利己的な姉と何も知らない妹
今夜あの懐かしい邸で開かれる会は、名門ボレアス伯爵家を継ぐ令嬢とその伴侶のお披露目である。
3年前に姉を亡くして悲嘆にくれる令嬢にずっと寄り添い支えてきた令息。その二人がようやく結ばれる。
誰もが心から祝福する慶事に邸中が浮足立っているはずだ。
次々に訪れる祝いの品の配達員に紛れて、用意した花を何も知らないあの子へおくる。
不潔ではないが質素な服装と一つにまとめただけの艶のない髪。やせた体と花を入れた篭を持つ荒れた手。
わたしのすべてがあの頃と変わりすぎていて、受け取ってくれた使用人は何一つ気がつかなかった。
わたしが今日の主役である伯爵令嬢ネージュの姉セリーズであることに。
差出人はもう一人の主役である花婿アンリの係累の名を借りた。いくら慌ただしい日であっても、名無しの贈答品を受け付けるようなぬるい我が家ではない。
護衛だったあの男もそう認めるだろう。
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わたしたち姉妹の生家は建国から続く古い家だ。魔術に長けた家柄で、保持する魔力量も高い者が多い。しかしわたしには平均以下の微弱な魔力しかなかった。
ただ魔力があろうとも使いこなすことができなければ意味がない。
わたしは優れた魔術師である父のもと、自分の少ない魔力でいかに効率よく魔術を使うかを学ぶ日々だった。
『効率よく』ということは少ない魔力消費でも大きな効果が得られるようにするということ。
例えば1滴の水がコップ1杯分に増えるように。
例えばロウソクの火が薪の火ほどに大きくなるように。
例えば吐息のような弱い空気の揺らぎが本のページをめくるほどの風になるように。
ではそれを魔力を大量消費させて発動させたらどうなるか。
池の水が海ほどの水量となり、暖炉の火が山々を舐めつくすような火となり、暴風は人や物を切り裂くような刃となる。
5つの幼い妹はよくわたしのそばにいた。
遊んでほしい気持ちとわたしの邪魔してはいけないとためらう気持ちで幼いながらも葛藤したのか、ただ黙ってわたしに抱きついてくる。
ネージュを出産したすぐ後に、母を病で失っていたこともあり、わたしはなるべくネージュをそばに連れていた。
そばに置いたまま魔術の勉強をしたわたしがすべて悪いのだ。
父からもらった術式を妹の隣で練習していたわたしが原因だ。
妹がわたしのまねをしたがることもわかっていたはずなのに。
その妹は自分と違って桁外れの魔力を持っていることも聞かされていたのに。
わたしが口にした術をたどたどしく声に出して繰り返したネージュから生み出された、激しい竜巻のような強い風がわたしたち姉妹それぞれを傷つけてしまった。
「セリーズさまっ!!」
普段から寡黙な人が発した叫び声と、胸に走った激痛。
わたしを抱きしめる腕の向こうに見えた凍り付いたネージュの顔。
今でもよく覚えている。
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人に害をなす魔物が存在するこの国で、貴族の義務は民を守ること。
そのために貴族は武力なり魔術なりを持たなければならない。
そのすべを得るための一つの道が6年制の国立魔術学院への入学だった。
事故から2年後、12歳で入学した学院でアンリと知り合った。
ガステオン伯爵家の三男であるアンリは魔術の研究者を目指していると公言する少し変わった人だった。
そのため入学前から父に魔術を教わっていたわたしに興味を覚えたそうで、向こうから声をかけてきた。
幸い家格は同じ伯爵であり、同年代の男子にありがちな見栄っ張りなところがなく、話しやすい。
学業についてお互いに話すようになり、打ち解けるにはそれほど時間はかからなかった。
アンリはわたしと違い平均以上の魔力量を持っていたが、彼自身はそれでは不満だった。
「もっと魔力があったら試してみたいのに悔しいよ」
学院で学ぶようになって3年も経ち、自分なりの魔術研究ができるような知識が増えるごとにアンリは口癖のようにそう言った。
それに関してわたしではまったく役に立たないので、「そうね」と相槌を打つしかなかった。
その頃にはもうアンリが重度の魔術好きであることは周知の事実で、口さがない人たちが我が家に婿入りを狙っているのではないかと噂さえしていた。
当のわたしたち二人の間の空気にそんな甘やかなものは欠片もないというのに。
学院へは王都の邸から馬車で通っていた。護衛のナハトが送迎してくれる。
ナハトはわたしが幼いときからそばにいた。
馬車への乗り降りの際に差し出される手。
