07.ゴキブリ雷夜《らいや》とミスター低低《て-て-》-2
魔術学校は単位制で、学びたい分野や取得したい資格に沿って各自が自由に授業を選択するスタイルだった。とはいえ新規入学者は、専門的なことを学ぶ前にまずは基礎講座をひととおり履修することになっている。しかしその基礎講座の授業で雷夜――砂映はその時点ではまだ名前を知らなかったが――の姿を見かけたことは一度もなかった。
(学校に、来ていないのだろうか)
砂映はたまにその子のことを思い出しては、何か事情があって通えなくなっているのではと心配していた。
あまりにも魔力量が少なくてあまりにも魔精感度が低い、自分はおそらく入学者たちの中で一番の劣等生だと思い始めている中で、それでも自分はまだここに通ってどうにかこうにか授業に参加しているけれど、学校に来てもいないあいつはどうなるのだろう、と思ったりもしていた。
単位取得の危うい者向けの補講などでも見かけない。もしかして、すでに学校をやめているのだろうか。
そんな風に思っていたある日だった。たまたま授業が休講となり、砂映は同じ授業をとっていた数人とともに、訓練ルームか図書室のどちらに行こうか、などと廊下で話していた。
するとふいに、遠い視線の先の渡り廊下を歩いて行く、例の子の姿が見えた。
「あ、俺ちょっと・・・・・・用事」
それだけ言うと、砂映は輪を抜けて走り出した。
例の子は、一般の生徒があまり行くことのない、教師の研究室や特殊な設備のある部屋などがある棟に入っていくところだった。
(なんでだ?久しぶりに学校に来て、場所がわからなくなっているとか?)
しかしそのわりには、迷いのない足取りでその子は進んでいく。
砂映自身も一度も入ったことのない棟だった。
一度姿を見失い、再び見つけたけれど、声をかける間もなく、その子は教室のひとつに入ってしまった。
その教室のプレートには「黒魔術実験室Ⅵ」と書かれていた。
(なんだここ)
砂映は思わず中の様子を窺った。
魔精感度の低い砂映には、中で何が行われているのかまるで感知できない。
ただ、そんな砂映にさえ、その教室から漏れ出す妙にどろっとした瘴気のようなものは感じられた。血のにおいがするのは、気のせいだろうか。
(中で何が・・・・・・)
音などは、一切聞こえない。
かなり長いこと粘ったが、何もわからないまま時間だけが過ぎた。
(諦めて、戻ろうか)
そんな風に思い始めた時だった。
「しぶといわね。ほんとにゴキブリみたい。ちょっと休憩してくるわ」
ふいに声がしたかと思うと、がらりと戸が開いた。
「あ」
と砂映が声を出したのは、人が出てきたことに驚いたからだけではなく、出てきたのが覚えのある人物だったからだ。黒魔術の女性教師。入学後のオリエンテーションではかなりの人数の教師が挨拶をしたため、砂映は全員を覚えることなどできなかったが、彼女のことは覚えていた。ウェーブのかかった長い髪に女性らしい体型のかなりの美人・・・・・・だったからのみならず、その彼女の挨拶が、とんでもなかったからだった。
彼女はまず言ったのだ。
「『魔術協会』や『魔術学校』の成り立ちと理念については先程説明があったと思うけど、あれは半分建前です。実際は、多くの魔術者たちは自分の秘術を他の人には知られたくなかったし、『魔術協会』に率先して属した者たちの中にもおぞましいことをしていた者はたくさんいました」
数十分前に聞いたばかりの話を「建前」と言われて、砂映たちは目を白黒させた。他の教師や協会の重鎮らしき人たちの何人かが顔をしかめたり額を押さえたりしていた。壇上の彼女はそのまま続けた。
「私の専門は、特に『おぞましいもの』の筆頭にあげられがちです。黒魔術の『身体損壊』。はい、すごく物騒な感じしますね。実際物騒です。血しぶきを上げて身体がバラバラになったりするのを毎日見ていますからね。でもこれ、残酷スプラッタなのに『禁術』ではありません。れっきとした『魔術協会公認魔術』です。なぜでしょう?その辺、基礎講座できっちり説明しますので。みなさんよろしく」
そこでマイクを戻すと、こつこつとヒールを鳴らして彼女は壇を下りた。
名前は確か・・・・・・
「怜迦先生」
砂映は思わず呟いた。
「あら。君は確か新入生の」
砂映に気がつくと、先生は言った。
入学生は何百人もいるのに顔を認識されていたことに、砂映は驚いた。が、
「退学の相談しに来たの?」
真顔で訊ねられたので、あ、そうか、と砂映は気づく。
魔精感度が一定以上の人にしてみれば、異常に魔力の低い砂映の存在は、魔術学校の教室という場においておそらくとても目立つのだ。
「いえ、その」
「ん?」
「その・・・・・・同じ新入生の男子が、さっきここに入るのが見えて。あの、小柄で黒髪の」
