4日目 -1- 花の香りを身に纏う
薄暗い部屋の中、雨音で目が覚めた。
ぼんやりしたまま枕元の時計を見れば、すでに、銀の針は昼近い時間を指している。私は時計を二度見した。
休日とはいえ、ずいぶんひどい寝過ごし方をしたらしい。今日は朝から買い物に行くつもりでいたのに、昨夜、帰ってから洗濯なんかしたせいで、疲れが溜まっていたんだろうか。
私はベッドから起き出すと、窓の外の様子を見た。雨は土砂降りではないものの、かなりの強さで降っている。
ここまで寝坊したならもう、雨が止むのを待った方がいいかもしれない。どうせ予定はすっかり狂ってしまっているのだし、別に急ぎの用事があるわけじゃないのだ。
* * * * *
朝食兼昼食を済ませた後、私は、昨日買ったばかりの香油の瓶を手に取った。
香油の瓶の蓋を外すと、仄かな香りが立ち上る。昨日も思ったけれど、やはり、甘くて瑞々しい良い香りだ。
(これで、昨日のことを払拭できればいいんだけど……)
ふと図書館での出来事を思い出し、私は片手で顔を覆った。
『男の子みたい』と言われることには慣れていた私も、さすがに『おじいちゃんのニオイがするっ!』と叫ばれたのは、生まれて初めての体験だった。
いや別に、他に聞く人がいなかったなら、お爺ちゃんと叫ばれようが、お婆ちゃんと叫ばれようが、何でもいい。よりによってルーフィスの目の前だったのが、あまりに致命的だったのだ。
もちろん昨日のことなんて関係なく、異性としての私の評価は、もともと低いものだったろう。それでも昨日のあれは、ただでさえ低かった私の評価を、とうとう地に叩き落としてしまったんじゃないだろうか。いや落ちるというより、地面にめり込んだ気さえする。
(あまりにも、間が悪かったよね……)
私は自分の運のなさを、嘆かずにはいられなかった。
(あの男の子に会わなければ……いや、例え会ったとしても、飴さえ持っていなければ……ううん、そもそも、飴のニオイを指摘された時点で、図書館へ行くのを止めていれば……)
考え出すとキリがない。
延々と続きそうになる反省を、私はそこで打ち切った。済んでしまったことを嘆いていたって、意味がないのだ。とにかく今は、名誉挽回に努めよう。
……私に挽回できる名誉があるかは、我ながら謎だったけれど。
真っすぐで癖のない髪に、丁寧に櫛を通す。
日頃の手入れを頑張っているせいか、長い髪はサラサラと滑らかに櫛をすべった。色味が寂しい銀髪だけれど、こうして冷静に髪だけを見れば、なかなか綺麗かもしれない。華奢で儚げで綺麗だったという私の母なら、この髪色はさぞ似合ったことだろう。
そんなことを考えながら梳かすうち、髪は美しく仕上がった。元々艶のある髪が更に艶々と輝きを増し、香油を使って梳かしたことで、ふわりと甘い香りに包まれる。
(うん。何だか、すごく女の子っぽくなれた気がする)
気のせいだと言われればそれまでだが、こういうのは多分、気持ちの持ちようも大事だろう。
少しだけ自信を取り戻せたようで、私の気分は浮上した。
* * * * *
昼を過ぎてしばらくすると、幸いにも、空はすっきり晴れ上がった。朝の天気が嘘のように青空が広がり、雨上がりの街には眩しい光が降り注ぐ。
散歩がてら、のんびりと向かった先は、マリエンの勤める服屋だった。
服屋といってもいろいろあるが、マリエンの勤め先は、婦人服の専門店だ。そろそろ新しい服が欲しいと思っていたところだったので、今日は何か見立てて貰おう。
「あら、いらっしゃいませ。リンカ」
「おや、リンカ」
お店の扉を開けたとたん、振り向いた二人の人物に、私は思わず足を止めた。いや、一人はマリエンなので問題ない。正確には、マリエンの隣に立っていた人に面食らったのだ。
「ロ、ローサさんも来てたんですね」
このお店でローサさんと遭遇するのは、本当に珍しい。
マリエン曰く、服選びに迷いのないローサさんは、いつでも滞在時間が驚くほど短いらしい。今日は他にお客さんの姿が見当たらないから、すぐには帰らずお喋りでもしてたんだろうか。