常に黒い手袋に包まれたその右手に自分の手を重ねてそっと握りしめる。
一日の間のほんのわずかな時間。それだけだった。
++++++
噂に踊らされるようで親しくなってもアンリを邸に招いたことはなかったが、思わぬ伏兵がいた。
アンリが個人的に記していた魔術研究に関する文を見た父が先達として知識を与えたくなったらしい。
「きっと読みたくなるような書もあるだろう。ガステオン家には私から連絡しておく」
家長である父の言葉に逆らうつもりもなく、正式なお茶会の招待状をアンリに送り、わたしたちは初めて学院以外で顔を合わせた。
「ご招待ありがとうございます」
貴族令息らしいそつのない姿と挨拶。笑顔を絶やさないその姿勢は家人たちにも好印象を与えていた。
書庫に入ったとたん目の色が変わったが、それ以上の変化は一切出さなかったことにアンリもまたわたしと同じようにできるのだなと感心した。
貴族らしく自分の感情を見苦しくさらけ出すことがないように、本心を覆い隠せるように。
片方だけ開けられたままの書庫の扉を見やる。
扉の脇にはナハトが立っていた。護衛としての職務を果たすべくそこで立っている。
その姿を見る。それだけだった。
++++++
何度目かの訪問後、ネージュがアンリに会ってみたいと言い出した。
12歳になっていたネージュはわたしと違って魔術学院へは入学しなかった。
幼かった妹は事故のことを覚えていない。ただ自分の魔力が原因で恐ろしいことが起きたということは心の奥底に染みついているようで、魔術を一切使うことができない。
そのため学院には入学せず、家庭教師から教育を受けていた。
『学友』というものに憧れていたのか、学院での噂と同じようなことを侍女から聞かされたのか人見知りな妹にしては思い切ったお願いだった。
「アンリ・ガステオンです。お目にかかれて光栄です」
「ネ、ネージュ・ボレアスでございます」
穏やかな笑顔のアンリに対して、ネージュもつかえつつも挨拶を返す。
あまり外に出ていないネージュには友人はいないので、少々心配だったが、初対面にしてはその後も会話は続いた。
もちろん姉のわたしも同席していたし、自分から会いたいと言ったことも後押ししたのだろう。アンリの実家の領地の話など楽しそうに聞いていた。
「マナー違反ではあるけれど、今回は特別よ」
そう言って書庫にいるアンリの姿をこっそりとネージュに見せたことがある。
遠目からでもアンリが書に没頭しているのがわかるだろう。
好きなものに夢中になっているその姿はわたしたちのよく知る人にそっくりだった。
「お父様とおんなじお顔ですね」
「そう。だから怖くはないわ。ネージュも安心して」
「はい、お姉さま」
父には言えないささやかな秘密を姉妹二人で共有して、こっそり忍び笑いを漏らす。
そんな穏やかで優しい時間がかけがえのないものだった。
恒例となってしまった三人でのお茶の席で、アンリが何を研究しているのかネージュが聞いてきた。
ネージュは魔術に強い忌避感を抱いていたので少し驚いた。
「僕が実現したいのは簡単に言ってしまうと守るための魔術です」
「守るため、ですか?」
「ええ。傷つけたり破壊するのではなく、魔物が入ってこれないような障壁を作るような。それもその場にいなくても維持できるような。まだまだ未完成ですが、少なくとも膨大な魔力が必要だろうとはわかっているのです」
アンリの言葉に考え込むネージュの手をそっと握った。
天賦の才を自ら封じてしまっている妹の心の傷が、少しでも癒されることを願って祈るように続けた。
「アンリ様のおっしゃる通り、傷つけることより守ることの方が難しいの。でもそれができたらとても素晴らしいことよね」
++++++
「アンリ殿はまことに研究熱心だな」
我が家に訪れるたびにアンリが持参する研究報告書は父の書斎に積みあがっている。
表立って他家の当主の手を煩わせるわけにはいかないので、あくまでアンリが個人的に持ち込んだもので父はそれを放置しても何の問題もない。
それでも同じ道を究めたいという思いに共感するのか、それらには推敲のあとが見受けられた。
「本人は『もっと魔力が欲しかった』が口癖ですが。自分では実践できない魔術を構築しても仕方ないけれどそれでも考えてしまうのですね」
「使用人たちから聞いているが、ネージュともうまくやれているようだな」
「ええ、ネージュもアンリ様とは相性が良さそうでしたわ。」
溺愛するような態度ではないが、父もネージュをちゃんと愛している。
あの子が魔術を使えないことを一度として咎めたことはない。
名門伯爵家当主として、魔術師としてそれをどれほど惜しいと思っていても、父親としてその思いはけっしてネージュに見せたことはなかった。
