3日目 -1- 薔薇の誘い
あくる日の朝、アリシア伯母さんは、伯父さんのいる街へと旅立って行った。
これでしばらくは一人きりだ、と思うと少し心細い気もしたが、まあ何とかなるだろう。不本意ながら、結局ルーフィスのことも巻き込んでしまったので、彼も私を気に掛けてくれるに違いない。
朝食に使った食器を片付けた後、私は花の世話をすることにした。
家の庭はそこそこ広く、水やりをするだけでもそれなりの時間が掛かる。普段は二人でやっているので、一人の今日はなおさら時間が掛かるだろう。
私は、いつもより少し早めに庭へ出た。
* * * * *
明日はジェイのお店の定休日だ。
庭に出た私は、どこかウキウキしながら、使い慣れた如雨露を手に取った。
鼻歌混じりに水を撒けば、雫がキラキラ光をはじいて目に眩しい。
房咲きの白鈴草がたくさんの蕾をつけ、その奥では、背の高いグラチェスタが美しい紫の葉を茂らせている。今の見ごろは、アーチに絡んだ蔓薔薇だろうか。
私は薔薇のアーチをくぐり抜け、その紅い花びらに手を触れた。一重咲きの花は小振りでやや地味だったけれど、この甘く瑞々しい香りは本当に素晴らしい。
何とも贅沢な気分で、私は深く息を吸い込んだ。本当は、もっとゆっくりこの香りを味わっていたかったが、そろそろ仕事へ行かないといけない時間だ。
いったん家の中へ戻り、持ち物を確認する。身支度は先に済ませていたので、後は特にすることもない。
今日の仕事が終わったら、何をしようか──そんなことを考えながら玄関先へ向かったとき、まるで、見計らったように呼び鈴が鳴った。
* * * * *
「おはよう、リンカちゃん」
訪ねてきたのは、思いがけずルーフィスだった。
「えっ、どうしたの? ルーフィス。仕事は?」
聞き返しながら、私は目をパチパチと瞬かせた。いつもなら、私が家を出る時間には、彼はとっくに仕事に出掛けているはずなのだ。こんな時間に、まだいるなんて珍しい。
「うん。今日は夜の当番だから、その代わりに遅く出勤してもいいんだ」
「夜って……あ、そうか。今日は、水の日だからだね」
ルーフィスがすべてを説明する前に、私は納得して頷いた。
水の日の今日は、王立図書館の夜間開放日だ。
週は光の日から始まり、火、水、木、風、土と続き、闇の日で終わる。
普段、王立図書館は夕方までしか開いていないのだが、週に1度『水の日』だけは、夜までの利用ができる。その当番が、今日はルーフィスに回ってきたということらしい。
「リンカちゃん、そろそろ仕事に行く時間かなと思って」
「え?」
「良かったら、途中まで一緒に行かない?」
(!)
思いがけない誘いに、嬉しさがこみ上げる。けれど喜んだ直後、悲しいことに、私はルーフィスが来てくれた理由を察してしまった。
(ああ、これは……)
どう考えても、昨夜、伯母さんに留守を頼まれたせいだろう。何といっても、昨日の今日だ。律義な彼は、さっそく務めを果たしに来てくれたらしい。
「あ、ええと」
ルーフィスの律義さに感心しつつ、少しの落胆を隠して口ごもる。すると、ルーフィスはわずかに表情を曇らせた。
「ごめん、急に来たりして。何か都合が悪かった?」
「えっ!? ううん!」
私は慌てて否定した。義務だと察して寂しくなったのは確かだが、気に掛けて来てくれただけで十分だ。片思いの分際で、贅沢を言ってる場合じゃない。
私は、できるだけ明るくルーフィスに笑い掛けた。
「誘いに来てくれてありがとう、ルーフィス。ちょうど今、出るところだったんだ」
「そう、良かった。……あ」
「え?」
言葉の途中で口を閉じたルーフィスが、いきなり私に向かって距離を詰める。
(!?)
驚いた私は、その場で思い切り固まってしまった。
「リンカちゃん。髪に」
(か、か、髪?)