「あら、雷夜に用事?」
雷夜というのか。砂映は初めてその名前を知った。
「いえ、用事というほどではないんですが。必須の基礎講座でも全然見かけないから・・・・・・」
砂映の言葉に、怜迦先生はぷっと噴き出した。
「君は何も感じないの?」
「何がでしょうか」
「さすがミスター低魔力くん。感度と魔力が比例するとは限らないけど、君は低感度低魔力よね。ミスター低低くん?」
てえてえではなく砂映です、などと言い返せる意気地は砂映にはない。
「魔力、正式名称は魔精力。精神と肉体の中間概念である、魔精。潜在魔精力がいくらあっても、使う訓練をしなかったら活用はできない。『袋のたとえ』の話はもう授業で聞いたかな?」
「え、はい一応」
「『魔力が高い、低い』と言ったり『魔力量が多い、少ない』と言ったりするのは、『魔精力を入れる袋の容量』と考えるとわかりやすい。これはほぼ才能。生まれつきのもので決まる。どれだけ大きな袋を持っている人でも、中身が減っていたら・・・・・・魔術を使いすぎたり、疲れていたりしたら、『魔力切れ』の状態になる。魔術を使わない一般の人は、袋は持っているけれども中身を使うことがない、という状態。まあ厳密には、『魔術』として発動しなくても、そのエネルギーは体力や精神力を補うものとして使われているのだけど」
「はあ」
「一方で、魔術を使う人間としては、袋の大きさは変えられないけれど、中身を効率よく充填して効率よく出すこと、これが大事になる。どれだけ大きな袋を持っていても、口が小さすぎて少しずつしか出せないとか、すぐに空っぽになってなかなか補充できないとかだと困る。こっちの『力』については、もちろん才能もあるけれど訓練や経験がものを言う。この『魔精力の出力量』や『充填の巧拙』については、『魔力が強い』『弱い』みたいな言い方をすることが多い。まあ、みんながみんなきちんと言葉を使い分けているわけでもないけど」
「・・・・・・はい」
教師というものは、生徒と見れば所構わず捕まえて突然講釈を開始するのが癖みたいなものなのだろうか。それとも「低低くん」が劣等生なのは明白なので、せめて座学だけでもいい成績がとれるようにと時間を割いてくれているのだろうか。
砂映がとまどっていると、
「魔精感度、これもまあ、訓練と経験で磨くものとはいえ、素質の差が大きいのだけど。魔精感度が高ければ、相手の魔精力の高さ、強さ、あと特性なんかも読み取れる。一般人でも、何となく、でいろいろ感じ取れる人は結構いるわ。君が低感度だというのはわかるけど、それにしたって・・・・・・。ねえ、もう一度聞くけど、君は雷夜について、本当に何も感じないの?」
話が『雷夜』に戻ってきた。
習いたての知識を必死で頭に巡らせながら話を聞いていた砂映は、慌てて意識を戻す。
「あの子」について、何を感じるか?
「ええと・・・・・・小さいからなんか心配というか、放っておけないような感じはして・・・・・・」
「君はゴキブリを心配する?」
「へ?」
「ゴキブリ。レストランで食事をしていたら、向こうの床にゴキブリがいた。君はゴキブリが誰かに踏まれないか心配する?」
「いや、さすがにそれは」
「魔力の大きさも強さも特性も、あいつは異常なの。あのレベルで基礎講座になんて行くわけがない。雷夜を心配するっていうのは、ゴキブリを心配するようなものよ。アンビリーバブル」
怜迦先生はそう言い放ったかと思うと、時計を見て「やだ戻らないと」と今出てきた扉を開けてまた教室の中に入ってしまった。砂映は茫然と廊下に残された。
(あのレベル・・・・・・って、雷夜のことを褒めてたのか?)
能力を高く評価していることは間違いない。
しかし。
(生徒をゴキブリに例えるって)
教師として、いやそうでないとしても、それはさすがに酷すぎないだろうか。
静かに座っていた綺麗な顔の少年とゴキブリは、どうにも砂映の中では結びつかない。
確かに黒っぽい服は着ていたし、小柄で、硬質な印象ではあった。何か否応なくドキリとさせられる、独特の空気のようなものもあったかもしれない。
あの「独特の空気」が、魔精感度の高い人間には、もっと強烈な、「ゴキブリを見た時のような」衝撃的な何かを感じさせるのだろうか?
(そういえば先生、教室を出てくる時に、しぶとい、ゴキブリみたい、とか言ってたような)
あの子のことなのだろうか。
一体中で何が行われているのか。
その後しばらく、砂映は「黒魔術実験室Ⅵ」の中を窺っていた。
けれども何か術で遮断されているのか、物音ひとつしなかった。
ふと時計を見ると、休講になった授業時間がもうすぐ終わろうとしていたので、砂映はやむなくその場を離れた。
その時実際に中で何が行われていたのかを、砂映が知ることはなかった。