4日目 -6- 悪い虫には気をつけて
その夜の帰り道、ルーフィスの隣を歩きながら、私は半分うわの空だった。
ルーフィスは、数日後には二十歳になる。二十歳になれば、お酒も飲めるし結婚もできるようになる。そんなことはとっくに解っていたはずなのに、彼の言葉を聞いた瞬間、私は不安でたまらなくなった。
『そうしたらもう、遠慮はしないよ』
さっき聞いたばかりのルーフィスの台詞が、はっきりと頭に浮かぶ。
いや、ちゃんと解っている。私達は単に、お酒の話をしていただけだ。少なくとも、ルーフィスにとってはそのはずだ。
なのに私の胸の騒めきは、いつまで経っても治まらない。だって誕生日を迎えてしまえば、いつ『結婚』という形で、彼が私から離れて行ってしまうかわからないのだ。
「リンカちゃん、どうかした?」
妙に口数の少ない私が気になったのか、ルーフィスが声を掛けてくる。
「えっ!? う、うん。ちょっと、食べ過ぎたかな? お腹が苦しくて」
お腹よりも余程苦しい言い訳をして、私は何とかごまかし、笑って見せた。
貴方を想って悩んでいます、だなんて、とても言えるわけがない。
* * * * *
そうして歩くうち、私達はいつものように、家の前に辿り着いた。
誰もいない我が家は、当然ながら真っ暗だった。図書館から逃げるように帰った昨夜は気にする余裕もなかったが、こうして見ると、月明りの中にぼんやり浮かび上がる姿は、なかなか不気味なものがある。
「……」
「どうしたの? リンカちゃん」
着いたのに中へ入るわけでもなく、玄関前で立ち竦んだ私を見て、ルーフィスは首を傾げた。まあ、いきなり無言で動かなくなったのだから、不審にも思うだろう。
正直、暗いのが怖いなんて知られるのは恥ずかしかったが、私は素直に彼を頼ることにした。別に今さら、見栄を張るような間柄でもないと思ったからだ。
「あの……ごめん。灯りをつける間だけ、ここにいてもらってもいい?」
「え? ああ、うん。もちろん」
私が固まった理由を察したのか、少し可笑しそうにルーフィスが笑う。彼に見守られる中、私は玄関先のランプに火を灯した。
辺りにホワリと広がる光を見て、ようやくホッと息をつく。
やっぱり自分の周りが明るくなるだけで、安心感は段違いだ。いつも灯りをともして待っていてくれた伯母さんの有り難さが、今さらながら身に染みる。
お礼を言うため、私はルーフィスを振り返った。
「ルーフィス、ごめんね。ありが──」
「あ」
私の言葉の途中で、ルーフィスが一言、発する。彼の視線の向かう先は、なぜか私の顔ではなくて頭の上だ。
(?)
なんだろう。これはまた、花びらの時のように、髪に何かくっついているんだろうか。
私がそう思うのと、何かが頭に落ちて来たのは、ほとんど同時のことだった。
何も考えず、ほとんど反射的に手を伸ばす。と。
「あ。リンカちゃん」
「え?」
私を止めようとするルーフィスの身振りと共に、ひらり、と大きな枯れ葉が目の前に落ちてきた。
この季節に枯れ葉?と不思議に思ったとき。
「え、何……ひっ!?」
顔の前に飛んで来たそれに驚いた私は、大きく目を見開いた。私が大きな枯れ葉だと思ったのは、葉っぱによく似た、茶色の蛾だったのだ。
「ひぃぃ嫌あぁあー!?」
私の口からは、我ながら訳のわからない、謎の悲鳴が迸った。だってもう少しで、顔にぶつかるところだったのだ!
モサモサしたオレンジ色の触覚に戦慄し、横っ跳びに跳び退る。けれど避けた先にルーフィスがいたせいで、私は彼に、実に見事な体当たりを決めてしまった。
「──」
さすがのルーフィスも、これには驚いたようだった。私を軽く受け止めた形のまま、何も言葉を発しない。
いや、それはそうだろう。横にいる人間が、いきなりこんな体当たりをくらわせて来るとは、普通は思いもしないはずだ。ぶつかられた衝撃で、すぐには口がきけないのかもしれない。
しかも気づけば私は、ルーフィスの足まで踏んでいる……!
自分の所業に慌てた私は、虫を避けたのと同じ速さでルーフィスから跳び退いた。いやむしろ、虫を避けた時より速かったかもしれない。
「ご、ごめっ、ごごごごご」
「……。うん、いや、いいよ。だいたい大丈夫」
だいたい大丈夫、ということは、完全には大丈夫じゃないらしい。
それでも文句一つ言わないのがルーフィスだ。申し訳なくて慌てる私を余所に、彼は、いつもの落ち着いた調子で話し出した。
「それより、リンカちゃん。それ……」
「そ、それ? どれ?」
「うん、その香り。香油かな」
(!)
さすがにこれだけ接近したのだ。今度こそ、彼は私の香油に気がついてくれたらしい。まあ、接近という名の体当たりだったことは、この際、横においておこう。
けれど、やっと気づいてもらえたと喜ぶ間もなく、ルーフィスは思いもよらないことを口にした。
「なんだかそれ、蛾とは別の種類の虫を呼び寄せそうだね」
次話◆色づく心