父の書斎から自室への帰り道、少し後ろについて来るナハトの手にはアンリの研究論文がある。父からアンリへ渡すように言われた書もありかなりの量だった。
部屋についてそれらを机に置くように指示した。
「かなりの重さですので、私が明日馬車までお持ちいたします」
「いいのよ。わたしも目を通してみたいし、それくらい持てるわ」
机に積み重なった書の高さを確かめるように触っていたら、同じように書物だらけだった父の書斎を思い出して笑いがこぼれた。
「本当にお父様とアンリ様は似た者同士ね」
「……ガステオン様が婿入りなされれば、セリーズ様のお手を煩わせることも少なくなりましょう」
そんな言葉が隣に立っていたナハトの口から出てきた。
取るに足らない言葉。侍女も同じようなことを言ってきたことがあるのに、信じられないくらい衝撃を受けた。
びくりと震えた体はすぐそばの彼にも伝わったはずだ。
幼い頃は首をめいっぱい上に傾けないとナハトの顔を見ることはできなかった。
それが今では少し振り上げるだけで、きちんとその視線を捕まえられる。
「ナハト」
わたしはもう子供ではない。子供ではいられない。
「わたし、わたしは」
「セリーズ様」
わたしの言葉を遮るようにナハトが名を呼ぶ。名を呼ばれるのはいつだって嬉しかった。その声が含む優しさや温かさをいつだって感じられたから。
けれどいまは違った。
声も、わたしを見るその瞳も、これまでとは違う。まるで痛みをこらえているようなつらさや、泣き出す寸前のような悲しさがそこにある。
「セリーズ様、どうか。どうか」
それ以上は言葉として出てこなかった。出てこなかったけれど伝わってしまったから、わたしは小さく開きかけていた口を固く閉じた。伝えたかった想いを飲みこむために。
++++++
「わたし、あなたとなら結婚してもいいと思っていたわ」
「そう」
「ええ、良き夫婦でいられるだろうと思っていた」
「『いた』ということは、そのあと続く言葉は『けれど』なんだろう?」
「どうしてわかるのかしら」
「僕もそう思うからだね。僕も君となら結婚してもいい関係を続けられると思っていたけれど」
「けれど、今はそうじゃないわね。お互いに」
「ああ、君の彼への想いとは比べ物にならないかもしれないけれど、僕はネージュを大切に想う。だから協力するよ、この上なく良き友人に」
「ありがとう、アンリ。どうかあの子をお願いします」
まっすぐに見つめた先にいたアンリはわたしの言葉に穏やかに首肯してくれた。
そうしてわたしは賭けをした。
賭けるものはこれまで生きてきたすべて。貴族としての生活も誇りも、愛する家族もすべてを失う覚悟で賭けをした。
++++++
「アンリ様のおかげでネージュが魔術を恐れる心はなくなりつつあります。ですがわたしがそばにいてはその心の障害になってしまう。この家はあの子の血を繋いだ方がよいのです。それにあの子はアンリ様が好きですわ、わたしのそれとは違った意味で」
「ほう、それは聞き捨てならないな」
「好きになったきっかけはお父様に似ていると思ったからだと言っても?」
「ふっ、そうくるか」
「アンリ様もネージュを愛しんでいます。もちろん彼は父親ではありませんから、お父様とは違った意味で」
わがままという言葉では片づけられないようなことを願っているのは百も承知のうえで、わたしは父に対して言葉を重ねた。
親からしたら愚かな娘だと嘆きたいかもしれないし、認めないと反対されるかもしれないけれど、わたしの想いを伝えるのはこれまで育ててくれた父に対する誠意だ。
「そういうお前は亡き母にそっくりだ」
頬杖をついてわたしの顔を見ていた父の目がどこか遠くを見ていた。
「お母様にですか?」
「自分の命に危険があるとわかっていても、ネージュを産むという意志を貫いた」
目を閉じて深く息を吐いた父の肩がいつもより少し落ちている。
「私はその顔には勝てない」
ゆっくりと目を開けて、微かに微笑むとそう言ってくれた。
++++++
「領地へ戻られるのですか?」
学院最後の夏季休暇にわたしは王都を離れることにした。
「あちらに残してある書物で調べたいことがあるのよ」
いつになく心配そうなネージュを物問いたげに見ると、おずおずと口を開いた。
「この季節は時折荒れた天候になると聞きます。道中大丈夫でしょうか……。ナハトが辞めてしまっていなければ、こんなに不安な気持ちにならないのですけれど…」
「そうね、急に辞めてしまうなんて残念だったけれど、きっと彼にも事情があったのよ」
ネージュの言葉にさほど気にしていない風を装って答える。