「ついてたよ。ほら、綺麗な紅」
ルーフィスはどこか楽しそうに微笑むと、その指先に抓んだ物を、私に差し出して見せてくれた。
それは、小さな紅色の花びらだった。蔓薔薇のアーチをくぐったとき、知らずに付いていたらしい。
「──」
私は口もきけないまま、ルーフィスの指先にある花びらをじっと見つめた。ようやく状況が理解でき、驚きで固まっていた身体から力が抜ける。
いや、こんな場所でいきなり接近されたにしては、我ながらそこそこ落ち着いていられた方だと思う。玄関の扉は緩く開いていたが、その隙間はとても狭く、ほとんど密室といっていい状況だったのだ。伯母さん不在の今、もちろん人目だってない。
意識のしすぎで、過剰な反応をしなくて本当に良かった。……そう、思ったのに。
「……。急に近づいたから、嫌だった?」
「え」
不意打ちで問われ、私の体は再びパキッと固まった。
落ち着いていられた、なんていうのは、どうやら私の思い込みだったらしい。そうじゃなければ、わざわざこんな質問はされないだろう。
ルーフィスは聡い。変な言い訳をすれば、かえって墓穴を掘りかねない。
困って無言のまま冷や汗をかいていると、ルーフィスはなぜか謝罪の言葉を口にした。
「ごめんね。驚かせて」
(!)
彼は何も悪くないのに、どこか申し訳なさそうな顔で私を見ている。
「な、なんで謝るの? 嫌じゃないよ、別に」
ようやく、固まっていた私の口が動いた。どうにか頭を働かせ、ごまかすための嘘を口にする。
「さっき庭に出たから、虫でもついてたのかと思って」
「虫? ああ、なんだ」
私の嘘を信じたらしいルーフィスが、安心したように息をつく。
「それなら大丈夫だよ。虫なんて、どこにも……。……」
(え?)
私に答えてから一拍後、ルーフィスの口から突然、くっと笑い声が漏れた。堪えようとしたけれど堪えきれなかった、といった感じの笑いだった。
(え? なんで?)
訳が分からず、ただポカンとルーフィスを見上げる。今のやり取りに、笑う要素なんてあっただろうか。
「え、何。どうしたの? ルーフィス」
「いや、ごめん。だって」
あ。何だか嫌な予感がする。
残念なことに、私のこの手の予感は当たるのだ。そう思った瞬間、ルーフィスは言った。
「リンカちゃん、子供のころは平気でいろんな虫を掴んでたのに、って思ったら、なんだか可笑しくて」
「──」
できることなら『えっ、そうだった?』と、わざとらしく惚けてしまいたかった。
けれど、いくら私が忘れたふりをしても、ルーフィス相手じゃそれは無駄な抵抗だろう。私は虫を捕まえて遊んでいた上、調子に乗って、ルーフィスに捕まえ方のコツまで伝授していたのだ。
(こんなことなら、他の女の子と一緒に、大人しく花でも摘んでいれば良かった……!)
そうは思ってみたが、今となっては後の祭りだ。過去の自分が恨めしい。
「わ、私だって、苦手な虫はいるよ。大きな蜘蛛とか、大きな蛾とか、大きな」
「小さければ平気なんだね」
「──」
思わぬ指摘に撃沈して、口を噤む。
なんだろう。悪意がないからこそなのか、ルーフィスの言葉は時々素晴らしい切れ味だ。
「あ、いや、ごめん。流石リンカちゃんだなと思って」
私の反応を見てまずいと思ったのか、ルーフィスが謝罪の言葉を口にする。けれど、その肩が笑いを堪えるようにぷるぷる震えているのを私の目は見逃さなかった。
流石って、いったい何がどう流石なのか。
いや、ここで追及するのは止めた方がいいだろう。ルーフィスの口から、更なる(私にとってだけ)痛い想い出が飛び出しそうだ。
私は突っ込むのは止め、ルーフィスに軽く抗議するだけにした。
「ちょっと笑い過ぎだよ。ルーフィス」
「ふふっ、ごめん」
ルーフィスはようやく笑いを収めると、ふと外を見ようとするように、わずかに開いた扉の方へ目を向けた。
「……でも、そうか。リンカちゃん家の薔薇だったんだ」
「え、何?」
「さっき玄関先に来たとき、すごく良い香りがしたんだ。どこで咲いてるんだろうって思ったんだけど、風向きで香りが漂って来たんだね」
そう言ったルーフィスは、何だかやたらと楽し気だった。その様子に、ふっとある考えが頭に閃く。
(そうか。もしかして、これなら──)
私はルーフィスの言葉に、光明を見た気分だった。
昨夜はもう、何をどう努力すればいいかわからなくて落ち込んでいたけれど、今思いついたことなら、あるいは上手くいくかもしれない。
「そろそろ行こうか、リンカちゃん」
「あ、うん。そうだね」
ルーフィスに向かって頷きながら、私はさっそく、頭の中であれこれ考えを巡らせていた。
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