そんなことを考えながら、店内に足を踏み入れた、そのとたん。
「ちょっと、リンカ。昨日は大丈夫だったかい!?」
勢いよく詰め寄られ、私は仰け反りそうになった。
「え? ええと?」
いくら何でも唐突すぎだ。いや、昨日と言うからにはあのことだろうか。
助けを求めるようにマリエンを見ると、彼女は肩を竦めて私に言った。
「昨日の飴の話でしょ。母さんに押しつれられたんですって?」
「そうそう、それ! 飴の話だよ」
「ああ……」
私は脱力気味に相槌を打った。昨日の飴については言いたいことがありすぎて、逆に何を言っていいのかわからなかったのだ。
私がそのまま黙っていると、ローサさんは驚くようなことを言い出した。
「いや、昨日あの後、リンカと入れ違いにフィリオが来てさ。それが、驚くじゃないか。あの飴、お菓子じゃなくて薬だって言われたんだよね」
「ぇえ!?」
思ってもみなかった話に、私は素っ頓狂な声を上げた。
「そう『ええ!?』だよね。びっくりだよ!」
「母さんにびっくりよ」
マリエンがすかさず突っ込みを入れたが、私も同じ気持ちだった。どうやったらお菓子と薬を間違えることになるんだろう。すでに訳がわからない。
「く、薬だったんですか!?」
「そうそう! 何でもフィリオの話だと、喉の痛みとか、炎症を抑えるときに使う薬なんだってさ。驚くよねぇ!」
「……」
ローサさんの話を聞いて、私はとても深く納得した。
あの飴が、薬臭いのは、当然のことだったのだ──だって薬なんだから!
「いやぁ、フィリオに注意されちまったよ。結構臭いがするから、普通は瓶に入れて持ち歩くもんなんだってさ。言われてみれば、あたしが貰ったときもちゃんと瓶に入ってたねぇ。嵩張って邪魔だから、あたしが中身を出しちまったけどさ」
「……」
何ともローサさんらしい話だと思いながら聞いていると、彼女は不意に、心配そうな顔付きになった。
「で、リンカ。昨日は大丈夫だったかい?」
あっけらかんとしたローサさんなりに、気にしてくれてはいたらしい。私は一瞬言おうか迷ったが、結局それを口にした。
「……『おじいちゃんのニオイがする』って言われましたよ……」
「えぇ!?」
ローサさんとマリエンが、驚いたように目を丸くする。
その直後、二人は弾かれたように笑い出した。
「わ、悪かったよ、リンカ。なんだい、こんな可愛い子つかまえて、酷いこと言うねぇ!」
「おじいちゃん……おじいちゃんのニオイって……」
笑い転げる二人は、すでに息も絶え絶えだ。他の客がいないせいか、マリエンは仕事そっちのけで笑っているし、ローサさんに至っては、本当に悪いと思っているのか疑いたくなるほど豪快に笑っている。
「ローサさん……」
「いや、ごめんごめん」
私が非難がましく名前を呼ぶと、彼女はやっと笑いを収めて私を見た。そして何を思ったか、私に顔を寄せてくんくんと鼻を鳴らす。
「な、何ですか?」
「母さん、ちょっと失礼でしょ」
「いや、昨日の飴のニオイがするかと思ってねぇ」
「えっ!? しませんよね!?」
私はぎょっとして確認した。
昨日着ていた服も下着も洗濯したのに、まだ臭いがするなんて言われたら泣けてくる。
「あはは、大丈夫。今日は薬のニオイなんてしないよ。……むしろ、何だか花みたいな良い匂いがするね。香油かい?」
(!)
指摘されて、ハッとした。
そういえば今朝は、新しい香油を使ってきたのだ。こうしてちゃんと人に気づいてもらえたことに安堵する。
「あ……そうです。ちょっと、使ってた香油を変えてみて」
「うんうん、やっぱり女の子は薬より花の匂いの方が似合うね。いや本当、悪かったよリンカ。あの飴も、もしまだ持ってるなら捨てていいからさ」
「いえ、あの、もういいです。あの飴も、喉が痛くなったときに食べます」
今さらローサさんを責めたって、意味がない。それに今回に限った話じゃなく、いつだってローサさんに悪気はないのだ。
次話◆新しい服




