8日目 -4- 夜の訪問者
外に人の気配を感じて、ドキンとしたのは、その時だった。
辺りがシンとしているので、部屋の中にいても足音が聞こえる。家の前の石畳を通って、誰かが玄関先まで歩いて来る。
──いや、誰かといったって、誰なのか、本当は予想がついていた。家を訪ねて来る人なんて限られているし、しかも、夜のこの時間だ。
少しだけ迷った後、私はそっと部屋を出、重い足取りで階段を下りた。
静けさを破るように、呼び鈴の音が鳴る。
「遅くにごめん。……リンカちゃん、いる?」
「──」
予想通り、扉の向こうから聞こえてきたのは、ルーフィスの声だった。
なのに、喉から声が出てこない。何だか急に、扉を開けるのが怖くなってしまったのだ。
だってルーフィスは、ディアナの話をしに来たのかもしれない。いや、もしかしたら、話どころか彼女を連れて来たかもしれない。
とはいえ、家に明りが灯っているこの状況で、とても無反応は貫けなかった。このまま黙っていれば、何かあったのかと彼を心配させてしまうだろう。
居留守を使うのは無理だと諦め、私はおそるおそる、玄関の扉を開けた。
「……ルーフィス?」
私が扉から顔を覗かせると、ルーフィスは、ホッとしたようにその表情を和らげた。
「ああ、良かった。元気そうだね」
そう声を掛けてくれた彼の周囲には、幸いにも、私が心配したような人影はなかった。ルーフィス一人だと確認できて、ようやく少しだけ気が緩む。
ルーフィスから彼女を紹介される、という絶望的な事態だけは、どうやら回避できたらしい。……取り敢えず、この夜に限っては。
「ルーフィス、あの……どうしたの? 私に何か、用だった?」
「ああ、うん」
彼は頷くと、私に向かって小さめのバスケットを差し出した。
「ジェイに頼まれて来たんだ。これ」
「えっ?」
予想外のことに驚きながら、受け取って中を覗く。
と、私は目を見開いた。そこに入っていたのは、香草のサラダ、貝の酒蒸し、乾し葡萄入りのパン──私の好物ばかりだったのだ。
「リンカちゃん、昼間は具合悪そうだったし、夜は来なかったから。『あいつちゃんと食ってないんじゃねえか』って心配してたよ、ジェイ」
(!)
心に、ぐっとくるものがあって、私は言葉につまり、バスケットを持つ手に力を込めた。
確かに今日の私は、朝から碌な物を食べていない。こんなふうに落ち込んでいるときに優しくされると、その優しさが全身に沁み入るみたいだ。
「……リンカちゃん?」
窺うように声を掛けられ、私は、自分が涙ぐんでいたことに気がついた。目頭の熱さを、素早く瞬きして何とかごまかす。
「あ、うん。ええと……こうして心配して貰えるのって、嬉しいね。ちょうど、お腹すいてたんだ」
「僕も──……」
ルーフィスが、何かを言い掛ける。
けれど彼は、すぐに口を噤んでしまい、後に続いたのは沈黙だった。
(……?)
そのままいくら待っても、彼の口から続きの言葉は出てこない。
不思議に思った私は、落としていた視線を上げた。
ルーフィスは、どこか困ったような顔で、私のことを見つめている。
その顔を見て、私は悟った。彼はきっと、何か、言いづらいことをうっかり言い掛けてしまったのだと。
僕も──の後に、彼が言おうとした言葉は何だろう。気になった私は、勝手に考えを巡らせた。
(僕も……僕も……僕もお腹がすいている?)
正解らしきものに気がついて、私は一人でハッとした。
もしかすると彼は、こんなお使いを頼まれたせいで、早々に食事を切り上げるハメになったのかもしれない。
だとすれば確かに、彼が口を噤んだのも納得できた。今、空腹だと私に告げれば、それはただの呟きというより、文句や催促に聞こえかねないだろう。
「あ、あの、ルーフィス。良かったら、これ、一緒に食べて行かない?」
「え……」
(あれ?)