どうしようもないほどの激情が心中渦巻いているのを悟られないように慎重に。
「わたしがいない間でもアンリ様がいらっしゃるかもしれないからお相手してあげてね。でないと書庫から出て来ないかもしれないから」
「はい、お姉さまもお気をつけてくださいませ」
++++++
~~ ナハト ~~
母親を失ったばかりの二人の令嬢の護衛役として、ボレアス家に雇われたのは12の年。
武術の師からの紹介で、護衛役としての鍛錬も続けてもらえるという、身寄りのない自分には過ぎるほどの雇い主だった。
生後間もないネージュ様と、5歳のセリーズ様。お二人を命にかえてもお守りしようと心に誓った。
月日はめまぐるしく過ぎていき、仕えて5年目、悲しい事故が起きた。
そばにいながらセリーズ様に傷を負わせてしまった。
自分が自分で許せなかった。
護衛を辞すことも考えたが、セリーズ様のそばを離れられなかった。
セリーズ様自身の望みで事故後すぐに旦那様とネージュ様は王都の邸へ移られている。
気丈に一人で療養するセリーズ様から距離を置くことなどどうしてもできなかった。
怪我が癒えるまでは。
旦那様やネージュ様とまた一緒に暮らせるようになるまでは。
学院に入学するまでは。
自分に言い訳を重ねて、結局ずるずるとおそばで仕え続けてしまった。
見下ろすほど幼く小さかったセリーズ様は、少しずつ、だが確実に一人の女性になっていった。
まっすぐに自分を見るその目に宿る気持ちが、親愛だけではないことがわかっていってしまうほどに。
そしてその眼差しに嫌悪でも困惑でもなく歓喜を覚えてしまった自分に恐怖した。
セリーズ様にふさわしい令息がボレアス家にやってきて、旦那様やネージュ様とも良い関係を築きつつあるのを見て、もうおそばにいる必要はないと思えた。
それなのに到底信じられない、信じたくないことを耳にした。
『ボレアス家の領地へ向かっていた馬車が強風のあおりを受けて崖から転落。乗車していた令嬢セリーズが行方不明』という凶報。
それまでの護衛経験を生かして、国内を回る隊商の護衛をしていた自分がその事実を知ったのは、事故後一ヶ月も経ってからだった。
一月も行方不明ということは、生存は絶望的だ。それでも何か手がかりはないかと事故現場へ向かった。
「ナハト」
幻聴だと思った。信じたくない気持ちが耳になじんだあの声を呼び起こしているのだと。
けれど振り返ったその先にいたのは、粗末な服を着ているが見間違いようのないセリーズ様だった。
++++++
「生きて、おられたのですね」
ようやく会えた。
どこにいるかわからないナハトをやみくもに探すより、自分から出てくるように仕組んだ転落事故。
もちろん実際に事故は起きていない。ただその情報だけ父から世間に広めてもらった。
その代償としてわたしは『ボレアス家の令嬢』ではなくなった。
わたしが願った『死亡』ではなく、『行方不明』としたのは戻ってこられる道を細くても残しておこうという愛情だろう。
その気持ちをありがたく思いつつも、引き返すつもりはなかった。すべて失ってよいと思っていたのだから。
ただのセリーズとして事故現場近くの小さな町に移住してその時を待つ。
わたしが死んだと聞けばいつかきっとナハトはここへ来る。
一ヶ月で会えたのはわたしの祈りが神か悪魔に通じたのかもしれない。
ナハトの顔を見たら、会えた喜びを感じると思ってた。
「わたしね、賭けをしたの。愛している人に愛していると言うために、すべて捨てたの」
けれど怒りにも似た、より激しいものがこみ上げてきて、その思いが形を成す前に口から飛び出してしまう。
「だって、ナハトは逃げたっ! わたしのこの気持ちから逃げ出したのよ!」
告げることは許してもらえなかった。だからせめてそばにいてくれればよかった。
愛してほしいなんて言わない。
わたしの見える世界にナハトの姿があれば、それだけでよかったのに。
「セリーズ様……」
わたしを見るナハトが泣きそうな顔をしている。こんな風に声を荒げるなんて自分でも驚いてしまうが、口に出した言葉はもう止めようがなかった。
「勝手に護衛を辞めて、姿を消して、遠くからわたしの幸せを願うなんて、そんなこと許さないっ」
だらりと垂れたままのナハトの右手をつかんで、強引に手袋を外す。
一条の傷痕が残るその手を自分の胸に押し当てる。
普段から隠していたわたしの首元から胸にかけてはっきりと残る傷痕。
一か所だけ線が途切れたようなその欠けた傷痕に、ぴたりと合わさるその手の傷痕。
5歳のネージュが生み出してしまった強烈な風刃からわたしを守ろうとしたときについた傷。
++++++
