プロローグ -2-
「どこで、その話を?」
窺うように問い掛けられ、私は視線をさまよわせた。
いきなりこんなことを切り出したのは、やっぱり失敗だっただろうか。
何しろ目の前の彼からは、そんな物を扱っていると仄めかされたことすらない。私はただ、噂を聞いただけなのだ。
『あの薬屋では、惚れ薬を扱っているらしい』と。
「すみません。私……」
「ああ、誤解なさらないで下さい」
縮こまる私を見て、彼はわずかにその声音を柔らかくした。
「責めているわけではないんです。ただ、あなたがどこまで詳しい話を知っているのかと思って」
「いえ。詳しいことといっても……何も」
「……」
魔法使いは黙ってしまった。
彼にしてみれば、まさか何一つ知らない人間からこんなことを言われるなんて、思いもよらなかったんだろう。なんとなく予想はしていたが、やはり気軽に買える品ではないようだ。
(やっぱり、そうだよね。残念だけど仕方ないか……)
諦めて、帰ろうとしたときだった。
「いいでしょう」
「え」
「それなら、まずは現物をお見せしましょうか」
(!?)
あっさり店の奥へ引き返した彼に、私はひどく狼狽えた。
いや、自分で言い出しておいてなんだが、
『根も葉もない噂です。そんな薬は存在しません』とか『特別な方にしかお売りできないんです』とか、否定的なことを言われるとばかり思っていたのだ。
けれど彼は、否定どころか現物を見せると言う。
「これが、その薬です」
彼が薬を手にして戻ってからも、私の頭は追いつかなかった。惚れ薬なんてモノが本当にあったのか、そんな簡単に見せていいのか、と口には出せない思考が頭を巡る。
それでもどうにか動揺を抑え、私は彼の持つ物に目を凝らした。
(これが……?)
彼が手にしていたのは、透明な小瓶だった。
中に入っているのは、一粒の丸薬だ。指の先ほどの大きさの珠が、艶やかな光沢を放っている。
正直、もっとずっと妖し気な物が出てくるかと思っていたので、平凡な見た目をしていたことが意外だった。言われなければ、これが惚れ薬だとは気づかないだろう。
「ただ」
遠慮なく薬を眺めていたとき、不意に、彼が意味あり気な言葉を発した。
思わず凝視していた薬から、彼の口元へと視線を移す。
(ああ。やっぱり)
何かあるんだ、と悟った瞬間、私はなぜだかホッとした。
こんな簡単に話が進むなんておかしいと思った。買おうとしている私が言うのもなんだが、惚れ薬なんて代物をホイホイ売ってもらっては困るのだ。
もっとこう、気絶しそうな大金を要求されるとか、聞いたこともない材料が必要だとか、手に入れるにはそういう試練があってほしい。
私は、言いよどんだ彼を促した。
「何ですか、言って下さい」
「惚れ薬とは言っても、これが、あなたの望むような品であるのかどうか」
「え?」
彼が口にしたのは、お金のことでも、材料のことでもなかった。途惑って彼を見る。
「あの、それは」
「そうですね。何から説明しましょうか」
彼は思案するような暫しの間の後、静かな調子で語り出した。
「まず、ひとつめ。この薬は未完成です」
「えっ?」
あまりに予想外の言葉を聞かされ、私は目を瞬かせた。
「未完成?」
「ええ、このままでは。悪戯にこんな薬を使わせない為の仕様でもあるんですが」
そう言うと、彼は小瓶を持ち直し、私に向かって掲げて見せた。
「御覧になって下さい。この薬、今はこんなふうに白っぽいでしょう?」
「はい」
白く艶やかなそれは、まるで真珠のようにも見える。
「でも持ち主の感情に反応すると、徐々に色が染まっていくんです。日を追うごとに色を重ね、最後は深い薔薇色になる。その状態になって初めて、薬は効果を発揮します」
「感情に反応……」
「ですがそれは、あくまでも持ち主の想いが本物であることが条件です。逆に言えば、半端な想いでこの薬を手に入れても、何の意味も成しません。ただの高価なガラクタです」
感情に反応する薬なんて、今まで聞いたことがない。いや、ここは『さすが惚れ薬なんて物は普通じゃない』と納得するべきところだろうか。
「次に、ふたつめ。そうして薬が完成しても、この薬に持続性はありません。効くのは夜の間の半日だけ。しかも同じ人には一度しか効かないので、飲ませ続けてどうにかすることはできません」
「半日」
聞いた瞬間、短い、と感じた。けれどすぐに思い直す。
確かに長くはないが、それは『本来手に入らないものを、薬で捻じ曲げて得る時間』なのだ。そう考えれば、十分すぎるほどかもしれない。
「そして、みっつめ。薬が切れると、薬が効いていた間の記憶はすべて消えてしまいます」
(!)
正直、これが一番驚いた。
「記憶が消えるなんて、それは」
それを悪用されたらどうするのか。
投げ掛けようとした言葉は、瞬時に反転し、そのまま自分の胸に突き刺さった。
こんな薬を手に入れて、悪用しようとしている人間は、正に私なんじゃないのかと。
「あなたの懸念はわかります」
私の言おうとしたことを察したように、彼は深く頷いた。
「でも使うのがあなたのような女性の場合、逆のことを心配した方がいいかもしれませんね」
「逆?」
「好きでたまらない相手を目の前にすれば、理性を飛ばす作用が働きます。なにしろ、惚れ薬なんですから」
「……」
「ですので」
彼はそう言うと、おもむろに自分の手を差し出した。
「誰にでもお売りできるものではないんです。少しだけ確認させてもらってもいいでしょうか」
彼は、自分の手に私の手を重ねるよう促した。
なんとなく察するものがあって、言われるままに手を重ねる。
手を触れて未来を読む、そういう占いがあることなら知っていた。おそらくこの人も、触れた相手のことを読む力があるんだろう。
手を重ねたまま、彼も、私も、互いに無言の時間が過ぎる。
彼にはいったい、何が視えているというのか。
やがて長い沈黙の末、彼が何か呟いた。
『深い愛情』
あまりに密かで聞き取れない。
『そして、激しい恋情』
続けた言葉も、やはり密かで聞き取ることはできなかった。
たぶん私に聞かせる為の言葉ではなく、独り言なんだろう。少し気にはなったが、私は邪魔をしないように黙っていた。
「……わかりました。いいでしょう」
ややして、彼は何かを納得するように頷き、私の手をそっと離した。
「私からは、買えとも買うなとも言えません。ですので、あなたの方でよく考えて決めて下さい。決して安い買い物ではないのですから」
そして初めて、彼は具体的な値段を提示した。
想像したような、気絶しそうな大金ではなかった。値段は高価ではあったものの、手の出せる範囲のものだ。
あるかどうかすら不確かだった薬が、今確かに、手の届く物として目の前に存在する。
「リンカさん」
手を出そうか迷う私に、静かな声で彼は告げた。
「この薬を買うというのは、一度きりの、決して後には残らない夢を買うようなものです。それに、何をされるかもわからない。そのせいで、後悔をするかもしれない」
そして、最後に彼は問う。覚悟があるのか、私に確認するように。
「それでも──あなたは、この薬を望みますか?」