10日目 -2- 選択、そして
今夜、惚れ薬を使おう、と私は決めた。……決めたまでは、良かったけれど。
(……困ったな)
時間が経つにつれ、私は焦り出していた。
使うはずの薬は、いまだ私の元にある。隙を見て飲み物に入れるつもりでいたのに、ルーフィスには、その隙がまるでないのだ。
なにせ二人きりなので、ルーフィスの視線は、ずっと私から離れない。そして今夜に限って、話し掛けてくる人も誰もいない。マリエンも来ていないし、いつもなら会話に乱入してくるフィリオやローサさんも、今夜はそんな気配がないのだ。
(……困ったな)
もう一度、私は同じことを考えた。
ルーフィスの意識が逸れない限り、とても薬なんかは入れられない。かといって『ちょっとあっちを向いててくれる?』なんて怪しさ満点のことを言い出すわけにもいかない。
どうしたものかと悩んでいた時、不意に、ルーフィスの質問が飛んできた。
「リンカちゃん、どうかした?」
(!)
隠していたつもりなのに、私の焦りは、どうやら態度に出ていたらしい。ルーフィスが、変な顔で私を見ている。
「えっ!? あのっ!」
すっかり慌ててしまった私は、思わず、ガタンと椅子を鳴らして立ち上がった。
「ごっ、ごめん! 私、ジェイに急用があるのを忘れてた!」
「えっ?」
「ちょっと、行ってくるね!」
彼に何か言う隙を与えず、私は素早くその場から逃げ出した。
……ジェイに急用って、いったい何だ。
厨房に向かって歩きながら、私は思わず、自分に突っ込みを入れていた。
我ながら、苦し紛れにもほどがある。不審に思われるのが嫌で席を離れたというのに、これでは逆効果だったかもしれない。ルーフィスの聡さを思えば、何かあるのかと勘づかれてしまいそうだ。
(こ、このままじゃ駄目だ。何とか、平常心を……って、わ!?)
そのとき、厨房から出てきたジェイに、私はドン!とぶつかった。びくともしないジェイの前で、私だけが後ろにはじき跳ばされる。
「おい!?」
ジェイは驚いたように、手を伸ばして私の肩を捕まえた。そこまでは良かったのだけれど、今度は引き寄せられたはずみで、何だか足がもつれてしまった。
気づけば私は、しな垂れ掛かるような体勢で、ジェイに受け止められていた。慌てて彼の胸に手をつき、体を起こす。
「ご、ごめん、ジェイ」
「何うろうろしてるんだよ、おまえは。まだ何か注文する気か?」
「え!? ええと、そういうわけじゃ……」
「あんまり食い過ぎると、いくらルーフィスでも呆れられるぞ」
「!」
急に掛けられた含みのある言葉に、私はカッと赤くなった。油断していたせいか、顔から湯気でも出そうなほどに熱い。
「べ、別に、そんなんじゃないから!」
否定の言葉を口にしつつも、顔の熱はまるで引かない。きっとジェイは、私の気持ちに気がついているんだろう。
これ以上からかわれる前に、私は彼の前から逃げ出した。
ジェイは、なんて余計なことを言ってくれたのか。
どう考えても罪のないジェイに八つ当たりしながら、私は仕方なくルーフィスの元へと引き返した。
落ち着くために席を離れたというのに、落ち着くどころか、さっきまでより動揺が増している。頬を染めてふらふらしている私は、完全に酔っ払いに見えるだろう。
(こ、これじゃ、何のために席を離れたのか……あれ?)
席に戻った私は、ふと、ルーフィスの気配が先刻までとは違っているのに気がついた。
(ルーフィス?)
何というか、見るからに元気がない。まるで、灯っていた火が消えたように、彼は分かりやすく沈んでいる。
急にどうしたのかと心配になって、私は訊いた。
「あの、どうしたの? ルーフィス。具合悪い?」
「いや」
ルーフィスは、硬い表情のまま息をついた。
「具合が悪いわけじゃないよ。ただ、少し……疲れたかな」
「……そう、なんだ」
彼の言葉を聞いたとたん、私の身体から、ふっと力が抜けていった。
これは、つまり、時間切れということだ。私は静かに、そう悟った。
私が自分に許した機会は、今夜一度きり。
疲れているという彼を、これ以上、無理に引き止めるわけにはいかなかった。全部、もたもたしていた自分が悪い。……私は、賭けに負けたのだ。
あんなに悩んで決めたのは、いったい何だったんだろう。そう思わなくはないけれど、こうなっては仕方がなかった。このまま大人しく帰るしかない。
そう諦めて、ルーフィスに声を掛けようとした瞬間。
(──待って)
不意に、私の心臓が、ドキンと鳴った。
(これは、ルーフィスに薬を飲んでもらう機会じゃないの……?)
気づかなければ、そのまま帰っていただろう。けれど、私は気づいてしまった。
手のひらに、じわじわ汗が滲み出す。
わかっている。これは、どうしようもなく愚かしい選択だ。
わかっているのに、罪へと舵を切る私を止めてくれる人は、誰もいない。
「ルーフィス。これ……」
手が震えないよう気をつけながら、私は、惚れ薬の入った小瓶を差し出した。
「え?」
「疲れてるなら、これ、どうかな。栄養剤なんだ」
「──」
ルーフィスは、驚いたようにその薬をじっと見た。私の心臓が、すごい速さで鳴っている。
「栄養剤?」
わずかに掠れた声で聞き返した後、ルーフィスは、薬の瓶に手を伸ばした。そして私から受け取ると、うつむいて口を噤む。
彼が下を向いてしまったので、私からは、その表情がよく見えなかった。
変な汗が、背中を伝う。緊張しながら、彼の出す答えを待つ。
そして。
「──君が言うなら、毒でも飲むよ」
(!?)
やがて告げられた一言に、私は尋常じゃないほどに動揺した。
「えっ!? ど、毒って、そんな」
声が震えそうになる。それでも精一杯、平気な振りで彼を見る。
「何て顔してるの、リンカちゃん。冗談だよ」
そう言うと、ルーフィスは躊躇いもなく、薬を口に放り込んだ。
(!)
自分で勧めたくせに、その光景に、血の気が引く思いがした。
ずっと抑えつけていた良心が、胸の奥で悲鳴を上げる。けれど、もう遅い。『吐き出して!』と叫ぶ寸前、彼がゴクリと、惚れ薬を飲み下す。
(──)
とうとう私は、ルーフィスに薬を飲ませた。飲ませてしまった。
私が呆然としていると、その時、ぽつりとルーフィスが言った。
「……飲もうかな」
「え?」
「お酒。いいよね? 一日早いけど。……もう少しだけ、付き合って」
次話◆暴かれた罪




