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2日目 -3- 勇ましい過去の傷

「さっきはずいぶん楽しそうだったねぇ」

 私の咳もマリエンの笑いも収まったころ、ローサさんが出来立ての料理を手にやってきた。

「あ、母さん」

 そう言ったマリエンの目は、笑い過ぎのせいかまだ涙で濡れている。


 ローサさんはマリエンの母親で、昔からずっとこの店で働いてくれている人だった。

 明るくあっけらかんとした性格で、時々そのあっけらかんが行き過ぎることもあるが、基本的には良い人だ。


「ほんとよく飲むな、おまえら」

 そこへジェイも現れた。私とマリエンが追加注文したビールを持ってきてくれたみたいだ。


「それで、いったい何を笑ってたんだい?」

「ああ、さっきのあれ? リンカがね」

「──あ。駄目だよ、マリエン」


 ローサさんに答えようとしたマリエンを、意外にもルーフィスが遮った。爆笑していたマリエンを見て、さすがにマズイ話を暴露してしまったと思ったのかもしれない。

「え? 何よ、ルーフィスだって笑ってたくせに」

 笑っていたとはいっても、遠慮知らずで笑っていたマリエンとは違って、ルーフィスはふふっと楽しそうにしていただけだ。


「なんだい。内緒にされると気になるねぇ」

「ん? まあ、そうね」

 ローサさんに水を向けられたマリエンが、どうしようかというように、私とルーフィスの顔を交互に見る。けれど結局、彼女が口にしたのはかなり無難な答えだった。

「まあ、あれよ。リンカが子供のころ、男らしくて格好良かったって話してたのよ」

 ルーフィスに止められたせいなのか、それとも私が可哀そうだと思ったのか、どっちにしても『ぶっ飛ばすぞ』の一件は、伏せてくれる気になったらしい。

 ──ただ、それでホッとした私は、かなり浅はかだったようだ。


「ああ、リンカが子供のころかい?」

 何かを思い出したように頷いたローサさんから、まさかの、次の矢が飛んで来た。

「そういや、勇ましかったねえ! 野良犬と戦って怪我したりさ」

「ロ、ローサさんっ!」

 私は慌ててローサさんの話を遮った。


 今ここで、その話をされるのは困るのだ。

 ──ルーフィスの、いる前では。

「あれは戦ったんじゃなくて、追い払っただけですから!」


 きっぱりと言いながら、私はちらっとルーフィスの様子を窺った。……思った通り、ルーフィスは表情を曇らせていた。さっきまですごく楽しそうにしていたのに、それが嘘みたい消えている。


(ルーフィス、やっぱり今でも気にしてるんだ……)

 何だか逆に申し訳ない気分になりながら、私はその出来事を思い返した。



 * * * * *



 もう、ずいぶん前の話だ。

 私がまだ子供のころ、家の近所に野犬が現れたことがあった。


「怖いわねぇ。リンカも、外で遊ぶのはしばらく控えてね。お願いだから」

 伯母さんに泣きつかれたのもあって、私はしばらく家で大人しく過ごしていた。


 それでも、しばらく何事もおこらないと油断も出てきてしまうものだ。

 初めは学校の帰りも必ず誰かと一緒に帰っていたのに、その場面に出くわした時、私は一人きりだった。


 最初に私が気づいたのは、低い唸り声だった。

 それから、遠くにいる二つの影が目に入った。

 影の一つはルーフィス。そして、もう一つは──今にも彼に飛び掛ろうとしている大きな野犬の姿だった。

「――!」

 気がついたとき、私は後先も考えず真っ直ぐルーフィスの元へと駆け出していた。


 それから後のことは、頭が真っ白で何ひとつ覚えていない。

 とにかく私は野犬を追い払うのに無我夢中で、野犬が逃げて行った後も、声を掛けられるまで自分がどういう状態なのかわからないくらいだった。


「リンカちゃん!」

 蒼ざめたルーフィスの叫びで、私はようやく我に返った。

「あ……大丈夫だった? ルーフィス」

「何言ってるの!」

 ルーフィスは、叱りつけるような厳しさで私に向かってぴしゃりと言った。

「噛まれてこんなに血が出てるのに、何で僕の心配なんかしてるの! お医者さんに連れて行くから、すぐに負ぶさって」

 驚いて視線を落とすと、確かに私の足からはダラダラと血が流れていた。

 ルーフィスは持っていたハンカチで私の傷口をしばると、そのまま私に背中を向けた。

「え……大丈夫、歩いて行けるよ」

「リンカちゃん!」

 それは普段のおっとりしたルーフィスからは考えられないような、とても鋭い声だった。

「わ、わかった……」

 その迫力に気圧されて、私はおそるおそる彼の背に体を預けた。


 今でも良く覚えている。

 あの頃の、まだ細い体つきのルーフィスと、それよりずっと背が高かった私の姿。

 少女のように華奢な体で、自分よりも重い人間を背負って、ルーフィスはただ黙々と歩き続けた。

 しだいに荒くなる息づかいと、その額に浮かぶ汗。

 怪我をした私より、ルーフィスの方が苦しそうなほどだった。

 それでも、ルーフィスは私を降ろそうとはしなかった。

 ──決して、降ろそうとはしなかったのだ。



 * * * * *



 噛まれたところは浅くない傷だったけれど、幸い膿をもったりはせず、順調に治っていった。

 噛まれただけで食われた訳ではないので、抉れたりもしなかった。

 それでもルーフィスが未だにあのことを気にするのは、多分、私の足に傷跡が残ってしまったからなんだろう。


 ただ傷跡とはいっても、私から言わせれば、それは全然大したものではなかった。

 何年も経った今ではかなり薄れて、間近でじっくり見なければわからない。そして当然ながら、女の子を足を間近でじっくり見ようとする人なんて、いるはずもなかった。いたとすればただの痴漢だ。


(だからもう、ルーフィスが気にすることなんてないんだけど……)


 気にしないでと言えば逆に気にさせてしまいそうで、どうにも話自体に触れにくい。

 何か違う話題を振った方がいいのかと頭を悩ませていると、ローサさんが意外なことを言い出した。

次話◆隠しきれない恋心

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