1日目 -1- 惚れ薬を手に入れました
森の奥に住む魔法使いから薬を買った。
一度きりしか効果が出ないという、未完成の惚れ薬。
『それでも──あなたは、この薬を望みますか?』
魔法使いに問われた時、もちろん、ためらう気持ちもあった。
けれど買っても買わなくても後悔しそうだと思った私は、それならいっそ買ってしまえ、と愚かにも頷いたのだ。
(あの人は、色が変わるって言ってたけど……)
私はポケットから、硝子の小瓶を取り出してみた。中を覗くと、綺麗な真珠色の粒が淡い光を放っている。
(まだ、何の変化もないな。手に入れたばかりだから、当たり前か。それにしても、これが薔薇色になるなんて)
まだ、どうにも信じ難い。
瓶を手のひらの上で転がして、より注意深く眺めようとした──そのときだった。
「リンカ!」
(!)
急に背後から声を掛けられ、私は飛び上がるほどに驚いた。
慌ててポケットに薬を隠し、なんとか動揺を抑えて振り返る。
「な、何? ジェイ」
そこには私の良く知っている人物が、呆れ顔で立っていた。
「何っておまえ、仕事中にボケッとしておいて言うセリフか?ずいぶんいい度胸だな」
「えーと、それは」
私は言葉につまって目の前のジェイを見た。半端な長さの黒髪を、きっちりではなく無造作に束ねているところが、微妙に雑なジェイらしい。
私は『ジェイ』と呼んだけれど、彼の本名はジェイクと言う。
この居酒屋の主人であり、同時に私の雇い主だ。ついでに言えば、8つ年上の従兄弟でもある。
「ったく、今日はいつにも増しておかしいぞ、おまえ。春も過ぎたっていうのに陽気ボケか?」
ジェイはそう言うと、私の額をノックの要領でコンコン叩いた。
「いつにも増してって」
「ああ。いつもと同じでおかしいぞ、って言った方が良かったか」
「……」
呆けてたのは完全に自分が悪いので、いつものようにぽんぽん言い返せないのがもどかしい。だとしても『いつもと同じでおかしいぞ』だなんて、いくら何でも酷いんじゃないだろうか。
私は目の前のジェイをジロッと見た。
ジェイの私に対するこの口の悪さは、たぶん家族同様だという気安さからきているんだろう。9歳の時に両親を亡くした私は、伯父さん夫婦に引き取られジェイと一緒に育てられたのだ。
(まあ一緒に育てられたとはいっても、ジェイと暮らした期間は短かったけど……)
ジェイは二十歳のころには独立してしまったので、私と一緒にいたのは実質3年くらいのものだ。それでもやっぱり、ジェイにとってはただの従姉妹というより家族という感覚が強いらしい。それは、私も同じだったけれど。
「本当に失礼だよね、ジェイって。ときどき蹴っ飛ばしてやりたくなるよ」
「おまえ、そういう文句はやることやってから言えっての」
「え?」
「棚から大皿出しといてくれって頼んだの、すっかり忘れてるだろ、リンカ」
「あっ」
(そうだ。お店に来てすぐ頼まれてたんだった!)