凍り付いたネージュの顔が目に焼き付いたまま意識を失って、次に目覚めたときそばにいたのはナハトだった。
「ネージュは…?」
最後に見た悲痛な顔を早く安心させたい。可愛らしい笑顔に変えたい。
そう思って問いかけるとナハトが小さく答えてくれた。
「セリーズ様、ネージュ様は事故のことは覚えておられません。旦那様もお伝えすることはないでしょう」
「そうなの…。その方がいいわ。あの子のせいじゃないもの」
医師の診察や侍女たちの世話を受け、引き続き休むようにと言われた。
駆けつけてくれた父に、自分の傷が治るまでネージュとともに王都へ行っていてほしいと頼む。
せっかく恐ろしいことを忘れていられるのだから、わたしを見て思い出すようなことにしたくない。
ずいぶん渋っていたが、ネージュに気を使って養生するよりはその方がわたしたちのためだと納得して出立してくれた。
父たちが邸を出たあと、横になったままぼんやりとしていたわたしのそばに静かにナハトが立っていた。
「セリーズ様はご立派です。ネージュ様を責めることなく、むしろご自分の責だとおっしゃる」
そう、たった5つのかわいい妹に何の咎があろうか。
「ですが、セリーズ様が苦しんでおられるのは事実です。『いたい』と『つらい』と泣いていいのです。せめて私の前だけではお心のままにおっしゃってください」
必要なことしか話さないナハトが珍しく言葉を紡ぐ。とても小さな、けれどとても優しい声音は張りつめていたわたしの心をほどいていった。
姉としてではなく、ただの傷ついた子供でいていいのだとその眼差しが伝えてくれた。
「いたい、いたいの 胸がズキズキして 息をするだけでつらくてくるしいの」
まだ起き上がることもできないわたしは横になったまま、涙を流し続けた。
泣いて、息が苦しくなって、しゃくりあげるとまた傷が痛む。けれどどうしても止まらなかった。
そんなわたしの頭をずっと優しく撫でていてくれたのは、包帯が厚く巻かれたナハトの右手。
わたしが恋に落ちたきっかけはそんなささいなことだった。
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「だからといってこのような無謀なことをなさらなくとも!」
「勝算はあったのよ?だってあなたが逃げ出したから。わたしのそばから逃げたということは、わたしが他の男のものになる姿を見ていられなかったからでしょう?」
わたしの言葉を受けたナハトの表情がよりいっそう険しいものになった。
それは怒りではなく真実を言い当てられたからだと思いたい。
「さあ、わたしの賭けの結果を出すのはあなたよ」
そう宣言して胸に押し当てていたナハトの右手を自由にした。
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いくら懐かしくても長居は危険だ。招待客たちが訪れ始める前に邸を離れようと背を向けて足早に立ち去る。
少し行った先で複雑そうな顔をして立っているナハトを見つけた。
その顔を占める大多数は申し訳なさだが、ほんのわずかな安堵と喜びが確かにあった。
「馬鹿ね、戻ってこないと思ってたの?」
「いや……、ただやはりご家族に会いたいのではと……」
「わたしは何も覚えていないからとすべてを妹に押し付けた利己的な姉よ? 帰るところなんてここしかないじゃない」
そう言いながら荒れて乾いた短い爪の、令嬢だったときとはかけ離れた美しくない手を男へ差し出す。
護衛だったときとはかけ離れた力強さでその手を握りしめられたわたしは、令嬢だったときよりも美しいであろうと思える笑顔を愛する男へ向けた。
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返礼のためにと贈られてきた品々を確認していたネージュはそれほど大きくはない花篭に目を止めた。
差出人は遠方の縁戚に当たる人物で、不審なところがないことは使用人が確認済みである。
ただこじんまりとしたその篭には不釣り合いなほど立派な正絹のリボンが結ばれていて、それがネージュの意識を留めさせた。
「アンリ様…」
「どうしたんだい、ネージュ?」
同じように確認作業をしていた夫に思わず声をかける。
「お姉さまは……。いえ、何でもありませんわ」
ほどいて手に取ったその赤いリボンを見ていると何故か心が温かくなる。
幼い頃、無邪気に抱きついていた姉の服のようなリボンを胸に抱いてネージュは誰にも聞こえないよう心の中でつぶやいた。
『お姉さまもどうぞお幸せでありますように…』
最後までお読みいただきありがとうございました。
誤字報告感謝いたします。