良かれと思って言ったつもりだったのに、私の誘いを聞いたとたん、ルーフィスは驚いたように押し黙ってしまった。
どうやら彼にとって、これは、とても喜べるような申し出じゃなかったらしい。私は彼の望みを、すっかり読み間違えてしまったのだ。
いや、でも確かに、冷静に考えてみれば、これはジェイが私の為に作ってくれた料理だった。私が作ったものならともかく、これを一緒に食べようなんて、ちょっと無神経な誘いだったかもしれない。
私が内心あたふたしていると、その時、ルーフィスが思い掛けないことを口にした。
「リンカちゃん。もう、夜も遅い時間だよ」
「え……」
今度は、私が驚く番だった。
予想外の言葉に、間抜けな顔で瞬きをする。それから、やっと、遅ればせながら気がついた。
そうだった。うっかり忘れていたけれど、そういえばルーフィスは、昨日、休日返上で働いていたのだった。
頼まれた物はこうしてちゃんと届けたのだから、彼はもう、さっさと帰りたいんだろう。そんなことにも気づかず引き止めようとするなんて、私は、彼にとって有難迷惑なことを申し出てしまったのだ。
「ご、ごめん、そうだよね。ルーフィスだって疲れてるし、一人でゆっくりしたいよね」
「いや、そうじゃなくて……」
「え?」
訊き返した私に、ルーフィスは少し躊躇いつつも、口を開いた。
「こんな夜に、よく考えずに誘うのは止めた方がいい。……だって、いま君の家には、他に誰もいないよね」
「えっ」
真顔で窘められて、私はその内容に驚いた。
ルーフィスは、何を言っているんだろう。ポカンと、彼の顔を見る。
だって他の人ならともかく、目の前にいるのはルーフィスだ。私にどれだけ隙があっても、間違いなんておこりっこないと、昨夜、証明してみせた張本人だ。
「あの……」
困惑と、少しの不満で口ごもる。
そんな私を見たルーフィスは、自分の感情を抑えるように目を伏せた。
「君は、相手が僕ならいいと思っているのかな。もし、そうなら──これからはもう、そんなふうに思うのは止めて欲しい」
(!)
あまりにきっぱりとした物言いに、一瞬、私の息が止まる。
ルーフィスが伏せていた目を上げ、少し苦さを滲ませたその眼差しが、私の胸に突き刺さる。
「──もう、帰るよ。おやすみ」
私が言葉を失っている間に、ルーフィスの姿は、玄関先から消えていた。
* * * * *
(まさかルーフィスから、あんなにはっきり拒絶されるなんて……)
自分の部屋へと戻った私は、ついさっき受けたばかりの衝撃が、治まらないままだった。
だって、こんな夜に二人きりになりたくないと、彼は言外に告げて来たのだ。
けれど確かに、ルーフィスの立場から考えてみれば、それは当然かもしれなかった。
出来たばかりの彼女に誤解されそうな行動なんて、普通は避けたいに決まっている。例え相手が、こんな私だとしても。
こうなってみると、昨夜の私は、何も知らず本当にバカなことを考えていた。
彼が私に何もしない? そんなのは、当たり前だ。
好きな子ができたなら、ルーフィスは、一途にその子だけを想うだろう。今までだって女の子を寄せ付けないようにしていたのに、大事な存在ができたなら尚更そうだ。私に余計なちょっかいをかけるなんて、有り得ない。
なのに、警戒しろって言われた言葉を曲解して、おかしなふうに捉えていた私は、なんて滑稽なんだろう。あまりにも滑稽すぎて、むしろ笑ってしまいそうになる。
「ふふ……」
いや、本当に、私の口からは笑いが漏れた。
バカだ。本当に、私はバカだ。
身体も心も重苦しくて、堪らずベッドの上に身を投げ出す。
と、不意に。
「痛……!」
腰の辺りに走った圧痛に、私は思わず声を上げた。
ゴロゴロする異物感に顔を顰め、すぐに、惚れ薬の小瓶だと思い至る。今日は鞄じゃなくポケットにいれていたのを、すっかり忘れて体重をかけてしまったらしい。
半身を起こし、私はポケットに手を入れた。そのまま、中から小瓶を取り出し──
(あっ!?)
私はそこで、驚いて手を止めた。
──薬はいつの間にか、美しい薔薇色へと染まっていた。
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