私はジェイに言われて、初めてそのことを思い出した。薬に気をとられたせいで、まるっきり忘れていたのだ。
「ご、ごめん。すぐ用意するね」
私は急に弱気になると、慌てて奥の厨房へ引っ込んだ。
* * * * *
ジェイのお店は、お昼時と夜間の二回に分けて営業をするスタイルだ。
私は普段、開店前から昼食の時間帯までお店の仕事を手伝っていた。忙しそうなときには夜も手伝ったりしたけれど、それはかなり変則的だ。
手伝わないときには、お客としてここでお酒を飲むことも多かった。私はジェイの料理と、この地方特産の地ビールが大好きなのだ。
(……と、それにしても)
私は厨房の奥にある棚の前に立って、一瞬だけ躊躇した。
大皿の置かれている段は、私にとって何だか半端な高さだった。
踏み台を使わないと厳しいような、ギリギリで何とか届くような、微妙な感じだ。
(だけど、踏み台持ってくるのも面倒だな。このままでも何とか……)
そんなちょっとした横着心から、私は無理やり背伸びをして大皿に手を掛けた。そのとたん。
「いや、おい!? ちょっと待て!」
不意にあせったような声が背後で上がって、私は一度伸ばした手を引っ込めた。
「どうしてそんなところから取ろうとするんだ!?」
ジェイは困惑を通り越して怒っている。
「どうしてって、ジェイが用意しろって言ったからでしょ」
「言ったからでしょって、おまえ」
ジェイは呆れた顔をすると、大股で私の傍までやってきた。
「おまえ、人の話聞いてなかったのか?」
背も高く体格の良いジェイにこうして見下ろされるのは、なんというか無駄に威圧感がある。
けれど慣れきっている私には、今さらどうということもなかった。その場で呑気に首を傾げる。
「話って何だっけ」
「大皿の何枚かは下の棚に移したから、使うときはそこから出せって言っただろ。何でわざわざこんな出しづらいところから出そうとしてるんだ」
「え? 嘘」
「嘘じゃない、ちゃんと言った。しかもおまえ『わかった』って返事してた」
「……」
私は何も言えずに黙り込んだ。たぶん私は惚れ薬に気を取られて、思い切り上の空で返事をしたんだろう。
けれど、そんなことをジェイに言えるわけもない。
私がそのまま黙っていると、ジェイはしだいに心配そうな顔付きになった。
「おまえ、ほんとは具合でも悪いのか? 夜の準備もだいたい終わったから、今日はもう帰っていいぞ」
「え、でも」
「いや、帰れ。また呆けた挙句に皿でも割り出しそうな気がする」
「……」
ここは『失礼過ぎだ』と文句を言うべきか、それとも『気遣いありがとう』とお礼を言うべきか。
少しの間迷ったが、私は結局どちらでもない言葉を口にした。
「わかった。じゃあ、今日は早めに帰らせてもらうね」
* * * * *
ジェイの言葉に甘えて、私はいつもより早めに仕事を切り上げ店を出た。
街の雑踏の中を歩いて行くと、初夏の涼しい風が長い髪をさらさらと揺らしては流れて行く。
いつもより時間に余裕があったので、私はふと、普段は通らない道を通ってみようという気になった。適当な十字路で、角をひとつ左に折れる。
「これ、受け取ってほしいの」
(え?)
角を曲がるなり聞こえてきた可愛い声に、私はふっと視線を向けた。
こちらに背を向けている銀髪の男の子と、その向かい側に立っている黒髪の女の子。女の子の手には、明らかに贈り物らしき包みが握られている。
(あっ。これは)
まずい場面に来合わせた!と思ったけれど、引き返すにはもう遅かった。こちらを向いた女の子と、ばっちり視線がぶつかり合う。ちょっときつめの大きな瞳が印象的な、かなり綺麗な女の子だ。
私はその子に見覚えがあった。直接の知り合いではなかったが、ジェイの店で何度か見掛けたことがある。童顔だけれど歳は17、8で、私とそう変わらなかったはずだ。名前を、確かディアナといった。
けれど、今問題なのは彼女じゃなくて手前に立っている彼の方だ。
今からでも逃げようかと思った瞬間、ディアナの視線につられるように、良く知っているその背中がくるりとこちらを振り向いた。
「あれっ? リンカちゃん」
私の姿に気づいた彼は、びっくりするほど普通に声を掛けてきた。
その落ち着きっぷりは何なんだ、と詰め寄りたくなるくらいの何気なさだ。
そのとき急に、私は魔法使いの言葉を思い出した。
『ああ、ひとつ言い忘れていました』
惚れ薬を買った帰り際、忠告として言われた台詞だ。
『この薬は、もともとあなたのことを好きな相手にはあまり効かない物なのでご注意下さい。その場合は、記憶が残ってしまうんですよ』
記憶が残る?
心の中で反芻しながら、だとしてもそれがどうした、と私はやさぐれたくなった。
だって目の前の彼は、こんなところを見られているのに動揺する気配もない。綺麗な青紫の瞳は、普段と変わらぬ穏やかさで私のことを見つめている。
いったい私は、どれだけ虚しい忠告を受けたのか。
憎らしいほど平然としている彼に向かって、私は言った。
「あ……偶然だね。ルーフィス」
次話◆幼馴染:恋愛対象外な私