪れた少将は格子戸を開けとそう言って部屋を見渡した。
必要最低限の家具もなく殺風景だった部屋は几帳がおかれ鏡台や夜具も整っている。
香が炊かれた部屋はやんごとない姫君の部屋といった風だ。
「阿漕が頑張ってくれたのです。少将様をお迎えするから、と。」
朧は几帳の影から説明した。
「おや、それは無理をさせたね。だが、姫君が隠されてしまうのは残念だな。」
少将がさも残念そうにため息を吐いた。
「そ、それは……」
姫君としては、几帳の影にいることは普通のことだ。
しかし、少将様は今後の雇用主だ。使用人となる身としてはアウトだろう。
そろそろと几帳の影から抜け出してみる。
「おや、これは…………」
その姿を見た少将は目を見張った。
昨日の朧は下着である着物と袴の上から一枚着物をかけただけの姿であった。
その着物も袖は擦りきれており、所々に穴が空いているような酷い物だったのだ。
しかし、今日は真新しい紫色の打掛を羽織り、髪も美しくすいて流されている。
そもそも朧はとても美しい姫だ。
涼やかな目元を覆う睫毛は長く影を落としている。白く透き通るような白い肌に、紅をささなくても桃色に色づいている唇は小振りで可愛らしい。濡れたように黒い髪は艶やかでサラサラと背を流れている。
「前言撤回だ。これほど美しい姫君を見られることのなんと幸運か。その美しさの前には月も恥じ入って隠れてしまうだろう。阿漕に感謝しなければ。」
少将に感心したように見つめられ、朧は居心地悪そうに座りなおした。
そもそも少将様とは恋人でもないし、結婚だって偽装なのに。
なんだか自分が張り切っておしゃれをしたみたいではないか。
どうしよう。なんかすごい恥ずかしい。
落ち着かずに顔横の髪をいじったり無駄に袖を伸ばしたりしてしまう。
そんな朧の様子を少将はくつろいだ様子で眺めている。
「ほ、褒めすぎですわ。あの、それより少将様。昨日のお話ですけれど・・・」
「うん?」
朧は居たたまれなくて話題を変えることにした。
「二条のお邸へはいつ頃お移りになるのでしょう?阿漕のこともありますし、できれば目安などを教えていただけると助かるのですが。」
「ああ、そうだね。できるだけ急いで整えるうように言ってあるから雪の頃を迎える前には移れるはずだよ。」
「そうなのですね。」
雪の前となると1ヵ月程度だろうか。思っていたよりも早くに転職できそうだ。
「しかし、阿漕のことと言うと?彼女も針子をしているのかい?」
少将様が不思議そうに尋ねた。
「いいえ。阿漕は三の君に仕える優秀な女房ですもの、そのようなことはありません。ただ、私がここを去った後、この邸に残していくのは心配で。」
阿漕は私の乳姉妹で、もともと阿漕の母は私の母に仕えていたのだ。母は皇族の血を引く姫君だったが私が6歳の頃に亡くなってしまった。その後、この父の邸に引き取られた私について来てくれたのだ。もとは私の女房をしていたが、継母が『落窪に女房など不要』と言い三の君の女房に変更させられてしまった。
阿漕は気が利くしセンスもいいので可愛がられているようだが、やはり北の方がいるここに残していくのは不安がある。
「そうか。では、阿漕も一緒に?」
「いいえ。それはできませんわ。」
阿漕は姫君としての扱いを受けていない私の境遇に憤慨している。その私が使用人となって少将様の邸で働く、なんて言ったらそれこそ猛反対するに決まっている。
一緒に行く前に断固として止められ、少将様を何としてでも追い返すだろう。
「阿漕には親しくしている叔母がいるんです。和泉の守の夫人で子どももいないので、前々から阿漕を養女にしたいとおっしゃっているそうです。今日の着物や調度品もその方からお借りしたようで。私が邸を出るころに、阿漕もそちらに行けるよう準備できたら、と思いまして。」
和泉の守は貴族としては下級だが、大変羽振りのいい貴族なので養女になれば不自由はしないだろう。むしろ中流貴族の中納言家で女房をするよりよっぽど贅沢な暮らしができるに違いない。
『私は姫様を着飾らせたいのです!それにお部屋だって、本当はこれだけでは全然足りないくらいですのに。いい家具はみんな北の方が取り上げてしまって!』
悔しそうに言いながら部屋や私を飾り付けていた阿漕。
正直、生まれてからずっと一緒だった彼女と離れるのは辛いし悲しいが、何もしてやれない私のそばに居続けるより幸せになれるだろう。
“落窪の君”のままでは菓子ひとつあげることができない。
「なるほど。和泉の守の邸までとなると少し遠いから、帯刀は残念がりそうだな。私が姫君を攫ったと知ったら責められそうだ。」
少将が少し笑いながら言った。
阿漕の夫帯刀は、三の君の夫蔵人の少将に仕えている。二人が出会ったのもその縁だったらしい。
「少将様は帯刀様と乳兄弟でしたわね。」
「そうなんだよ。彼の母親が乳母なんだが、息子が結婚したせいか次は私に、と気合いがすごくてね。」
「そうでしたか。」
それで少将様が契約結婚なんて言い出すくらいなのだ。きっとものすごい気合いなんだろう。
朧は少し考えてからスッと少将の前に跪いた。
「…少将様。無礼を承知でお願いしたいことがございます。」
「どんなことだろうか?」
「どうか、帯刀様が阿漕を蔑ろにすることのないよう、もしそうなれば少将様から苦言を呈して頂けるよう、お願い申し上げたいのです。」
この時代、結婚は完全に男性次第だ。男性は何人妻がいてもいいし、正妻も側室もない。自分の邸を持つときに迎える妻も、多く通っていた人、というくらいでなんの決まりもないのだ。
「それならば心配はいらないだろう。帯刀は妻に骨抜きでついでに頭も上がらないようだし。」
少将が思い出したように笑う。
昨日、少将様のだまし討ちに帯刀が協力していたことを知って阿漕は随分と怒っていた。長い文句の手紙もしたためていたような気もする。
「そうはいっても、人の心は移ろうものですわ。どうか、帯刀様には阿漕を唯一人の妻として大切にするよう努めて頂きたいのです。」
「唯一人の妻、か。そういえば、帯刀が結婚するときにそのように約束したと言っていたな。姫君も同じような思いなのかい?」
阿漕の話をしていたはずが急に私のことを聞かれ戸惑う。
「私ですか?……そうですね。そのような相手ができるとは思いませんが、もしそうなるならお互いに唯一として大切にし合える人がいいと思います。」
前世の記憶は曖昧な部分も多く、細かなことはほとんど覚えていない。それでも、結婚はただ一人の人とするものだ、という前世の価値観は私の中に刻み込まれている。阿漕にも小さいころから繰り返し、浮気をしない人と結婚しなさい!と言っていた気がする。
それを聞いた少将様はふむ……と少し考え込むようにしていたが、やがて顔を上げると何か吹っ切れたような顔でしっかりと頷いた。
「わかった。姫君の願いはこの右近の少将、藤原道頼がこの身にかけて叶えよう。」
「まあ!ありがとうございます!」
まさか、阿漕の夫の浮気防止の約束にそこまで言ってくれるとは。
朧は顔を隠すのも忘れて破顔した。
右近の少将は近衛兵の将校といった感じです。