8日目 -3- 敗者は沈む
その日の夕方。
私は薬のお礼をするために、王立図書館までやって来ていた。
ルーフィスが届けてくれた薬は、彼の言った通り本当に飲みやすく、しかも効果絶大だったのだ。お陰で、あんなによろよろしていたのが嘘のように、すっかり回復してしまった。
この効き目から察するに、彼が買って来てくれたのは、私が想像したよりも、もっと高価な薬だったのかもしれない。
さすがに『代金を払うよ』なんて言うのは無粋だと分かるけれど、せめて、感謝の気持ちを伝えたかった。思い返せば受け取った時の私は、ルーフィスに『え!?』しか言葉を返していない。いくら具合が悪かったとはいえ、あまりにも酷すぎる対応だ。
(ちゃんと、お礼を言わないと……それにしても、ルーフィスに会えるかな)
立ち並ぶ書架の間で、きょろきょろと辺りを見回していた時だった。
「かまわないよ。……じゃないから」
(……あれ?)
私は、少し離れた場所で、話し声がすることに気がついた。
あまりよく聞こえなかったけれど、彼の声に似ていた気がする。来る途中で買ってきた差し入れを片手に、私は声のした方へと足を向けた。
「昨日は本当に……とう」
「それなら僕も嬉しいよ」
進むにつれ、話し声はだんだんと近づいてくる。
……と同時に、私は何だか嫌な予感がしてきていた。
話している一人は、もう確実にルーフィスの声だった。私が、彼の声を聞き間違えるはずもない。
そして、気になるもう一人。
彼が話している、その相手は――。
「あのっ。それでね、これ」
(この声……ディアナだ!)
聞き覚えのある声がはっきり聞こえて、私はビクッと足を止めた。その声と気配からして、二人は本棚を挟んだ反対側にいるらしい。
私は自分の表情が、硬く強張っていくのがわかった。
彼女は、どうしてここにいるんだろう。
ルーフィスと、何を話しているんだろう。
無意識に息を潜めた私の傍で、私の存在に気づかない二人は、そのまま会話を続けて行く。
「え? ディアナ、どうしたの。これ」
「あ、あたしは、ホラ! 高い物なんて買えないし、ほんと、大した物じゃないんだけどっ。もうすぐ誕生日だって聞いたから」
(え……)
ディアナのセリフを聞いたとたん、私の胸には、言いようの無い不安が広がった。
(まさか……受け取ったりしないよね? ルーフィス)
これじゃ盗み聞きだと思ったけれど、ルーフィスの答えが気になって、そこから足が動かない。
「そんな気を使わなくていいよ、ディアナ」
やがて聞こえてきたルーフィスの声に、気を張りつめていた私は息を吐いた。
(良かった……そうだよね。今までだってルーフィスは、女の子からの贈り物なんて、受け取ったことがないんだし……)
けれどそんなふうに安心できたのは、一瞬だけのことだった。
「そんなこと言わないで、受け取ってよ」
すぐに食い下がるようなディアナの声が、棚の向こう側から聞こえてくる。
「だって、そうでしょ。助けて貰いっぱなしじゃ、なんか気持ち悪いのよ」
「うん。それは……少しわかるよ」
(え?)
「それなら、はい! 素直に受け取ってよねっ」
「そうだね。それじゃ、遠慮なく貰っておこうかな」
ルーフィスの返事に、私の呼吸がピタ、と止まった。
「ありがとう、ディアナ」
「べ、別にっ。改まってお礼なんて止めてよね、恥ずかしいでしょ!?」
「そう?」
──私は今、一体何を聞いたんだろう。
くすくす笑うルーフィスの声を聞きながら、私は何が起こったのか、すぐには理解することができなかった。
(嘘だ……どうして? ルーフィス、その気もないのに期待させるのは嫌だって言ってたのに。受け取るってことは、それは――)
わからない。
わかりたくない。
足が自然に、元来た方向へ後退る。
けれど逃げ出す前に、私の耳には、しっかりと彼の声が届いてしまった。
「そうだ、ディアナ。今夜、ジェイのお店に顔出せない?」
「え? なんでよ」
「たぶん、リンカちゃんが来ると思うから。ちゃんと紹介したいと思って」
(!)
私は、ルーフィスの言葉に凍りついた。
(何……? 紹介って……)
全身から血の気が引き、体が勝手に震え出す。
「そっ、そんなの困るわよっ」
「どうして?」
「だって! 今さらどんな顔して謝ればいいのよ、あたしっ」
「大丈夫だよ。リンカちゃん、根に持つようなタイプじゃないから」
──嫌だ。
嫌だ。嫌だ。嫌だ──!
私はすべてを振り切るように、その場から逃げ出した。
* * * * *
──暗闇の中で、目が覚めた。
家に戻ってベッドの上に突っ伏すうちに、私は眠ってしまったらしい。
(今ごろ、ルーフィスは……)
ディアナと会っているんだ、と思っただけで、私は胸が締めつけられるように苦しくなった。
もちろん、私は今夜、ジェイのお店になんて行く気はなかった。……行けるわけが、なかった。
行ってしまったら、私はいったいどんなことをルーフィスに切り出されるんだろう?
『僕達、付き合うことになったんだ。リンカちゃんには、ちゃんと言っておこうと思って』
もしそんなことを言われたら、私はその場で叫び出してしまう気がする。
(やっぱり、私じゃ無理だったんだ……どれだけ一緒に過ごしても、どれだけ綺麗になる努力をしても……私じゃ、ルーフィスの気持ちを動かせなかった……)
恋には時間なんて関係ないということを、私は痛いほどに思い知らされた。
(だけど、それならどうすれば良かったんだろう。どんなふうに変われば、ルーフィスは私を好きになってくれたんだろう。ルーフィスが好きになってくれるなら、私はどんなふうにだって変わったのに……!)
そこまで考えて、私は泣き笑いの顔になった。
……いや。そんなのは無理だ。
例えルーフィスがディアナを選ぶとわかっていても、やっぱり私は、今の私にしかなれなかった。
知らない間に、私はシーツをきつく握り締めていた。指先が冷たく血の気を失っている。
のろのろと起き上がり、私は部屋の明かりをつけた。
けれど、それ以上はまったく何もする気になれない。食べることさえ億劫だった。そもそも食欲なんて、あるわけがない。
ベッドの端に腰掛け、私はそのまま動かなかった。
じっと座っているうちに、ふと、昼間のことが頭を掠める。
『あれ、リンカに用なんじゃないの?』
(……ああ、そうか)
フィリオに言われたことを思い出し、私は今さら気がついた。
あのときディアナは、私に謝りに来てくれたのかもしれない。結局、逃げてしまったけれど、図書館での話も合わせて考えれば、多分、そういうことなんだろう。
悪い子じゃなかったと言っていたルーフィスの言葉が、今なら、私にも分かる気がした。
ディアナはきっと、とても真っすぐな子なんだろう。好きも嫌いも、変な小細工なんかなく、正面から素直に気持ちをぶつけてくる。
そして、すごく芯が強い。
ルーフィスにそっけなくあしらわれても、ディアナは決して諦めなかった。彼女だって、冷たくされて傷つかなかったはずはない。それでも諦めずに、頑張って頑張って──そして彼女は、見事にルーフィスの心を掴み取ったのだ。
そんなディアナに、私が何を言えるっていうんだろう。
ルーフィスが離れていくのが怖くて、心を隠し続けた私が。
今までいくらでも伝える機会はあったのに、今の関係に縋りついて、ずっとずっと、遠回りなことしかできなかったこの私が。
わかっている。わかっていた。
──だけど。
私はくしゃりと顔を歪めた。
(私だってずっと……本当にずっと、ルーフィスのことが──)
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